第一章 人の章
「壁を越える」
19-1
【ダリューラ分裂】
アネキウス暦7200年代後半、統一国家ダリューラは、三足族の国リタントと有羽族・生耳族の国ホリーラへと分裂した。分裂戦役と呼ばれる長い戦の後、国境線に沿って建設された壁により、両者は完全に袂を分かつ。
争いの原因は今となってははっきりとせず、魔物と手を組んだ三足族が反乱を起こしたというのがホリーラにおいての定説である。
19-2
それは拍子抜けするほど、簡単な侵入だった。
誰にも見咎められず、誰にも問い詰められず、四人はその町の宿屋へと潜り込んだ。
「脱いでも平気だよね」
窓を閉め、廊下にも誰もいないのを確かめてから、ミュアはニッカに借りていた上着をベッドへと脱ぎ捨てて羽を伸ばす。
「うー、窮屈だった」
普段出しっぱなしなだけに、服に押し込めていると息が詰まりそうな感覚がある。今までは野宿だったので、うかつに広げられなかったのだ。
「そんなに邪魔なら、俺がむしっ……」
「いや」
からかい混じりのシードの提案を、ミュアはにべもなく断った。何も考えずにちぎり取るから背中の肉まで一緒に取れているわ、時折バランスが取れないらしく転んでいるわと、シードを見ていればろくなことがないのは明白だった。大体、服の下に羽があるなんて、すれ違う人々は疑いすらしていない様子なのだから。
「ほんと、ばれないものなのね」
「アピアとセピアだって、三足族だと見抜かれたことなんてなかったでしょう?」
ミュアの嘆息に、熱地の時のように頭に布を巻いて耳を隠しているニッカが答える。
そう、誰も想像すらしていないのだ。壁を越える者がいるなんて。村で暮らしていた頃の自分がそうであったと同じに。
なるべく人里を避けて、森の中を進んできたのは杞憂だったと言える。もちろん異種族だとばれないのとは別に、セピアの姿を出来るだけ人目には晒したくなかったので、用心はしてしすぎることはないのだが。
ここで町に入ることにしたのは、体力の問題と、何よりさすがに手持ちの食料が心もとなくなってきたためだ。それに可能ならば、王都の情報も仕入れておきたい。
「まず買い物に行かないとね」
何気なくそう言った後で、ミュアはあることに思い当たり、顔からさっと血の気を引かせた。
「どうしたんです?」
気づいて問うニッカを、彼女は見返す。
「そういえばどうするの……お金」
あまりに順調だったために、ここが異国だということを失念しかけていた。当然ホリーラのお金が使えるはずがない。
セピアを見やるも、彼はぶんぶんとかぶりを振ってみせた。元々アピアが管理していたようだし、経緯からして持っていないのだろう。
このままでは宿代が払えず、犯罪者への道しかない。
「ああ、平気ですよ」
しかしニッカは顔色を変えず、一枚の硬貨を放ってきた。
「シードが良いものを持ってましたから。費用は全部シード持ちで良いんですよね?」
「好きに使えばいいだろ」
受け取った硬貨は随分古ぼけたものだったが、金貨の様子だった。セピアもミュアの手元を見にきて、首を傾げる。
「これ、リタントのお金じゃないよ」
「そうですよ。それは、ダリューラ時代の古銭ですから」
言われて良く見てみれば、そのような文字がうっすらと読み取れた。
「なるほど、これならリタントにも残ってるはずね」
「そういうことですね」
換金してもその点では怪しまれることはない。
「でも、子供が持ってるようなものかな」
今までもシードは換金しているはずなので出来ないことはないはずだが、ここで目立つ真似はとにかく避けたいところだ。
「それも平気です。僕らはここでは子供じゃないんですから」
「あ、そうか。子供は僕だけってことになるんだ」
セピアが手を打ち、ミュアも遅れて理解する。道理で宿屋もあっさり取れたはずだった。
性別を有しているということは、いくら幼く見えようとも、リタントでは成人しているということなのだ。
「そりゃいいや。酒も問題ないってことだな」
調子に乗って、またろくでもないことを言い出したシードを、ミュアは睨みつけてやった。
19-3
「ここから王都までは、何もなければ三日ぐらいで着けると思う」
地図に書き入れながら、セピアは今後の道程を指し示した。
「でも、城に入れるかどうかは……ちょっと分からない」
続いてセピアが書いた城の簡単な見取り図からすると、彼の言う通りに侵入は難しそうだった。
城は湖の中に浮かぶように建ち、そこと城下町をつなぐのは一本の橋だけなのだ。当然、町側に舟など用意することは許されず、大体湖を進むのは目立って仕方がないだろう。どうぞ捕まえてくださいと言っているようなものだ。
「それよりも前に、考えておかなきゃいけないことがあるでしょう」
こういう時にはりきるはずのニッカに目を向けると、意外にも彼は水を差してきた。
「何だそりゃ」
「何を目的として城に侵入するかですよ」
「んなの決まってるだろ、奴をぶっ……」
「シードはともかくとして、アピアを助けるのが目的でしょ?」
不穏な単語を遮り、ミュアが答える。
「うまく助けられたとしましょう。その後どうするんですか?」
「それは……」
そのままホリーラに戻り聖山を目指す、という訳にはいかないし、意味もない。ここまで踏み込んでしまった以上、城へ戻るということ、それは。
「父上を見つけ、伯父上を告発する。そうするしかないんだね」
つまり、この手勢で対決を余儀なくされるということだ。まさか相手は乗り込んでくるとは思っていないだろうから、いかに秘密裏に素早く行動するかが鍵となるだろう。
「もしくは、城へ行くのは諦めて、ここから改めて南を目指すという手もありますが」
セピアがホリーラにいることは確認されている。リタントの警戒は必然的に緩んでいるはずだった。
「はあ? 何だそりゃ、俺は行かねーぞ」
しかし、即座にシードが不満を鳴らす。セピアもまた、気の乗らない顔をした。
「でも、それじゃあ……」
「ここまで来た以上、方向転換は無理じゃない?」
三人に口々に否定され、ニッカは肩をすくめる。
「分かってますよ。確認しただけです」
万一セピアが南に行くと言ったところでシードが従うはずもなく、彼が城に乗り込んだら、たちまちリタント国内の警戒は厳重になるだろう。意味はない。
「ただ、これからやろうとしていることが一番無茶で無謀だってことさえ、認識しててもらえれば」
止めても仕方がない以上、もうぶつかるしかないのだ。
「僕らに有利な材料は幾つかあります。例えば、国民レベルで謀反の事実が知られていないこと」
王城で発生した病のため、城仕えの多くの者が倒れ、王族一家も臥せっているという建前は、いまだ撤回されていないらしかった。たぶん上層部でのみ密やかに交渉や懐柔が行われ、乗っ取りの正当化の地固めがされているのだろう。
「正直なところ、国をホリーラに開くつもりだと知れれば、謀反を支持する人は少なくないでしょうね。勢力は割れ、待っているのは戦です」
謀反側としても、それは避けたいのが明らかだ。無駄に国を疲弊させても益はなく、穏やかに権力を奪えればそれに越したことはない。従って、あまり目立つ真似は彼らにも出来ないということ。
「たぶん城の中も全部は掌握してないんじゃないでしょうか。その辺りは王都に着いてから改めて探らなくてはなりませんが、あまり物々しくても疑いを呼びますし」
従者たちを全部抱き込んだり入れ替えたりするのは不可能だろうし、病を口実に殺す数にも限度がある。建前しか知らされずに、セピアがいた頃と同じように働いている者もいるはずだ。
セピアに聞くと、仲の良かった者の名前は数十人単位で述べられた。
「やたら多くない?」
ミュアの素直な疑問に、セピアは赤面する。
「……威厳がないからだって、良く言われた」
「や、別に悪いことじゃないと思いますが」
たぶんセピアは城にいても今のままで、特に肩肘張ったりはしていないのだろう。彼の性格からして、表裏なく可愛がられていただろうことは窺い知れる。
「それだけいれば、どなたかと繋ぎをつけることは可能でしょう」
必要なのは情報だ。後手に回った時点で、自分たちに勝ち目はなくなるだろう。
まずは王都まで、見つからずに移動することが肝要だった。
19-4
湖を渡る風が窓より入り込み、そこに掛かる薄布をなぶっている。わずかに湿り気を帯びた、懐かしい匂い。
押し込められたのは自分の部屋ではなかったが、見える景色から同じ塔の部屋だろうことが類推できた。入念な点検が行われた後なのか、家具にはところどころ動かした跡が見受けられる。
アピアは寝台の端に腰掛け、押し黙ったまま外を眺めていた。部屋の中には衛士が二人詰めており、監視の目を向けている。着いてしばらく経ったが、サラリナートもゼナンもここには姿を現していない。
静かだった廊下が不意に騒がしくなった。アピアはわずかに体を固くし、これからの対面に心を備える。はたして開いた扉から現れたのは、伯父と従兄の姿だった。
「おい、何をしている」
姿を見せるなり、ナッティアは控えていた衛士を叱咤する。
「手足の枷を外してやらないか、可哀想に」
当然、衛士の意思で拘束していたはずもないが、彼らは謝って枷を外しにかかる。アピアはさせるがままにし、ただ顔を上げて挨拶をした。
「お久しぶりです、伯父上」
「ああ、顔を合わせるのはどれぐらいぶりになるか」
「二月ほどになります」
「そうか。それは長いご無沙汰だったな」
白々しい会話が重なっていく。
「少し痩せたか」
「何しろ病気でしたもので」
「ああ、ひどいものだ。お前だけでも回復したのは、喜ばしい」
しかしそれも限界だった。アピアは正面からナッティアを睨みつけ、呻くように問う。
「父上と母上のお加減は?」
「良くはないな。残念ながら」
「会わせろ」
「それは出来ない」
「会わせなければ、お前らに協力などしない」
たちまち満ち始めた不穏な空気に、衛士たちが身構える。しかしナッティアは彼らを見やり、先のように壁際へと控えさせた。
「我々の間には、不幸な誤解があるようだな」
そして、やれやれといった風にわざとらしく肩をすくめ、なだめる口調で話しかけてくる。
「何も意地悪で言っているんじゃない、お前の心配をしているんだ」
「ありがとうございます。でもご心配いただかなくても結構です。会ったとて、けして病気がうつることはありませんから」
棒読みの嫌味に、ナッティアは再びため息を吐く。
「分かった分かった。お互い率直に話すことにしようか」
アピアは無言でそれに答えた。そこでナッティアは椅子を引き、相対するように座り込む。言葉を探っているのか、少しの間沈黙が落ちる。
「……アピア、お前はどう思う」
彼は確かに率直に話すことにしたらしかった。発した言葉は、真剣な重みを伴っていた。
「奴の計画を、壁を開くことを、本当に正しい行いだと考えているのか」
黙ったまま言い分を聞くアピアに、ナッティアはなおも語りかける。
「今さら異種族との交流など始めて何になる。もたらされるのは混乱と疲弊のみだ。どうしてわざわざこの国の平穏を破る必要があるのだ?」
「……父上は何と答えました」
「あれは歪んだ妄念に取り憑かれてしまっているのだ。もはや説得の言葉さえ届きはせん」
大きな苦々しいため息が彼の口から吐き出される。
「魔術師を名乗る怪しげな人物の出入りすらあったと、耳に挟んでいる。これ以上、王とはいえ好きにさせる訳にはいかなかった。弟を押し留めるのは兄の役割だ」
伯父は正しい。
アピアはそう思う。
彼の主張は多くの者を納得させるだろう。
けれど、その正しさと同時に彼はまた。
「伯父上、答えてください」
そしてアピアは問うた。
「そんなにまでも貴方は王になりたいのですか」
19-5
一片の曇りなく正しい人間がいたならば、どんなにか良いことだろう。口で述べるのと同じほどに、行いも正しい人間はどれぐらいいるのだろう。
言いがかりだと切り捨て、怒っても当然だろうアピアの問いに、しかしナッティアは答えなかった。それに対し、彼はまったく違う方向で返してきた。
「アピアよ、俺は正直なところ、お前に同情しているのだ」
聞かれて困る者などいないだろうに、彼はわずかに声を潜め、囁くように語り掛けてくる。
「お前は兄で、才に溢れ、しかも印すら持っているのに、軽んじられている」
アピアは目を合わせることを止めて、うつむいた。下手に応じる訳にはいかなかった。
「父親が外へと連れて歩くのは、あの人当たり以外さして取り得のない弟ばかり、お前はいつも取り残されていたな」
ナッティアの口調に熱が篭る。彼の心にどういう思いが去来しているのか、アピアには推し量ることしか出来ない。兄と弟。認められた者とそうでない者。
「この城の留守を任されていると言えば聞こえは良いが、俺から見れば末子可愛さにお前をおろそかにしているようにしか見えなかった。……違うか?」
アピアは答えなかった。ただ床を見つめ、沈黙を守っている。ナッティアもまた、アピアの答えを必要とはしなかった。彼はアピアの肩に気遣うように手をやり、尚も言葉を継ぐ。
「王はお前を飛ばして、弟に直接継承を行なうつもりだとの噂すら流れる始末だ。何ともひどい話もあったものだ」
乗せた手から、身を硬くしたのが伝わってしまったのだろうか。彼はついにそこへと踏み込んできた。
「それを感じていたからこそ、お前もまた、あれを好いてはいなかったろう?」
「……僕は」
こぼれた言葉は元には戻らない。先を促す伯父の視線をうなじに感じながら、アピアは口をきつく引き結んだ。
そうだ。そうだ。恨んでいたとも。
それは紛うことなき逆恨み、愚かしいだけの八つ当たり。何度彼の気持ちを踏みにじったことか。その痛みは何をしようが、けして取り返せないもの。
だから僕は、何よりも彼のために。
アピアは再び口を開いた。
「僕はこれ以上、貴方と話す気はない。僕の条件を先に出しておく。母上の解放だ」
拒絶の言葉を、伯父に向けて叩きつける。
「それがなされない限りは、僕がお前らに従うことはないと思え」
しばらくの後、ため息が頭の上から落ちてきた。
「ようやく帰ってきたのだ。まずゆっくり大事な体を休めるといい。そうするうちに、気も落ち着くだろう」
覆いかぶさっていた気配が遠ざかる。ナッティアは今日の説得を諦め、一旦引くことにしたらしかった。うつむいたままのアピアの耳に、足音と扉が開け閉めされる音が届く。
それと共に顔を上げたアピアは、目の前に思ってもいなかった姿を認める。
ディーディスの姿だった。
19-6
父親と共に部屋に入ってきた彼は、一言も口を出さずにその後ろに控えていた。いつもそうだから、特に気に留めなかったのだ。
その彼が、父について出て行かずに何故か残ってこちらを見つめている。
「……行かないのか」
自然とそう尋ねるが、彼はわずかに眉をひそめただけで答えなかった。どうやら話がある様子だ。
ちょうど良い。自分もまた彼に話があった。
こちらから切り出さず、相手の出方を待っていると、ディーディスはおもむろに近づいてきた。
「髪、切ったのか」
そして手を伸ばし、髪を触ってくる。途端に彼は顔をしかめた。
「何だ、その首の痣は」
アピアはその手を叩き払い、彼の顔を睨みつけた。
「サラリナートをきちんとねぎらってやれ。彼はお前らの思惑通り、仕事を果たしたのだから」
矛盾していると分かりつつ、言わずにはいられない。壁の向こうにまで送り込み、危険な目にさらしながら、適当な扱いをするなんてことは我慢できなかった。
「そして、二度と彼を巻き込むな。いいな」
報われれば、サラリナートの方から近づいてしまうだろうけれど、それでも。
「今回のような真似をしたら許さない」
サラリナートをゼナンと共に派遣した意味を知らないとは言わせない。もちろん説得させるためではあるだろうが、それ以上にサラリナートは人質としての役割を負わされていたのだ。ディーディスの発案ではないだろう。けれど、言いくるめたのは目の前の彼に違いなかった。
「父親の言いなりのまま、こんなことまでしておかしいと思わないのか」
ずっとディーディスはそうだ。彼が父親に逆らったところを見たことがない。いつだって興味のないような顔をして、父親の言うことに従っている。
昔はそうじゃなかった気がする。一緒に遊んだ記憶は遥か遠いものでほとんど覚えていないが、悪戯だってしたし、何より良く笑っていたような微かな思い出があった。
いつからこうなってしまったのだろう。今の彼は、父親の道具に過ぎない。
だから、彼がこう言い出したことは、アピアには意外だった。
「別に、あの人の望みだからってだけじゃない。俺が望んだことでもある」
ディーディスの望み。
分からなかった。彼はそんな素振りを今まで見せることもなかった。
「何も欲しいものはないって言っていたくせに。何を望んでこんなことをするんだ」
それ以上口を開かない彼を、アピアは問い質す。すると、彼は再び手を伸ばしてきた。避けないでいると、顎を掴まれ、上を向かされる。
「欲しいものはずっと、ただ一つだけだ」
彼は見ている。
額の選定印を。
「こうしなければ、手に入らない」
それはつまり、彼の望みが王位だということ。
「離せ!」
半ば突き飛ばすようにして、アピアはその手を振り払った。反動で、腰掛けていた寝台へと自分も倒れこむ。起き上がろうとしたが、力が抜けてしまってうまくいかない。
「出て行け!」
近寄る気配に、アピアはそちらへ顔を向けないままに言葉をぶつける。
「出て行け、出て行け!」
駄々をこねるように同じ文句を繰り返していると、気配は薄くなる。やがて遠ざかる足音と、扉を開閉する音がして、部屋の中には静寂が下りた。
アピアは体を起こすのを諦め、力の入らない手足を無造作に投げ出したまま、ぼんやりと天井を見つめる。
悔しさに涙が溢れそうだった。
19-7
王都ともなれば、己の権勢をはっきりと他に示さなければならない。それはホリーラもリタントも同じ心情のようで、城と街がはっきりと分離しているこのフィアカントにおいてさえも、街の建物は城に習うように石造りのものがほとんどだった。
ずっと思い描いていた光景を目の前にしたミュアは、改めて感嘆の息をつく。もっとも、彼女が考えていたのはホリーラの王都のもので、まさかリタントの王都を先に見ることになるとは夢にも思っていなかったが。
「リーラスもこんな感じ?」
「まあ、似てるな」
シードに問うと、気のない顔でそう返された。
石畳はたまに爪先に引っかかり、足を取られそうになる。土を埋め尽くしたその様は、少しの魔物の侵入も許さぬというようにも見える。
顔を上げれば、家々の屋根の向こうに幾つもの塔がそびえ立つのが目に入る。それこそがリタントの中心、湖に浮かぶ王城だった。
あそこに侵入するのだ。
王都に入る前に湖畔の道を歩いてその姿を確認した。水に囲まれ、うず高く積まれた城壁を見ると、さすがに気圧される。セピアによると、分裂戦役の頃、本拠地だったところにそのまま建てたそうだ。
どう考えても力づくでは無理そうだった。
「こっちです、こっちこっち」
目的の店の手前で、路地から声をかけられる。張っていたニッカの手招きに従い、三人はそこへと身を潜めた。
「その人はまだ出てきてないの?」
「ええ、まだです。セピア、確認お願いしますね」
「うん」
見張っているのは店の裏口だった。しばらく待つと、扉が開いて一人の女性が姿を現す。セピアは頷き、彼女の名を呼ぶ。
「ウレーニィ」
突然横合いから名を投げられた彼女は、戸惑ったように立ち止まり、視線をきょろきょろと泳がす。それが路地から覗かせたセピアの顔に止まった時、彼女の口はぽかんと開いた。
「あ、えーと、元気だった?」
固まってしまった彼女に、セピアはぎこちなく挨拶した。
「……セ、セピア様!」
途端、彼女は悲鳴のような声を上げる。
「どうしてこんなところに。お体は大丈夫なんですか!?」
続いて駆け寄ってこようとするが、ふと躊躇した様子を見せて立ち止まった。彼女のためらいの理由を察したセピアは、言葉を継ぐ。
「僕、病気なんかにかかってないよ」
城で発生したとされたのは流行り病だ。かなりの人数が罹って死んだのだと、街まで広がるのではないかという恐れをにじませつつ、噂は囁かれていた。最初は都から逃げ出す者もいたそうだが、二か月ほどが経ってもその気配がないために人心は落ち着きつつあるようだ。
ウレーニィはセピアの言葉に、呻くように答える。
「ああ、やっぱり。やっぱり、そうなんですね」
そして、再びセピアへと歩み寄り、膝を着くとその体を抱きしめた。
「では、お父様やお母様は……」
「誰も病気になんてかかってないんだ。僕以外は皆、捕まってる」
「なんてこと」
やがて彼女の瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ出す。
「申し訳ございません、セピア様。私は、逃げ出してしまった……」
19-8
「おかしいとは、思ったのです」
いつまでも路地で話を続ける訳にはいかなかった。ウレーニィの導きで彼女の家に場所を移し、彼女を含む五人で卓につく。
「病の話はあまりに唐突で、限定的でした。陛下とご家族、それに近しい侍従たちが姿を消し、私たちは城の奥への立ち入りを禁じられました。私は部屋つきではなかったので、ほとんど状況が分からないまま置かれていました。周りの他の人たちも似たようなものです」
彼女の口ぶりから、セピアたちが逃亡した後の城のぎこちない雰囲気が伝わってきた。
「そしてぼつぼつと……死の知らせが入りはじめました。ネッテ先生やリゼアン侍従長や……十数人になったでしょうか」
「先生やリゼアンが」
名を聞いて青ざめるセピアを見やりつつ、幾分遠慮気味にニッカが口を挟む。
「すみません。……遺体は確認されましたか?」
「いいえ。うつる病だということでしたので、すでに焼かれて埋葬されたと」
「死んでないかもしれないってこと?」
わずかな希望を浮かべてセピアが聞くも、ニッカは首を横に振った。
「いえ、それはたぶん……」
死を偽装する意味は薄いと思われる。それはたぶん病気で死んでいないということを勘付かれないための処置だ。セピアは唇を噛んで、握った拳を膝に置く。
「やがて、募集が行われました。王家の皆様方を看護しようと思う者はいないか、と。私は当然、志望するつもりでおりました。けれど気づいてしまったのです。何だか妙だ、と」
悲しむように目を伏せていたウレーニィは、ここで初めて顔を上げ、己に言い聞かせるように言葉を継いだ。
「このような募集は、まず病気が起こった時にされるべきではないでしょうか。それに、どうして命令ではなく、募集なのかとも。ですから私はそれに応じず……同時に、城に居続けることもいたたまれず辞めることにいたしました」
セピアの保証通り、彼女は賢かったと言えよう。
たぶんそれは、己の命を賭けられるほど、王家に忠誠篤い者のふるい分けだ。応じていたら、もう命はなかったかもしれない。
「辞めたことについては、怪しまれた様子はありませんでしたか?」
「辞めた人間は多いですから。私も同じように、病を恐れたと思われているはずです」
それもあるのですが、と自嘲気味に彼女は言った。
「こんな噂も流れはじめています。……この度の病は、アネキウスの罰が降りかかったのだと」
「どう考えても意図的に流されてますね、それ」
事情が分かっていれば、地固め中なのが丸出しだ。
「とにかく、城の中がごたごたしているのは間違いないみたいですね」
分かる限りの細部を聞き出し、ニッカは顎に手をやる。
「正攻法でいきますか」