第一章 人の章
「追う者追われる者」
16-1
その中庭は城の中心から少し外れた場所にあった。苔むした石のベンチは日陰にあって冷たく、植えられた木々が回廊からの視線を遮っているが、庭の茂みの隙間からは回廊を窺い見ることができる。
「あいつ、もうすぐ通ると思うよ」
回廊を背にして座り、アピアは隣に立つサラリナートにそう声を掛ける。
「うん……」
サラリナートはちらちらと茂みに目をやり、気もそぞろな様子だ。肘をついて組んだ手に顎を乗せたアピアは、半ば呆れた気持ちでため息のように洩らす。
「まだあいつのこと、そんなに好きなんだ」
「……うん」
「しつこく言って悪いけれど、あいつは……止めておいた方が良いと思う」
アピアのためらいがちな忠告に、サラリナートは一瞬動きを止める。やがて彼は首を静かに横に振り、それに伴って緩く波打った長い黒髪が背中で揺れる。幾度も交わしたやり取り。アピアは彼の横顔を複雑な思いで見つめる。
「いいの、分かってるから。身分違いもはなはだしいものね」
「そうじゃないよ、サラリナート」
従兄のことを悪く言いたくはなかったが、彼がサラリナートに優しくあっても誠実であるとはとても思えない。その証拠をアピアは嫌になるほど目撃している。
とっかえひっかえという言葉が相応しい、いい加減な付き合い方。しかも手を出しても問題にならない、もっと正しく言えば問題にすることなどできない相手ばかりを選んでいるとしか思えない。成人してから目に見えてそれはひどくなり、あれでも一応未成年の間は自粛してたのか、とアピアは余計に呆れたものだ。
幸い、アピアの目が光っているためか、会う機会がさほどないためか、まだ未成年のためか、サラリナートには今のところ決定的な手は出されていないようではある。お互い遊びと割り切っていれば良くはないけれど仕方がないとも思えるが、サラリナートはそうではない。適当に扱われて捨てられた時のことを思うと憂鬱になる。ろくな領地も持たない子爵が王兄の公爵相手に物が言えるはずもなく、アピアがそこまで口出しすれば、乳兄弟であることを盾に思い上がっていると逆にサラリナートが突き上げられかねない。今だって、こうして二人で会うことに良い顔をしない人間も少なくないのだ。
それでも本人に、ディーディスに直接釘を刺してみたこともある。本気でないのならば、思わせぶりな態度を取らないでほしいと。
「……俺がどうこうしている訳じゃない。向こうが勝手に寄ってくるだけだ」
無責任な物言いに、アピアは苛立ちを隠せなかった。
「中途半端に優しくしているのはそちらだろう」
「じゃあ冷たくあしらえばいいのか?」
「それは……」
そんなことをすればサラリナートは傷つく。アピアがそうしろと言ったとばれれば尚更だ。
「俺に言うことじゃないだろ」
結局、その捨て台詞を残してディーディスは去っていってしまい、状況は何も変わらなかった。彼はそうやって全てを他人に押しつける。剣を振るアピアにこう話しかけてきた時もあった。
「それ、何か意味がある訳?」
「どういうこと?」
「強くなろうがなるまいが、相手が手加減するだろ。お前、次の王様なんだから」
相変わらずの考え方にむっとするが、それを隠して努めて冷静にアピアは問い返す。
「勝つためにやっている訳じゃない。そういうディーディスは頑張って何かを成し遂げたいって思うことはないの?」
「欲しいものは全部何もしなくても手に入るから」
その問いに彼はしばらく考えた後、こう言い切りさえしたのだ。
「努力しなきゃ手に入らないもので、欲しいものなんてない」
つまるところ、彼は手が届くところにあるものを食い散らかすだけで生きていける上に、その生き方に疑問すら抱くことはないのだ。
「ああいう生き方は僕は尊敬できない」
遠まわしな批判には、すぐにサラリナートからの反発がやってくる。
「アピアは、彼のこと何も分かってないと思う」
分かりたくもないし、それに分かっていないのはサラリナートの方だろう。普段は聡い彼がどうしてこんなに物分りが悪くなってしまうのか、不思議で仕様がない。
「あいつのために、女を選ぶの?」
答えが分かりきっている問いだった。サラリナートは頬を染めて、こくりと頷く。
「アピアは、どうするか考えてるの?」
「そうだね。じゃあ僕は男を選ぶことにしようかな」
相手と同じ性別を選択するということは、どんな言葉より強い断りの意思表示だ。
不本意ながら、ディーディスの結婚相手として、自分は最も吊りあう相手である。実際ずっとその申し出はされていて、彼の成人直前にはっきり断りを入れてはいるが、自分が他に婚約者を定めた訳でもないので、諦めたとは思えなかった。サラリナートも当然それは承知していて、アピアが言い出した意味をすぐに悟り表情が明るくなる。
「……本当?」
「約束しようか?」
そして二人はお互いの手のひらを合わせ、指を組む。アネキウスへと共に祈り、誓う、約束の合図。離した後に手のひらを見つめ、サラリナートははにかんで笑った。その笑顔はあまりにも可愛く、アピアはつい腐してしまう。
「言っておくけど、認めたり応援したりする訳じゃないからね。まったく、分からないな、その気持ち」
「アピアにも好きな人ができれば分かるよ」
「僕には無理なんじゃないかな。想像もつかないよ、好きな人だなんて」
本当に、思ってみることすらありえなかった。そんな資格も必要も、自分にはありはしなかった。だから、曖昧な笑みでその時は返したはずだ。
そう、ありはしない、今だって。なのに。
一際大きな揺れが、アピアの目を開かせた。かすんだ視界にサラリナートの顔を認め、アピアはいまだ城の中庭にいるような気分になる。しかし、自由にならない両の手足の感覚と、辺りを囲む狭い木の壁と、横たわる木の座席から伝わってくる振動に、己のいる場所を思い出す。
「アピア、大丈夫?」
共に鹿車に乗るサラリナートが心配そうに声を掛けてきたので、アピアは微笑みを返した。
「どうして?」
「出発してからずっと眠り通しだもの。具合が悪かったりしない?」
「さすがにちょっと疲れてるんだよ。それだけだから」
嘘ではない。とても疲れていた。体も心も、とても。
今のうちに休んでおきたかったし、何よりこの間だけでも何も考えたくなかった。
「夢、見てた。昔の夢。サラリナートと約束した時の」
なのに、訪れる夢は様々な思い出を連れてくる。
「僕は、いつも守れない約束ばかりをする」
サラリナートからの返事はない。アピアは顔を天井に向け、再び瞼を下ろした。
「ごめん、もう少し……まだ、眠いから」
闇が訪れると、眠りはあっさりと意識を覆い尽くす。半ば寝言のような呟きは、彼に聞こえたか怪しかった。
「ごめんね、サラリナート」
16-2
鹿車の上に乗ったシードはふんぞり返り、驚いて見上げる人々へ無意味に堂々と宣言した。
「妙な真似しようもんなら、ぶっ壊ーす」
降って湧いた闖入者に、三足族たちは戸惑いを隠せない様子だった。たぶん怒っていいのか、呆れていいのか、笑ってやればいいのか、良く分からなかったのだろう。
五人ほどが車を取り囲む中、中年の男が代表して声を掛ける。
「待て待て。えーと、君は確かシード君だったかな」
「それがどうした」
とりつく島もない返事とはこの事である。とっかかりのない彼の態度に、トーニナはしばらく考えてこう聞いてみる。
「そんなところに登って何がしたいのかね」
「うるせー。俺の勝手だ」
さらに判断に困る反応をされ、次にどう切り出して良いものかトーニナは迷った。相手はシンス=トーラーだ。今の時点でどこまで知っているか推測しにくく、下手なことを問えばこちらの首を絞めかねない。
「お前らの知ってること、全部吐け」
だからそう言われても、おいそれと情報を与えてやる訳にはいかない。
「トーニナさん、すみません、突然」
救いは、森の木立の隙間からひょいと顔を現した。見慣れたニッカの姿に少し安心してしまうが、別に彼は味方という訳ではない。ただ、車の上の少年と違って掴み所が分かり、交渉のやり方を知っている相手だ。
「随分と縮小傾向ですね」
ニッカは車を取り巻く一行に目を走らせ、そう切り出してくる。
「ゼナンという男に用があるのですが、どちら行かれましたか?」
「彼とは別れた。もう戻ってこないとは思うが」
知らないというのも白々しいので、トーニナは正直に答えた。それに知ったところで大して役に立たないし、既に予想済みだろう情報だ。
「行き先はご存知ないですか?」
「さて、どこに行ったか」
トーニナがとぼけた途端、ばきん、という音が辺りに響いた。車の上に直立していたシードの足先が、その天井を踏み抜いている。
「ああ、足が滑った」
いけしゃあしゃあと彼はそう言い放ったが、わざとであることは火を見るより明らかだ。トーニナは眉をひそめたものの、ここはあえて無視し、ニッカのみを相手にすることにした。まだ彼らがこんな暴挙に出た目的は分かっていない。求める相手がゼナンかアピアかで対処は違ってくるし、それ以外の目的がないとも言い切れない。
とにかく、何とか彼らを言いくるめて、セピアを差し出させることが優先だ。そのためなら鹿車の一台や二台、くれてやっても何ら支障はなかった。それで諦めてくれれば安いものだ。
彼らはゼナンがあっさりと引いたのがどれだけ幸運なことだったのか、察していないのだろう。彼らとの間に何があったのかは分からないが、ゼナンの機嫌を損ねなかったのは確かなようだ。おかげでどうやって処理するか、考えないで済んだ。
「教える気はない、ということで宜しいですか?」
「彼に何の用かね?」
「聞きたいことがあるんですよ。そう言えば分かっていただけると思いますが」
「よく分からんね。私で分かることなら、答えるが」
ゼナンと彼らの再接触は絶対に避けたい。そんなことがあれば、まず間違いなくゼナンの機嫌は悪くなるか、あるいは良くなりすぎる。どちらにせよ厄介な事態になるのは想像に難くない。ましてや、聞きたいことというのはあの車の上で胸を張っている少年に関することだろうから、余計である。
「では、お聞きしますが」
はっきりとした牽制にも関わらず、ニッカは食い下がってこなかった。さらに彼の口から出された名前は、トーニナの推測とはまったく別のものだった。
「テリカ=タイカ=ソールという名前の人物について、ご存知のことを教えてください」
16-3
「誰のことだ、それは?」
トーニナの返事はごく正直なものだった。名前からしてニッカの類縁だとは分かるが、そんなことを聞かれても知るはずもない。一応顧客名簿を頭の中で繰ってみるが、該当する人物は見当たらなかった。
一方、ニッカはわざとらしく肩をすくめる。
「ご存知ないのなら、やはりゼナンさんにお聞きするしかないですね」
それで、適当に言ったのか、とトーニナは当たりをつけた。にしても、そんな稚拙な手で自分たちがゼナンの行き先を洩らすはずもないのに、何を回りくどい真似をしているのだろう。
「ところで、残り二人の姿が見えないようだが」
いつまでも付き合っている訳にはいかない。彼は自分たちの要求へと話を引き寄せることにした。自分が話をすべきなのは彼らではなく、セピアだ。兄が捕まった今、小さな子供である彼を説得するのは容易だろう。
「こちらの要求は分かっているな。弟と話がしたい」
「そう言われて、ほいほい出すとでも?」
「君たちの友情には敬意を払うが、これは彼と我々の間の問題だ。一度だけでも話がしたいと彼に伝えてほしい。我々には彼を無理に連れていく気はないよ」
「本人を無理に納得させる気はあるんですよね?」
あからさまな当てこすりで返され、トーニナは苦笑するしかなかった。
「納得してもらった方が彼のためだ」
こう言っていられる時間はさほどない。アピアの到着が確認できた瞬間、指令はもっと強硬なものに変わるだろう。生け捕りよりも手間がかからず、確実な手段を取るようにと。それは、つまり。
「アピアを手に入れた以上、セピアは捕まえられないようなら殺せばいいってところですか?」
物騒なことをさらりと言うニッカに、トーニナは再び眉をひそめて見せた。彼の言葉はある事実を示唆している。
「知ったのか」
「知りました」
「どうするつもりだ」
良くない兆候だった。出方次第では彼らもまた対処しなければならなくなる。ただの子供たちなら放っておけたのだが、問題はトーラーだ。父親に救援を求められたら事だ。自分が防げる範囲には限界がある。
「どうするもこうするも」
ますます危険な領域に踏み込んできているのを分かっているのかどうか、ニッカは首を横に振りつつこう返す。
「僕らはつつがなく巡礼が終わればそれで良い訳で。邪魔しているのはそっちの方じゃないですか。神の道を阻むと罰が当たるんじゃないですかね」
「君たち三人の巡礼なら、問題なく終えられるさ」
「僕らは五人ですよ。そうですよね、シード」
トーニナの言葉を遮るように、ニッカは言葉を被せてきた。話を振られたシードは仏頂面で頷く。
「ということで、教えてほしいんですけど」
「知らないし、知っていたとしてもますます教える訳にはいかないな」
「まあ、そうでしょうね」
さっきからニッカの態度はどうも変だと、トーニナは感じ始めていた。全然交渉に身が入っていない。妥協点もまったく見せようとしない。のらりくらりと話題を変えるばかりで、時間稼ぎをしているようにも見える。
兄弟の身元を知ったというのが本当なら、トーニナたちの足を止める理由は一つ、弟を逃そうとしているのだ。
「話はそれだけかね。ならば、そろそろどいてくれないかな」
従い、トーニナは話を打ち切ろうとした。これ以上彼らに付き合っても益はなさそうだ。
「やなこった」
「くれないのならば、力づくということにもなりかねないが」
変わらずぶっきらぼうな受け答えしかしない車上の少年に脅しをかけると、彼ではなくニッカが首を傾げてこう問いかけてくる。
「……そういえば、ひょっとしてシードとまともに鉢合わせるのは初めてですか?」
言われてみれば、そうだった。熱地に入る前までは接触するのはなるべく兄弟のみにしていたし、それ以降も一方的に観察していただけで対面はしていない。
「それはご愁傷様です」
思わせぶりな言葉を吐くや否や、ニッカはシードへ手を振ると、あっという間に森の奥へと身を翻した。
「じゃあ、よろしくお願いしますねー」
突然の転進に、拘束する指示を出す暇もない。二人ほど追わせようと思ったが、熱地での出来事を思うと、それもためらわれた。人質としての価値と影響を思えば、トーラーの方が望ましくもある。
いまだ車上に突っ立っている少年は、背後で密かに弓が構えられていることには気づいていない様子だ。飛んで逃げるつもりだろうが、そうはいかない。
「念のためにもう一度聞いておくが、彼を連れてきてくれるつもりはないんだね?」
「そっちこそ、あのくそ馬鹿をさっさと返せ」
交渉が成立する気配はまったくない。
トーニナは一つ息をつくと、目線で部下たちに指示を出した。
16-4
手を離せば、鳥はためらわず次々に空へと舞い上がっていく。足に巻いた識別の印も確かめず、ミュアは手当たり次第に籠から鳥を抱き上げては解放していった。もっとも、鳥たちは自由に飛んでいける訳ではなく、定められた町に戻るだけなのだが。
隣でニッカが押収した書類をチェックしながら、言い訳をしている。
「まくことは無理だと思ってたんです。僕らは子供ばかりで目立つし、騒ぎを起こしやすい人もいますし。だったら、位置情報を提供して何かを引き出せれば儲けものだと」
「だからって、相談もなしに勝手にやるなんて」
「分かってます。反省してます。……本当ですよ」
疑いの目で見られ、ニッカは弁明を重ねてため息をついた。
「僕の言葉ってそんなに上滑りですかね」
「いつもの行いが悪いのよ」
「それは否定しませんけど」
「反省をしなさい」
「してますって」
情報提供の件に加え、アピアたちの影に隠れて自分の素性を内緒にしていた件もあるので、ニッカの分は悪い。アピアのことがあって有耶無耶になっている形だが、本来ならシードが爆発して半殺しにされていてもおかしくない話ではある。
「で、お父さんのことは何か分かったの?」
「知らない様子でした。どうも分からないんですよね、彼が派遣されたことは間違いないとして、どの陣営でどういう役割をしていたのか、とか」
「何か手紙とか、遺書とか、お父さんは遺してなかったの?」
「いや……そういう個人的なものはほとんど。どうやら薬学を研究していた様子ではあるのですけど、国交回復とは関係のない話ですし」
強いて言えば、文化や習慣などを比較調査していた形跡はあった。そういった裏方だった可能性は高いが、ゼナンの言い様からするとそんなに穏やかなものでもなさそうだ。
「どうにも掴み所がないんですよね」
「ニッカが言うなら、そりゃ相当だわ。よし、これで全部」
話しているうちに、ミュアは全部の鳥を籠から開放して手を打つ。半ば壊れかけた鹿車の中には籠だけが所在なさげに転がっている。破損の原因は、シードが無理やり引きずってきたせいだ。
シードの無茶苦茶さを言葉で説明しても絶対に理解してもらえないと分かっているニッカは、はなから説得など考えていなかった。彼らから得られるのは状況証拠だけだと割り切っていたのだ。
後は、強奪。
鹿車の中身は、ニッカが類推していた通りのものだった。
「あの人、鳥文屋さんだったのね」
「匂いがね。鳥の匂いしましたから」
ニッカもまた、書類をめくり終えると肩をすくめる。
「本当は符牒が分かるものがあれば良かったんですけど、さすがにそんなのは残してませんでしたね」
彼らの連絡には当然暗号が使われているはずで、それが分かれば偽の警告を出してゼナン組の足を止めることも出来たかもしれない。
「でもまあ、大体のルートは推測できました」
奪ってきた書類のほとんどが、鳥の出納記録であった。トーニナは印象どおり几帳面な性格らしい。文の内容は分からないが、どこへ飛ばしたのかを追えばそれなりの精度で予想を行うことができる。同時に、鳥を奪うことで相手の連絡手段を潰すこともできた。
「シードとセピアは?」
「まだ休んでるんじゃないかな」
「二人を起こして、すぐに出発した方が良さそうですね」
鳥が飛ばされた大森林南側の村を拾うと、およそ二日ぐらいの距離を開けて点在していた。
鹿車の速度は徒歩とさほど代わりはないが、御者が交代で休むことができるという利点がある。不休で距離を進めることが出来るのだ。もちろん、兎鹿がそう長いこと不眠不休に耐えられる訳もなく、途中で交代をさせなければならない。鳥文はたぶんその手配を行うためのものだ。
「追いつくためには、かなりの強行軍になると思いますよ」
単純に考えて、自分たちの倍、相手は進むことになる。鹿車の事前手配など出来ない自分たちにとっては、それこそ不眠不休も覚悟しなければならない。
「ま、何とかなるでしょ、きっと」
楽天的な意見を述べるミュアを横目に、ニッカは呟く。
「ミュアって、見た目より結構タフなとこありますよね、色々な意味で」
「何か引っかかる物言いね、それ」
とはいえ、彼女の気負いのない態度が奇妙な安心感の元になっていることは間違いない。ニッカもまた、何とかなるような気がしていた。そのように道は敷かれているのだ。
16-5
そして、幸運は四日目に到着した村で見出された。
「ああ、来たね、そんな人ら」
鹿車を調達できないか当たった牧舎での聞き込みに、彼らの情報が引っかかったのである。
「突然うちの売れって言われても、こっちだって困っちまうからね。断らせてもらったよ。見たところ、引いてた子も疲れ果ててたみたいだし、あんな使い方する奴にゃあ売りたくないね」
「それで、その人たちはどうしましたか?」
「あれじゃ先に進めないわな。村はずれで一晩休んでいったみたいだよ。昨日の朝、気づいたらもういなかったけどな」
つまり、距離は一日ほどに縮まっていて、しかも相手の兎鹿は疲れ切っている状態ということだ。しかし、自分たちも夜歩いて、昼は運良くその方面へ向かう鹿車に同乗できたり、雇えたりした場合は車の中で休むという強行軍を取ってきたため、さほど余裕がある訳でもなかったが。
「進みます?」
ニッカのそれは、問いというよりは確認で、全員疲れた顔をしながらも首を縦に振る。
「昨日の昼は寝てるから、私は平気。セピアは行ける?」
疲れると口が重くなるタイプらしいセピアは歩いている最中もほとんど喋ることはなく、気遣ってミュアが声を掛ける。彼は言葉少なに再び頷いた。
「大丈夫。行こう」
「おし、さっさと行くぞ」
シードがいつも通り先陣を切り、その後を追うようにセピアがついていく。アピアがいない今、最後につくのはミュアとニッカになっていた。
「本当に平気ですか? 追いついた時に体力切れじゃ意味ないですからね」
「ん、何だか思ったより辛くない。ニッカの方がばててない? きついなら、喋らない方がいいと思うけど」
「喋ってる方が気が紛れるんですよ。ほっといてください」
シードはともかくとして、セピアやミュアの体力が保つかは心配だったが、二人とも意外な粘り強さを見せて、ここまでの行程を進めてきている。言われた通り、一番消耗しているのはもしかして自分かもしれないな、とニッカは思うが、彼の立場で弱音は吐けないし、吐くつもりもない。
「でも、あっちが兎鹿の乗り換えに失敗してるなんて、幸運だったよね」
「たぶん鳥文がうまく届かなかったんでしょう」
鳥文を使う以上、不着や情報漏れはいつも付きまとう問題である。だから本当に大事な連絡には人間の使節が赴くのが一番だ。
「トーニナさん、鳥文屋やってたってことは、まず間違いなく中身を検閲してましたね」
大まかな情報の流れを掴むには最適な位置ではある。
「鳥文といえば、リームさんへの連絡はまだやってるんですか?」
「今は出してる暇ないわよ。大森林に入った頃のが最後になるかな。途切れたからって騒ぎにならないよね?」
「まあ、それこそ不着の可能性もありますし」
トーラー公爵に状況を伝えて、救援をお願いすることも考えてはみた。しかし、全部を伝えてしまうと国全体を揺るがす騒ぎになりかねないし、当のシードも拒否反応を起こして、それは一時保留となった。それにアピアがホリーラに逃げ込んだ時、まずホリーラ王室へと救援を要請しなかったことを考えても、下手に動くことはできない。国同士の交渉に一介の村人が顔を突っ込むのはさすがに度胸がいる。
最悪、ホリーラで三足族狩り、ひいては不出来子弾圧が起こりかねないという想像もあり、ニッカとて強く主張はできなかった。
「私たちが追っかけてるの、知られてるのかな」
「トーニナさんから連絡が行ってると思った方が無難でしょう。ルートを変えられてなきゃいいんですが」
鹿車の手配の関係上、簡単にルートを変えることはできないだろうと読んではいるが、心配なところである。手持ちの鳥をほぼ全て奪われたあげくに、シードに蹴散らされているのだから、連絡が行っていない可能性もある。
今一度の幸運を祈りつつ、足を進める他なかった。
16-6
外から下ろされた鍵を抜き扉を開け、狭い入り口に掛けられた目隠しの布をめくる。薄暗い鹿車の中で腰掛けていた少年は、一瞬こちらに目を向け、すぐにまた足元へと目線を戻した。
「俺が来る時はいつも起きてるんだな」
ゼナンは彼にそう話しかけつつ、車の中へと足を踏み入れる。
「昨晩はがたがた揺れずに、ゆっくり眠れたからね」
返された言葉の端々には隠し切れない刺々しさがあった。入ってくるのを望んでいないのは見え見えであるが、もちろんそんな希望を汲む訳もない。
「そうかい。坊ちゃんが心配してるんでね」
アピアは移動のほとんどを眠って過ごしている。食事もあまり進んでいない様子で、半ばほどで残すのが常だった。
この状況では意気消沈するのは自然だろう。だが、微妙に引っかかるところがあり、ゼナン自ら出向いてきたのだ。
「あと数日ほどで、この国ともお別れだ。調子が悪いふりで、逃げ出す隙を窺ってるんなら……」
「触るな」
額へと伸ばした指は、首を振ることで拒否される。アピアの両手は拘束されているため、払いのけることはできないからだ。
「僕はお前たちに逆らうつもりも、逃げるつもりもない」
そして、彼は顔を上げないままにそう呟いてくる。以前ならば睨みつけてきたところだ。
捕獲して以来、どうもこのガキは目を合わせてこない。
「ああ、まあそうだろうな」
だから、ゼナンは彼の顎を掴み、無理やりに前を向かせた。目がかち合った瞬間だけ、少年の瞳を嫌悪の波が揺らすが、煽る暇もなくそれは凪いでしまう。先ほどのように抵抗する気配もなく、ゼナンは内心舌打ちをする。
「お前の目は諦めた奴のそれだ。何をされようが関係ないってな」
幾度か見たことのある目、無関心と無感動を装う目だ。
「けれど、お前は絶望していない」
しかし、本当に心が壊れてしまったものとは違い、平静な顔の裏には脈々と感情が湛えられている。
「面白くないな」
打ちひしがれてぼろぼろになっている訳でもなければ、叩きのめすための口実となる抵抗もしそうにもない。中途半端すぎて、思っていたよりつまらない状態だ。もう少し遊べるものかと思ったが。
何より気に入らないのが、彼の希望が他者への信頼から来ているだろうことだった。
ゼナンは目を伏せた彼の顔を、再び自分へと向けさせ、問うた。
「何を企んでる」
「何も」
「あの生っちろい弟に望みを託しているのか。セリークにたどり着いて、国を取り戻してくれるとでも」
答えは返ってこない。だが、彼にすがれるものがそれしかないことは明白だった。やはり多少手間がかかっても、弟も同時に連行すべきだったかもしれない。今となっては、もう間に合わない話ではあるが。
「まあいい。そのうち、そんな顔はしていられなくなる」
ゼナンは長期戦に頭を切り替えることにした。
この段階では制約が多すぎる。とりあえず今は言いつけを守っておいて公の信用を稼ぎ、今後も近づけるようにしておくのが肝心だ。
これを逃せば、取り澄ました王族をいたぶることのできる貴重な機会など、もう二度と巡ってはこないだろうから。変に焦って、潰してしまうのは勿体ない。
「体調が優れない時は、遠慮なく申し出てくださいね?」
厭味な猫なで声で会話を打ち切りにし、アピアを解放したゼナンは、車の外へと出た。すると、待っていたらしい部下の青年が駆け寄ってくる。
「ゼナンさん、すみません」
まだ幼さの残る顔立ちの、要領の悪そうな奴だ。何を考えてこの異国の地へ来たかは知らないが、どうせ王の凶行を食い止めるためとか何とかの理想に燃えているのだろう。くだらない。
ゼナンは彼を横目で睨み、尋ねる。
「兎鹿は確保できそうか?」
ここは本来の取替え予定地ではないが、前の村での手違いで交替ができなかったため、一応当たらせておいた。
「あ、えーと、やっぱり数が少ないみたいで、ちょっと無理かと……それはともかく、連絡が来てました」
こちらの機嫌が良くないのを察しているようで、青年は早々に話題を切り替えて文を渡してくる。その行動が興を買うはずもなく、ゼナンは文に目を通した後に絞ってやるつもりでいた。
青年を救ったのは、その文に書かれた知らせだった。
読んだ途端に、ゼナンの目は見開かれ、口元が緩む。そればかりか、彼は無意識のうちに小さく呟いていた。
「いい子だいい子だいい子だ何ていい子共だ!」
内容までは聞こえないものの、ただならぬ雰囲気に怯えて立つ青年に、彼はおもむろに目を向ける。
「おい」
「は……はいっ」
「お前にしばらく指揮を任せる」
突然の拝命に、とっさに返事ができず目を白黒させる青年に構わず、ゼナンは話を続けた。
「いいか、ゆっくり進め。俺が追いつけるようにだ。念のため、中の奴には俺がいないことは悟られるな」
そして彼は身を翻し、来た道を辿り始める。
「土産を持って、すぐ戻る」
16-7
木々の間を縫う道を、シードは足早に通り過ぎる。疲れなど感じている暇はない。ただひたすら前へと向かう。
それを追い、セピアが足を進める。どうしてもシードより歩数が多くなる彼はほとんど小走りで、何とかついていきながら、話しかける。
「三足族、嫌いなんだよね」
シードは振り向かず、その問いへの答えを返す。
「大嫌いだ」
物言いにはためらいがなく、セピアは続けて尋ねる。
「……じゃあ、どうして、助けてくれようとするの?」
「俺がそうしたいからそうするんだ」
打てば響くような答えは、しかし何も語っていないようなもので、セピアは眉をひそめて言い返す。
「それ、答えになってないよ」
そして、もう一度問い直してみる。
「どうしてそうしたいのか、聞きたいんだ」
「どうだっていいだろ、そんなん」
おざなりな返事を、セピアが再び追及する。
「良くないよ!」
ようやくシードは振り向き、セピアの顔を見やる。セピアは念を押すように、彼の目を見据えながら問う。
「教えてほしい」
舌打ちがセピアの耳に届く。続けて、いかにも不満そうな呟きも。
「うるせーな。俺はただ……」
不意に彼は言葉を切る。
「ただ、あの時にだな」
そして、また続けようとする。
「あの時に」
シードの足は無心に前へ進み続けているのに、言葉は全然前に進まない。セピアは辛抱強くそれを待つ。
しかしその先は語られることはない。
「止まれ!」
前を見据えたシードが不意にそう警告し、足を止めたからだ。彼の視線を自然に追うと、そこに人影が認められる。
セピアにとっては初めて会う人間。けれど、それが誰なのか、すぐに理解する。
「よお、シンス=トーラー」
小柄な男は親しげに手を上げる。シードはそれに答えず、ただ拳を握り込む。はっきりとした敵意がセピアの皮膚を刺激する。
セピアは振り向いたが、いつの間にかミュアとニッカをかなり引き離していたらしく、二人の姿はどこにも見当たらない。
「お届けご苦労だったな」
むしろ、二人がいない方が良かったのかもしれない。セピアは短剣の柄に手を掛けた。
抵抗を示す二人に対し、ゼナンは大きくため息をついてみせる。
「これだからガキは。やりにくくて、困るねえ」
しかし、その嘆息はむしろ喜びを多く含んでいる。
「当然承知しているな、王子様。うっかり加減を間違えても、上を確保している今、言い訳が利く」
鋭い目を向けられてセピアは怯むが、その場から逃げ出したりはしない。
「だがまあ、お前は殺すつもりはないがな」
そこで視線は小さな少年から離れ、含みを持つ言葉と共に再び有羽族の少年に向けられる。
「なあ、シンス=トーラー」
瞬間、シードは地面を踏み切った。