第一章 人の章
「熱」
10-1
一瞬のうちに砂は舞い上がり、熱い雨となって体に降りかかった。逃げようとするだけ無駄だともはや理解しているので、ただ頭をかばってその場にうずくまる。羽に付くのはどうしようもないと諦めた。下手に対処しようとして、目に入ったり、さっきみたいに口に大量に入ったりするよりましだ。
耳元でびゅるびゅると猛る音が耳鳴り程度の大きさになって、ようやくミュアは頭を上げた。目を開く前に、まず首を振って上半身に積もった砂を払い落とす。髪からじゃりじゃり音がするのにうんざりする。
見下ろせば、膝から下が埋まっていた。今までに比べればかなりましな方だ。胸まで埋まった時は一人では抜け出せなかった。
「皆、平気?」
砂を払いながら状況を確認すると、一番近くにいるニッカと目が合う。彼は頭を指差したので、ミュアは別に取らなくていいと首を横に振った。
一番被害を被っているのは彼だろう。耳が詰まるほどの砂に辟易し、布をぴっちり頭に巻いているので、もっと近くで声を出さないと聞こえにくいのだ。彼は帽子を用意しておかなかったことをしきりに後悔していた。
甘かったかもしれない。
何となくそういう空気が一行には漂いつつあった。アピアたちのことがあるので、商隊などに混ぜてもらわず地図を頼りに単独で歩を進めてきたのだが、何度も砂嵐の洗礼を受けて明らかに士気が下がっている。アピアとセピアも遅れがちで、いまだ元気なのはシードだけだ。さっきなど、埋まった後に砂をかき分けて近づいてきたから何かと思ったら、
「この熱いのは魔物のせいなんだろ? だったらそいつぶっ倒せば、涼しくなるんじゃないか?」
などと言い出したので、頑張ってくださいと返しておいた。今も頑張っているらしい。彼なりに。
どんなに埋まっても砂を吹き飛ばして勝手に復帰している様子は頼もしいといえば頼もしいが、まともに相手をしている気力はない。そして本人もさすがに平常時よりは消耗しているらしく、そういえばアピアと喧嘩をしている様子はなかった。
アピアが剣であの男たちに斬りかかっていった後、シードとの関係はもう少しぎすぎすするかなと思っていたが、意外なほど変わらなかった。ちなみにミュアが立ち聞きしていたことも気にしていなかった。むしろシードは気にしなさすぎだと思う。
ミュアはやっぱり考えてしまう。男たちの正体や、アピアの態度や、兄弟がここにいる訳などを。
振り返れば、アピアがセピアに助けられて埋もれたところから這い出してきているのが見える。生まれた場所から遠いところで、こんな目にあってまで進まなければいけない理由は何だろう。
一番手っ取り早いのはもちろん直接尋ねることだろうが、それをしてしまったら間違いなく距離は遠くなる。それどころか、姿を消してしまうかもしれないという予感をミュアは抱いている。
目的地は聖山。今は行くべき道がはっきりとしている。けれど、着いた後に敷かれるのはそれぞれの道だ。共には歩けないだろうけれど、行く先を知っておきたいとも思う。
砂中都市サレッタにて、ミュアたちは西へと道を折れることになる。
旅路はもうすぐ半ばを過ぎるのだ。
10-2
熱地に入ってから二日間、ここが普通の場所ではないと言われる訳を、一行は実感させられていた。
見渡す限り岩と砂地なのは聞いていた通りだから、最初はともかくすぐに慣れた。草地が砂に変わったと思えばいい。問題はやはり熱さだ。これは想像していたものより、はるかにきついものだった。
普通なら、陽が当たる場所が暖かいものだが、ここは違う。
地面から熱さは来る。
足元からあぶられるようにじりじりと、体力を奪っていく。帽子も日除けも役には立たない。
夜になってもその熱は冷めることなく、横になれば全身が焼かれる感覚に襲われた。おかげで寝ても悪夢にうなされ、余計に疲労の色が濃くなる始末だ。一夜過ごせば懲りたので、今日の夜からは野営はせず、道筋に常設されているという小屋をきちんと使うことにした。この砂地では当然目に見える道など敷かれていないので、道筋に小屋があるというより、小屋がある場所をつないだものが道だ。一応進むべき方向を示した案内板が立っていることもあるが、すぐにぼろぼろになったり倒れたり方向を変えられたりするので、あまり当てにはならない。方位磁石を片手に地図を確かめながら行くのが一番確実だ。
「そろそろ小屋があるはずです。日暮れには早いですけど見つけたらもう休みましょうか」
そういう作業はニッカが得意なので、彼に任せている。方位磁石は聖山で取れた金属が針となっていて、必ず聖山の方を向く。つまり聖山を目指すには簡単なのだが、今はそうではないから少しややこしい。
しかも、さっきからの頻繁な砂嵐だ。目指していた砂丘の様相が一変して、その都度確認が必要となる。
「こんなにきついとは思わなかったわ」
ミュアのぼやきに、ニッカは肩をすくめる。
「リームさんの忠告に従っておいて正解ってところでしょうか」
「本当、大森林から横断なんてしなくて良かった。やってたら行き倒れよ」
「町に着いたら、それ以降は商隊に混ぜてもらうことを考えた方が良いですね」
サレッタ以外にも、水が確保できる場所には幾つか町が作られている。明後日ぐらいにはそのうちの一つにたどり着けるはずだ。
「そうね。そっちの方がどう考えても安全だし。アピアたちのことはごまかせるよね」
当事者の意見を聞こうと、ミュアとニッカは兄弟が追いつくのをそこで待った。いつものように最後尾を歩いていた兄弟は、見つめる二人の方へ近づいてくる。
「……ねえ、アピアの感じがおかしくない?」
怪訝な顔をしたミュアが、ニッカに同意を求めた時だった。どう見ても足元がおぼつかない様子だったアピアは、たちまちぐらりと傾いで、地面に倒れ込んだ。そして動かない。
「アピア!」
驚いて思わず見守ってしまった二人だが、セピアの悲鳴に似た声に慌てて駆け寄っていく。アピアは完全に意識を失っていた。叩いても揺すっても起きる様子はなく、青ざめた顔でぐったりとしている。
「どうしよう」
「とにかく、早く小屋を見つけて手当てをするしかないのでは」
ミュアとニッカが相談していると、しゃがんだ二人の頭上に影が差す。
「なんだよ、またか」
呆れた顔をしたシードはそう言い放つと、さっさと踵を返した。
「どうせさっき埋まったとこだろ。ちょっと探してくるから待ってろ」
言われたミュアとニッカは何の事だか分からない。唯一分かるセピアが、焦って声を上げた。
「あ、シード、違う!」
引き止められたシードが振り向き、セピアは言葉を継ぐ。
「それはあるから。確かめたから」
「本当か?」
不審顔で戻ってきたシードは、おもむろにアピアの胸元に手をやった。そして、すぐに呻いてその手を離す。どうも痛かったらしく、顔を歪めて指を振っている。
「何だこれ、えらく熱いぞ。どうなってるんだよ。つけてて平気なのか?」
「僕もよく……」
二人が何をやっているのか全然分からないミュアとニッカは顔を見合わせた。
10-3
結局、アピアの意識は戻らず、小屋に早くたどり着くのが一番良い手らしかった。しかし、近くにあるはずだとはいえ、まだ見えないということはそれなりの距離を歩くことを考えなければならない。
「俺、やらないぞ」
ミュアが言い出す前に、シードは先制で拒否を表明した。
「どうしてよ」
「嫌なもんは嫌なんだよ」
「だってシード以外、誰が出来るって言うの。今背負ってる荷物なら、私達が手分けするから……」
「そういう問題じゃねーよ」
いつもなら折れるところだろうが、今回に限ってシードはにべもなく断り続ける。
「お前らで何とかしろよ。とにかく俺はやらねー」
最終的にそう宣言して、彼はさっさと歩き出してしまう。取り残された三人は目で相談をしたが、選択肢はさほど多くなかった。
「それじゃ、私とニッカが交替で……」
「僕が背負う」
ミュアが切り出した時、それを遮ったのはセピアだった。そして止める暇もないまま、アピアの脇に手を入れて持ち上げようとする。何とか背負う体勢までには持ち込めたものの、頭一つほど低いセピアにはやはり無理がある。こんな状態で小屋まで保つ訳がない。
ミュアは眉を吊り上げ、先を行くシードの背を叱りつけた。
「ちょっと……シード!」
語調にはっきりとした非難の色が混じったせいか、シードは不満の表情を崩さないながらも、のそのそと戻ってくる。言いたいことは分かってるでしょうと睨むミュアの目から顔を背けるように、彼はため息を吐く。
「はいはい、分かった分かった。持ってきゃいいんだろうが」
それからやけくそがちに吐き捨てて、大股にセピアへと近づいていく。続いてその背からアピアの体をむしり取り、小脇に抱え、どんどんと先に行ってしまう。
そのあまりに杜撰なやり方に、いい加減疲れて苛々していたミュアもついに切れた。
「足引きずってるでしょうが! 荷物はこっちによこしてちゃんと背負うか、前抱きにしなさいよ!」
「うるせー、ほっとけ! 敵が来た時、邪魔だろうが!」
「どこに敵がいるのよ!」
どんどん空気は悪くなり、怒鳴り合いから罵り合いに発展しかねない。しかし、その不毛な論戦は高い声で中断させられる。
「僕が!」
さっきからシードにぶら下げられて力を失ったままのアピアの体を、セピアが引っ張っていた。
「僕が連れてく……アピアは、僕が……こんな……てたら、だって……」
顔をぐしゃぐしゃにしたセピアは、しゃくり上げながら、僕が、僕がと繰り返した。険悪な空気はたちまち気まずい雰囲気に呑まれ、収拾がつかなくなりそうなところでニッカが割って入ってくる。
「はいはい、三人とも落ち着いて。今すべきことは、アピアを早く安静にできる場所に連れていくことでしょう。誰がどうするということより、一番効率の良い方法を取るべきです」
「俺だろうが」
「分かっているなら、お願いします」
「嫌だってさっきから……」
「それはシードにとって構わないことなんですか?」
「何だよ、それ」
「病人を放り出したり粗末に扱うのは、シードの心に恥じないことなんですか、と」
一番痛いところをつかれたらしく、シードは明らかに言葉に詰まって頬を赤くした。しばらく葛藤していた様子だったが、無言のままアピアを肩にかつぎ直す。人というよりやはり荷物のような運び方ではあるが、背嚢もあるし無難な線だった。
そして、むっつりと口をつぐんだまま、足早に歩き出す。ミュアは小走りで彼に追いつき、なだめるように声をかけた。
「ごめんね。でも、シードだったら軽いものでしょ」
それに対して、シードはミュアに一瞥をくれると、呟きで返す。
「軽いから嫌なんだよ、畜生」
ミュアが聞き返す前に、彼はざくざくと砂を蹴って先へと進んでいってしまった。
10-4
大気の鳴る音が地に響いている。またどこかで嵐が発生したのだ。
セピアの肩を抱くようにして歩いていたミュアは立ち止まり、空を仰いだ。巻き上げられた砂に阻まれているのか、陽の輝きはぼんやりしていて心許ない。
「……小屋、まだ見えないね」
ニッカの目測が甘かったのか、自分たちの時間感覚がおかしくなっているのか、かなり歩いたのに小屋の姿すら見つけられなかった。砂嵐は相変わらず頻繁で、下手をすると方向を見失っているかもしれない。随時ニッカが修正を入れてはいるが、その磁石すら狂っていたらもうおしまいだ。
確認をしている彼の姿を横目に、ミュアはシードへと呼びかける。
「シード、早すぎー!」
シードは放っておくとどんどん先に行ってしまうので、油断は禁物だ。一人なら好きにしてもらってもいいが、今はアピアがいる。さっきのあの様子だと、アピアを放り出して自分だけ無事帰還なんて洒落にならないこともやらかしてくれそうである。
呼び止められたシードは珍しく方向転換をして、のしのしと戻ってきた。そして、こんなことを言い出す。
「おい、ここって本当に良く使われてる道なんだよな」
「地図の道からはそんなに外れていないと思うのですけど」
さっき一休みした大きめの岩場がこれでしょうし、とニッカは地図を指差しながら答える。昨日素通りしてしまったとはいえ、ちゃんと小屋はあったし、大幅にずれている感じではない。もっとも、日が暮れてきても小屋が見えないようなら考え直さなければならないが。
「ならいいんだけどよ。なんか、昨日から他の奴らの姿を見ないだろ。そんなに行き来が少ないもんなのか?」
シードにしてはまともな意見だ。確かにそれもあって、迷った可能性を考えたのだ。ミュアは一応反論してみる。
「んー、砂嵐がひどいから、皆収まるまで待ってるとか」
「というか、こんなにひどいなら、あの宿屋の爺さんも一言注意してくれてもいいんじゃないか?」
今回ばかりはシードに分があるようだ。ミュアもそれはもっともだと思う。
「親切な人だったけどね」
「お年を召してらしたから、ひょっとして勘違いされてたとか」
熱地に入る直前の町で泊まった宿屋の隠居にこの地図を交換してもらったのだ。出発する時に行く先を聞かれ、持っていた地図を見せたら情報が古いとこちらを差し出された。ついでにアドバイスも色々ついてきた。
「ここ最近の異常気象なのかもしれないわね」
老人本人はきっと熱地に出ることはないだろうから、砂嵐の情報を持っていなかったということも考えられる。ミュアはそう推理してみたが、それはシードのお気に召さなかったらしく、彼は鼻を鳴らす。
「そんなもんかね」
「大体あの時、シードは何にも聞かずにさっさと出ていっちゃったじゃないの」
「説明とかってうざったいだろ」
「同意を求めないでよ」
またも不毛な言い争いに発展しそうなやり取りは、しかし未然に食い止められた。セピアがあるものを発見したからだ。
「あ、あれ」
彼の指差す先に、人影が見える。それはみるみる増えて、やがて三台の鹿車も含めた二十人あまりの一隊となった。彼らは行く手にある砂丘を越え、こちらへと向かってきている。
ようやく出会った商隊の姿だった。
10-5
現れた商隊の人々は、さすが熱地慣れしているらしく、装備もしっかりしていた。使い込んだ機能性溢れるものだというのが、見るだけで分かる。
向こうから見れば、こちらはものすごく心許ない格好だろうなあ、とミュアは思う。それは声をかける前に、あちらから目を見張って近づいてきたことからも察せられた。
「どうしたんすか?」
しかもそう声をかけられては、いかに自分たちがへろへろに見えるか証明されたようなものだ。実際、満身創痍なので意地を張る気力もない。
「すみません、お聞きしたいことと、お願いが……」
素直に今の状況を話して助力を仰ぐことにする。聞きに出てきたのは新米らしい若い生耳族の青年で、意外なほど物腰は柔らかい。
「お連れさんが……それは大変っすね」
彼は一通りミュアの話を聞くと、ちょっと待ってくださいと言って、鹿車の中へと顔を突っ込んでいた。たぶんあそこにこの商隊のリーダーがいるのだろう。彼はしばらく相談をしていた様子だったが、やがて笑顔を浮かべて戻ってくる。
「残念ながら行く先は反対方向なんですけど、簡単な手当てと薬でしたら提供するって言ってます。もちろん俺らも商人だから、ただって訳にはいかないけど」
願ってもない申し出だった。受けない手はない。道は間違っておらず、小屋は確かにこの先にあるということも聞いたし、少しでもアピアが回復すれば楽になるだろう。
「じゃ、車の中に場所を作ったから、そこに寝かせてもらって……」
青年の先導に従ってもらおうと、ミュアはシードを振り向く。途端に、彼女の顔は嫌な予感に引きつった。
シードは先ほどの諍いの時とは比べ物にならないほど険しい表情で、商隊を睨みつけていた。そして、予想通りの言葉が彼の口から飛び出す。
「嫌だね」
「ちょっ、シード……」
どうして、という言葉を待たずに、彼は爆発した。
「何だこいつら、ふざけんな! おいミュア、ガキ連れてさっさと離れろ。車の陰にいるの、あの町の宿屋で見た顔だぞ!」
瞬間、辺りの空気が一変する。その肌を刺す殺気に戸惑っていたミュアは、いきなり襟首を掴まれて放り投げられる。続いてセピアとニッカもぽいぽいとやってきた。
「逃げろって言ってんだろうが!」
片手で無造作に三人を投げた当人が、顔を真っ赤にして叫んでいる。その背後には様々な得物を手にした商隊だったはずの人々が迫っていた。
「逃げましょう」
ニッカがいち早く立ち直って、ミュアとセピアの腕を引っ張る。
「な、なになに?」
「盗賊ですよ。図られたんだ」
しかし、浮き足立っているミュアとは対照的に、セピアはむしろ現場に戻ろうと必死になっていた。
「アピア!」
それも当然で、シードの肩にはまだ意識を失ったままのアピアの体が乗っている。シードは最初に襲い掛かってきた男を殴り倒しながら、逃げるに逃げられない様子の三人を見て舌打ちをした。
「邪魔だって言ってるんだよ! こいつ連れて逃げられないだろ、何とかするから逃げてろ!」
セピアの気持ちも分かるが、シードの言うようにとても人一人連れては逃げられない。セピアを引きずるようにして、ミュアとニッカはとにかく乱戦の場から離れようとした。自分たちさえ安全な場所へ行けば、シードだって無理せずに逃げてくるかもしれない。とは言っても、この環境はどこまで行けば逃げ切れたと言えるか分からなかった。
「とりあえず、あの岩場まで」
少し離れた場所にごつごつとした岩が集まっている。少なくともあれを背にすれば、後ろから襲われることはないだろう。そんな安易な考えは読まれているだろうことは、疲れ切った頭では考えつかなかった。
三人が岩場に着いた時、その岩陰から何かがぐわりと立ち上がる。どんな大男でも敵わないほどの高みから、二つの目が三人を見下ろした。
10-6
面倒くさい。
シードは苛々していた。
何でこんなに面倒くさいんだ。
苛々しすぎて思考はそっちに取られ、半ば無意識に体を動かしていた。やってくる男たちを殴りつけ、掴み上げ、投げつける。その途中で、アピアがバランスを崩して地面に落ちたので、今度は左手で小脇に抱え直す。
ほら見ろ、邪魔じゃねーか。
「起きろよ、おい」
呼びかけるが、アピアはぐんにゃりとしているばかりだ。手首の辺りに鼓動が感じられるから、生きてはいるらしい。
「おいおい、何手こずってやがる」
「あんまり抵抗すんなら、殺せ、殺せ」
「持ってる女と金はもらっとけよ」
苛々する。せっかく思う存分戦えそうなのに、ちっとも嬉しくない。
打ち掛かってきた棒を右腕で受け止める。一瞬じん、と痺れるが、大したことはない。そういえばこいつらは刃物は持っておらず、その代わり縄や投網らしきものを持っている奴がいる。どうも基本は生け捕りのようだ。
この状況が心底うざったい。こいつを放り捨ててさっさと全員のしてやりたいが、何とかするとセピアに言ってしまった以上、それは出来なかった。振り回すのに適当なものも辺りにない。地道に殴り倒していくしかない。うざったい。
それでも続けるうちに、男たちのにやにや笑いが段々消えていく。受け止める打撃に少しずつ真剣味が感じられ始める。でもまだだ。まだ足りない。侮りの空気はまだ消えてない。
「お前ら、本気でかかってこいよ!」
その時、彼の耳に背後からの悲鳴が届いた。反射的にシードはそちらへと振り向く。
「何だありゃ……」
思わず声が洩れたのは、見たことのない光景が目の前にあったからだ。
岩場から二本の棒が突き立っている。その上にもっさりとした塊が乗っている。そこから上にまた棒が一本だけ伸びている。それはいきなり身を翻して、砂地の向こうへと走り出した。塊の横に、何かもぞもぞした袋がぶら下がっているのが見て取れる。
「鳥、か?」
大胆な縮尺のせいで気づくのが遅れたが、確かに形は鳥っぽい。しかも人が乗っているように見える。まさかと思うが間違いない。鳥は走っていく。また悲鳴が聞こえて、ミュアとニッカが焦っている。
事態を把握しかかった時、シードは横合いから衝撃を受けて地面に投げ出される。シードの隙を盗賊たちが見逃すばすもなく、顔面に拳を入れられたのだ。
「くそっ」
まともに打撃を食らうと、さすがにダメージなしとはいかない。眩む頭を押さえてシードは立ち上がろうとした。自分が左手を使っていることに気づいたのは中腰になってからだ。慌てて見回すと、半開きの目とかち合う。
「セピ……ア?」
まだ覚醒しきっていない顔のアピアは、少し離れたところにその身を横たえながらそう呟く。叩き起こすか、また抱え直すかシードは迷うが、近寄る時間を与えず数人の盗賊が寄ってたかって棒で殴り掛かってきたので、その場から動けなくなる。
また遠くから悲鳴が聞こえた。
「セピア!」
途端にアピアはがばりと起き上がった。そして走り出そうとするが、いきなり第一歩目でよろける。意識が戻っただけで全然回復はしていないらしく、盗賊に周りを囲まれているということを認識しているかどうかも怪しい。実際、彼らの横をすり抜けて声の元へ行こうとして、あっさりと腕を掴まれている。それでもアピアは進もうとし、必然的に盗賊に引きずり戻されていた。
その様子を殴られる合間に見て、シードは何やってるんだと舌打ちをする。目を覚ましたところで役に立たないとは。
苛々する。
「おい、そいつをさっさと片付けて、残りの二人も……」
「ふざけんなって言ってんだろうがよ!」
盗賊の言葉が導火線となって、ついにシードは二度目の爆発をした。打ち下ろされる棒を払い、叩き折り、跳ねるように立ち上がる。さっさととはつくづくなめられている。いい加減、我慢の限界だ。
そして、アピアの様子でシードは確信していた。あのでかい鳥にぶら下がっていた袋の中にセピアがいたのだ。何だか知らないが、あれは盗賊の仲間だ。鳥は馬鹿に足が速く、その姿はすでに砂丘の向こうに消えている。走っても追いつけないだろう。
ならば、目の前のこいつらから行き先を聞き出すまでだ。とはいえ素手では時間がかかりすぎる。アピアを持たずに済んで自由になった両手をぶらぶらさせながら、シードは辺りを見渡し、それを見つける。
「そういや、あるな、振り回すもの」
それから彼は振り向いて、アピアを捕まえている男を睨みつけた。
「おい、しばらくそれ預かっとけ。変な真似はするなよ」
ようやく自分のペースに持ち込めそうな状況に、シードはにたりと笑った。
10-7
はたして小屋はあった。
いつから使われていないのか、砂にまみれてところどころ壁が剥落している有様であったが、地図の位置からそう離れていないところにそれは佇んでいる。ここは主要ルートではないにしろ、かつて使われていた道だったのだろう。偽の地図とはいえ、嘘の地図ではなかったようだ。
「襲う時まで怪しまれないようにですね、きっと」
ニッカは鹿車を誘導しながら、幌から顔を覗かせるミュアに話しかける。地図の通りに小屋がないとなると、獲物は不安に駆られて前の町へ引き返しかねない、ということだろう。
「用意周到ね」
「……つまり、玄人ってことですよ」
「大丈夫、かな?」
「どうとも言えません。さ、つきました」
近くで見ると、普段使われていない小屋だということがよく分かる寂れようだ。床や壁は埃や砂にまみれ、長い間人の立ち入った気配がない。それでも造りはしっかりしているようで、野宿よりかなりましなことは間違いなかった。
「私が中を軽く掃除してくるから、アピアの様子を見ておいてあげてね」
「了解です」
腕まくりして小屋へと入っていくミュアを、ニッカは兎鹿の首元をいなすように叩いて見守った。最初は興奮して手がつけられなかった兎鹿だが、落ち着けばきちんと躾けられているので扱いやすかった。待機を指示して、ニッカは車の中へと移動する。
盗賊たちが積み込んだ荷物はミュアの検分を終え、いらないものは奥へと積み込んであった。物騒なものがその大半で、拘束具らしきものすら見える。彼らの獲物は主に人間なのだろう。入り口の町で目を付けられたに違いない。熱地は、一度にたくさんの人間が消えても不自然ではない場所なのだから。
問題はそれ以上の裏があるかどうかだ。そして、あの鳥。動物に乗るということ自体が驚きだが、とりあえずそれは置いておいて、乗っていた盗賊がどうしてセピアを狙ったかが気になるところだった。彼が固まっている三人を一瞥した時、自分とセピアの間で視線が泳いだ気がしたのだ。結局投網はセピアに向けられたのだが。
「アピアたちを追ってる奴らと関係があるのか否か、ってとこですか」
あの三足族たちは数を増やしている。最初は三人だったそうだが、前現れた時は七人ほどになっていた。アピアが一人で蹴散らすのもそろそろ限界だろう。しかし、海でのセピアの様子からしても、打ち明けてくれそうにない。
床に横たわっているアピアを見やり、ニッカは小さくため息をついた。するとそれに反応したかのように、アピアが小さく呻く。
「小屋に着きましたよ。移動しましょう」
声をかけると、彼は薄く目を開いて呟いた。
「セピアは……?」
「覚えてませんか。今、シードが助けに行ってくれてます」
セピアが連れ去られ、アピアを手放した後のシードは無茶苦茶だった。盗賊たちが十数人溜まっているところへ突っ込んでいき、暴虐の限りを尽くしたのである。得物は、車。兎鹿から車をもぎ取り、振り回したのだ。結果、車は二台全壊し、兎鹿を怯えさせ、盗賊たちは遁走し、シードは追撃に入った。
その後、なおもセピアを追おうとするアピアをなだめ、残った車に半ば無理矢理押し込み、ここまでやってきたのだ。
「すぐ戻ってきますよ。安心してください」
そう言いつつも、安心できないだろうなとニッカは思っていたが、案の定アピアはよろよろと起き上がる。
「……行く」
「無理です」
「僕が、行かなきゃ」
「無理です」
「僕が」
引き止めの言葉はまったく耳に入っていないようだ。熱地へと踏み出そうとするアピアをニッカは掴んで止めようとしたが、少しは回復したらしく止められそうにない。
「終わったよ……って、何」
その時、ちょうど良くミュアが出口に現れた。ニッカは彼女に目配せで妨害を依頼して、自分の荷物をあさり始めた。
「だから、今から行っても場所も分からないでしょ?」
「行かなきゃ、セピアが」
「後はシードに任せるしかないって。信じてあげようよ」
ふらふら歩き続けるアピアを追って、ミュアは話しかけるが、やはり聞いてはくれない。どうもこの兄弟はお互いに変な執着心があるように思える。ミュアも兄弟は大事に思っているけれど、ここまでするかというと首を捻る。まあ、こんな危機的状況に置かれたことはないし、これからもないと思うが。
「お待たせしました」
そんなことを考えていると、ニッカが追いついてきた。彼はミュアに謝意を示すと、まだ先に行こうとするアピアの顔を覗きこむようにして再び尋ねる。
「本当に行くんですね?」
その問いに、アピアはためらいなく頷いた。
「行く」
「分かりました。じゃあ止めません」
「ちょ、ニッカ!」
咎めるミュアを無視し、ニッカはアピアに水の入ったコップを差し出す。
「でもその前に、せめて水分を取っていかないと、行き倒れですよ。どうぞ」
普段のアピアなら、こんな詐術に嵌ることはなかっただろう。焦りのせいか、体調のせいか、アピアはそれを押しつけられるままあっさりと飲み干した。そしてさらに進もうとし、しかし数歩行ったところでくたりと足から崩れる。
ミュアが駆け寄ったところ、また意識を失った様子だった。振り向いて目で尋ねるミュアに、ニッカは肩をすくめる。
「大丈夫ですよ、眠り薬ですから」
「そんなものどこで……」
「いや、あの宿屋の主人の部屋を、せっかくだから見せてもらいまして、その時に。色々ありましたよ」
これは抜け目ないと表現していいものかミュアは迷うが、とにかく今は役に立ったので追求はしないでおくことにした。
そろそろ陽も暮れようとしている。また遠くで鳴っている嵐の音に、さらなる困難をミュアは予感していた。
10-8
下からの熱を防ぐために小屋は二階部分を使うようになっており、アピアを運び込むには少し手間取った。一階は兎鹿などの家畜や車置き場で、一応底上げはしてあるが大雑把な造りの壁しかない。
抱えて階段を昇り、備え付けの簡単な寝台に寝かせて、二人は一息つく。
何だか色々ありすぎた一日だった。それにまだ終わっていない。シードとセピアが無事帰ってきて、本当に安心ができるのだ。とはいえ、休める時に休んでおかないと自分たちも参ってしまうだろう。
「ごめんニッカ、服に入っちゃった砂を払って、体を拭きたいんだけど……」
「はいはい、しばらく外に出てますね。車から荷物を運んでおきますよ」
ミュアが頼むと、ニッカは快く承知して外に出てくれた。そこでミュアはやっと髪をほどき、服を脱いで砂を払うことができる。砂は床に溜まるほど至るところからざらざら出てきた。水は使えないので、梳いたりはたいたりして何とか一通り払い落とす。その後、新しい服に替えると、ようやく人心地がついた。
「アピアも払っといてあげようかな……」
顔の近辺だけでもすっきりするだろう。それにあまり熱があるようだったら、水を使って冷やしてあげた方が良い。盗賊たちから奪ったものがあるので、少しは余裕が出来たはずだ。
何の気なしの動作だった。熱を計りにくいと思ったミュアは、アピアの頭に巻いてある布を上に少しずらす。途端、息を呑んだ。
「もういいですか?」
その時ちょうどニッカが外から声をかけてきて、ミュアは慌てて布を下げた。とっさに返事をする。
「あ、うん、いいよ」
今見たものが信じられない。心臓がばくばく音を立てているのが分かった。入ってきたニッカが不審げな顔をして尋ねてくる。
「どうしたんですか。顔が赤いですよ」
「え……え、そうかな。疲れたかも」
「ミュアも倒れたら、僕はお手上げです」
「そうだよね、気をつける」
「……本当に大丈夫ですか?」
微妙に噛み合わない会話は、単にニッカを心配させただけのようだった。平気平気とミュアは手を振り、ニッカにも砂を払うことを勧めて、今度は自分が外に出る。それは動揺を隠すためでもあった。
階段に腰掛け、ざらつく生温い風に吹かれながら、ミュアは改めて自分の見たものを考え直す。見間違いはたぶんない。だとするなら、何かの間違いか、もしくは理由があるのだ。そういえばセピアも同じように額を隠している。同じものがあると考えて良いと思う。そして、セピアまでもが自分の責任でそんな目に遭うとはとても考えられない。
「そうよ、信じてあげないと」
ミュアの心の中は、最終的にはそう結論づけられたことで落ち着いた。自分の勘は結構当たるのだ。一緒に旅をしている時はもちろん、初めに脅された時ですら、アピアから悪い印象を受けることはなかったのだから。
「もういいですよ」
ちょうど中からニッカの声がして、ミュアは立ち上がる。ちょっと事情を聞きにくくなったことは確かだが、別に今までと変わりなく接していけばいいことだ。
その時、ミュアは砂地の向こうに人影を認めた。
最初はシードが戻ってきたかと思った。けれどいくら何でも早すぎるし、見える人影が増えるに至って、あまり望ましくないことが起こっているのを察する。ミュアは小屋の中へと飛び込み、ニッカに来訪者の存在を告げる。
「やっぱり盗賊なの?」
彼らにはミュアたちがこの小屋に逃げ込むだろうことは見当がつくはずだ。シードは失敗したのだろうか。
しかし窓から様子を窺ったニッカは、首を横に振った。
「盗賊じゃありませんよ、あれは……アピアの追っ手です」
その間にも、小屋は三足族たちによって囲まれつつある。
その数は十人ほど。彼らは顔を布で覆って隠し、目だけを覗かせている。
薬がよく効いているアピアは目覚める気配もなく、シードもまた帰ってくるとは思えなかった。