第一章 人の章
「沈黙の嘘」
5-1
北方山脈から流れ出る北森川が二つに分かれるその場所に、交易都市タイナーは位置している。川を通じて山脈からは石材や鉱物が、陸を通じて大森林から木材が集められ、そして北へ南へと運ばれていく。王都からは熱地や聖山を目指す人が、聖山からは王都を目指す人が集まり、そして北へ南へと去っていく。
物々や人々の一時的な休憩の地、街を囲む北の石で作られた市壁とその中に立ち並ぶ南の木で作られた家々、それがタイナーだった。
「うわ、人ばっか、あっちもこっちも」
目抜き通りには色とりどりの布で張られた店の屋根が立ち並び、客引きの声も盛んである。様々な格好をした人々が通り過ぎるその中を、五人は歩いていた。
慣れていないことをばれないようにしないとと心がけていても、物珍しいものを目が追って思わずきょろきょろしてしまう。ミュアは、そんな態度を取っているのが一行の中で自分だけだと分かると、少し落ち込んだ。
「浮かれてるの私だけなの?」
「いや、僕も初めてですけどね」
「俺も」
「じゃあちょっとは楽しそうにしなさいよ」
「性格ですから」
「めんどい」
「僕、楽しいよ」
つれない仲間たちの中で、現れた救いの主はセピアだった。ミュアは彼の頭を胸にかき抱き、男二人を睨みつける。
「セピアが一番大人だわ。セピアと楽しく歩くからいいもんねー」
「お前が子供だ」
シードの突っ込みにも素知らぬ顔で、ミュアはセピアと手をつないだ。それからアピアの姿を見つけ、空いている手を振る。
「ちょっとお姉ちゃんの座を借りるけどいい?」
「あ、うん」
言葉少なに頷くアピアを見て、さっきから彼があまり会話に参加していないことにミュアは気づいたが、いつも離れてセピアと話していることが多かったので、今回もそうなのだろうと判断した。もしかして彼も人の多い場所で緊張しているのかもしれない。
「まあ楽しく歩くのは良いとして、まず宿を見つけませんか? その後買い物に出ましょう」
そこに尤もなニッカの提案が来たので、一旦じゃれ合いはお預けになった。今までの村とは違い、豊富な選択肢がある宿を品定めしながら、彼らはまた歩き始める。
その姿を少し離れた場所から凝視している一人の男がいた。
「見つけた……」
その男はしばらく放心している様子だったが、彼らの姿が人ごみに消えそうになると、慌てて早足で一行の後を追い出した。
5-2
各々の部屋に不必要な荷物など置いて、一階に集まったミュアたちだったが、そこには三人しかいなかった。ミュアはニッカに尋ねる。
「シードは?」
「先に行っちゃいましたよ」
相変わらず集団行動が出来ない男である。まあそれは分かっているので放っておいて、珍しい方に話を振る。
「セピアは一人で大丈夫?」
「買い物は僕に任せるって。ミュアたちと一緒なら安心だからって」
ほとんどを二人一組で動いていた兄弟は、今は弟だけしか姿を見せなかった。まあ何だか色々あるみたいな兄弟なだけに、ミュアも詮索は止しておく。その代わりにまたセピアと手をつないではりきってみせた。
「よーし、じゃあ今日は私がお姉ちゃんだ」
しかしその気遣いは外れたようで、セピアの顔に僅かに困惑が走るのをミュアは見つけてしまう。
「あ、ごめんね。やっぱりアピアがいいもんね」
手を放すミュアに、今度はセピアが戸惑ってしまった。彼が困ったのはそのためではなかったからだ。
「あの、そうじゃなくて」
セピアも慌てて言い募る。
「あの、じゃなくて、おねえちゃんって何だろって……」
「え?」
予想外の返しにミュアの言葉は詰まった。何を言われているのか分からない。考えれば考えるほど分からない。奇妙な沈黙が二人の間を闊歩する。
「女の兄弟のことですよ」
傍でその不器用なやり取りを見ていたニッカが、さらりと口を出して沈黙を追い払った。さすがにそんなこと聞いてるんじゃないと思うけどな、と思うミュアに反して、セピアは納得した様子を見せる。
「そうなんだ」
「そうですよ」
「じゃあ、ミュアはおねえちゃんでニッカはお兄ちゃん?」
「そうなりますね」
それでいいのか、とミュアは突っ込みたかったが、ニッカとセピアの間に円満解決の空気が漂っていたので引っ掻き回すのもためらわれた。
「今日はよろしくお願いします」
そこで、セピアの方から手を握ってきて、おまけに邪気のない笑顔を向けられたので、まあいいかと思ってしまったこともある。
しかし、そこで引っ込めたミュアの疑問は、結局その日のうちに解決することになる。そのきっかけは買い物中に起こった遭遇からだった。
5-3
革で出来た帽子を被せてみると、案の定良く似合う。生耳族用のその帽子は上部が広がっている独特の形だ。ミュアはセピアのその格好をニッカに見せて問いかけた。
「これで耳があるように見えないかなあ」
ここで言う耳とは、もちろん生耳族の耳のことである。ニッカは少し首をかしげて自分の意見を述べた。
「その場合、本当の耳を隠さなきゃいけないでしょう。深くかぶりすぎるのは変ですし」
「ああ、そっか。スカートつけても尻尾がないのはすぐ分かるだろうしなあ」
「マントはどうなんです?」
「うーん、やっぱ違和感があると思う。いつもそれだと堅苦しすぎるもの」
「羽も耳も見せるものですからね、普通は」
不出来子との説明が通用しても、やはり羽も耳もない人間は目立つ。出来ることなら、あるように見せかけた方が良い。その方法を模索するために三人は衣類の店に来ていたが、有効な打開策は見つけられなかった。
羽や耳を隠すのは正式な場所での作法であり、普通の場所をそんな格好で歩いていたらむしろ悪目立ちしかねない。せいぜいが薄い素材のマントを羽織って、羽と見間違えさせるくらいだろうか。それならむしろ小細工を弄せず、今まで通り堂々としていた方が良さそうだった。
「不出来子を隠さず、そういう集まりだと思わせた方が無難でしょうね。ミュアには悪いですが」
それがミュアも不出来子として同一視されかねないことを意味するのは理解できるのだが、一々ニッカがそう断るのがミュアには不思議だった。
「全然構わないけど?」
「なら、そういうことにしときましょう」
ニッカは帽子を戻しながらそう結論し、ミュアの返事の疑問形には気づかないふりをする。ふりだ。それはわざと相手にそう悟らせるための言動で、ニッカの癖のようだった。ニッカはよく喋るが、もっとも雄弁なのはこういった時の仕草だ。それも、相手の反応を封じるための。
「じゃあ、食べ物とか小物とかを買いにいきましょうか……って、何むくれてるんですか」
「別にー。セピアは何か欲しいものある?」
大人しく着せ替え人形をしていたセピアの手を引っ張って、ミュアは店を出た。自覚してやっているんだから、こっちも遠慮することはない。この一行は何だかそれぞれにややこしそうだが、全部に付き合ってやる必要もないし。
「えーと、アピアに買っていきたいんだけど、果物とか売ってる?」
「あると思うよ。探してみようか」
「うん」
二人は市場の通りへと歩き出し、その後をニッカがついていく。大森林地帯を抜ければ、熱地へと入ることになるので、水筒や保存食を最低限はここで揃えておかなくてはならない。品定めをする三人だったが、ある場所でセピアが小さく声を上げた。
「あ」
「どうしたの?」
尋ねるミュアに、しかしセピアは首を横に振る。
「な、何でもない」
どう見ても何でもない態度ではないので、さっきセピアが見ていた方向にミュアは目をやった。そして、その訳を知る。
道に並ぶ店の開け放たれた窓の中に、シードの姿を見つけたからである。しかもそこは、明らかに酒屋であった。
5-4
中に踏み込むと、途端にシードが嫌な顔をした。
「何の用だよ」
「聞く必要があるの?」
彼は革水筒に酒を詰めてもらっているところらしく、その待ち時間にさらに何やら飲んでいる。これが素なのかもしれないけれど、近頃本当にけじめが足りない。
「酔わないんでしょ」
「酔わないよ」
「飲む意味って何なの?」
「うまいから」
不毛な問答が繰り返され、ニッカとセピアはそのやり取りを入口から見ていて、店の主人は我関せずという顔で作業を進めている。
「あと二年くらい我慢できないの?」
「お前、本当にうるさいな。女には分かんないだろうけど、男は飲むもんなんだよ」
その言い振りに察知するところがあり、ミュアはニッカに視線を向ける。すると、その視線は綺麗に受け流された。それは明らかに後ろめたさからではなく単なる言葉のない肯定のための仕草で、ミュアは生ぬるい気分になった。
そういえばこの二人、ずっと同室だったのである。変に仲が良いところがあると思ったら、そういうことの積み重ねがあったのか、と得心もする。
責める気にもなれず、シードに向き直ると、何故か彼はにやにやしていた。まだ何かあるらしい。彼の視線の向けられるところを知り、今度はミュアも驚く。
「セピアも!?」
ミュアとシードの板ばさみになって、ニッカほどうまくごまかせないセピアは正直に申告することにした。
「一回だけ……」
つまりあの夜だけなのであるが、その時のことを詳しく説明できるはずもない。愕然とするミュアに、シードは得意そうに言い放った。
「分かったか。女は黙ってろ」
図らずも三対一の状況に追い込まれたミュアをどうにかしてフォローしたいとの思いが、セピアに言葉を促した。それが困った事態を呼び込むとも知らずに。
「あの、でも、僕まだ男じゃないし」
瞬間、店の中の空気が凍りついて、セピアは肝を冷やした。まずいことをしてしまったらしいが、何が悪いのか分からない。
「お前……」
シードが椅子から立ち上がり、足音も高らかに近づいてきた。その顔が怖くて、セピアは涙目になるが逃げる暇はなかった。
「お前、女だったのか?」
「でも弟ってはっきり、え?」
いつもなら味方になってくれるだろうミュアも戸惑っているだけで、襟元を掴むシードの手を払ってくれそうにない。
「あれ、言ってませんでしたっけ?」
その場を救ってくれたのは、意外にもニッカだった。彼はいつものように平然とした顔でこう告げる。
「ですから、彼らの特徴ですよ」
そして、店の主人に聞こえないように声を落とし、囁いた。
「三足族はですね……」
5-5
そろそろ皆が戻ってくる頃だろう。
アピアはベッドから起き上がり、額の布を締め直した。そしてベッドの端に腰掛けたまま、小さく息を吐く。
まだだ。まだ。まだそんな時じゃない。だから大丈夫。
彼は自分にそう言い聞かせ、胸に手をやる。指でなぞれば、硬く微かに温かい感触が伝わってきた。
その時、ガツガツとでもいうような、激しい足音が部屋の外から聞こえてきて、アピアは驚いて立ち上がった。次いで扉が乱暴に叩き開けられる。
「おい!」
戸口に立っているのはシードだった。そして彼が手にしているものを認めた途端に、アピアは反射的に床を踏み込んでいた。
次の瞬間、渾身の力をこめた膝がシードの腹に叩き込まれる。
「セピア!」
怯んだシードの手から、アピアはセピアの襟首をもぎ取った。呆然としているセピアを腕の中に庇い、アピアはシードを睨みつける。
「何の真似だ」
少しの容赦もしなかったので、しばらくシードは変な声で呻いていたが、やがて気を取り直したらしく顔を上げる。彼が次に発した一言は、どうせまたぎゃんぎゃん喚いてくるのだろうと思っていたアピアには予想外のものだった。
「だ、騙したなお前!」
頭の中を幾つもの可能性が駆け巡り、自然アピアは体を固くする。しかし、シードの告発の内容はそんな想像を軽く上回っていた。
彼はアピアに向けて、指を突き出しこう叫ぶ。
「お前ら、半分女なんだろーが!」
「……は?」
思わず間抜けな声を出してしまったのは、不可抗力と言える。激昂しているシードに対して、訳の分からない因縁をつけられたアピアは混乱していた。
「女なら女って言っとけ、卑怯だぞ!」
「いや、えーと、はい?」
そのアピアの耳に、セピアが口を寄せて経緯を囁く。それでようやくアピアは状況を理解し、同時に拍子抜けする。
「あの、つまり、三足族が成人するまで性別がないってことを言ってるの?」
それを言わなかったことで卑怯と罵られる謂れはない。というより、二人にとってはあまりに当たり前のことだったので、わざわざ伝えるなんて思いも寄らなかっただけだ。
「僕らは男でも女でもないよ。強いて言えば、女を選択する可能性があるってぐらいで」
「だから半分女なんだろ!」
「違うってば……」
話の通じないシードに、アピアの苛つきは段々募り始める。大体、どうしてそんなことにこだわるのか理解できない。自分たちが男だろうと女だろうと、シードには関係ないじゃないかとも思う。
「じゃあさ、僕が女だとする。違うけど。で、女だとすると何が言いたい訳?」
そこで放っておけばいいものの、つい聞いてしまった。
「んなの決まってるだろ。女相手に本気出せる訳ないだろーが!」
返事は呆れ果てたものだった。アピアは大きく息を吐きつつ、言葉を叩きつけるように投げ返す。
「よく言えたもんだよね、一度だって僕に勝ったことないくせに!」
「なっ……!」
シードが挑発に乗って奮い立つのは、アピアの計算通りだった。怒りに目がくらんで留守になった足元を、すかさず払う。そして、バランスを崩した彼の体をさらに軽く一蹴りした。当然の結果で、シードは後ろへと倒れ込み、廊下に尻餅をつく。
「もう一度言う。僕らにくだらないちょっかいをかけるのは止めてもらおう、シード=シンス=トーラー!」
拒絶の宣言と共に扉は閉ざされた。黙って扉を睨みつけるシードだったが、その目線を塞ぐように見覚えのある革水筒が差し出される。見れば、ニッカが横に立っていた。
「受け取っておきました。どうぞ」
シードは無言のままそれを受け取り、蓋を開ける。強いアルコールの匂いが鼻についた。
5-6
「もう、またいない」
夕食の席には四人の姿しかない。ミュアの憤慨もさすがに諦めに変わってくる頃で、そう一言触れただけで追求はされなかった。今までの村と違い、食べる場所には不自由しないので、まあどこかで勝手にやっているのだろう。
「でもさ、シードほどじゃないけど、びっくりしたよ。三足族ってそうなんだ」
声を潜めて、ミュアはアピアに話しかけた。四人が座っているのは店の一番奥まったところで、周囲も騒がしいため、大きな声を出さなければ会話の内容が聞こえることがない場所だ。
「こっちからすれば、産まれた時から決まってるって方が変に思えるよ」
「そっか。そうだよね。成人の時、選択するってどうやるの?」
「成人礼……こっちでもあるのかな、神殿で。その時にアネキウスに誓いながら、洗礼を受ける。その後、徐々に固まっていくって感じかな」
「へー。じゃあさ、服って違いはあるのかな。こっちじゃ見ての通り、男と女の服は違うんだけど」
「成人してからは体型が変わる訳だし、一応違いはあるけど、こっちほど差は大きくはないと思う」
「ふーん、すごいなあ」
ミュアは興味津々な様子を隠そうとしない。彼女にしてみれば、ようやくアピアたちが三足族という異種族だというのが実感できた心持ちだ。姿形があまりにも特徴がないため、つい何も能力がないものだと思ってしまっていた。
「それにしてもシードは凄かったわよね。血相変わってたもん」
ニッカが三足族のことを告げた途端、彼はセピアの襟首を掴んだまま、店を飛び出していったのである。残されたミュアとニッカはそれぞれ探しに出かけ、宿屋にてニッカが捕捉したという訳だった。
「あの……こっちじゃ、そんなに男とか女とかってこだわるものなの?」
今度はおずおずとセピアが尋ねる。彼は婉曲な表現を使ったが、受けたニッカがずばりとその本質を突いて返した。
「シードの話ですか?」
会話の流れにアピアの顔が少し不機嫌さを増す。
「そうですね。こちらでは基本的に女性は殴りあったりしませんけど、向こうではどうなんですか?」
「成人した後なら、確かに男化した方が力が強いから戦闘向け……かな。でも、相手が女だから戦わないってことはないと思う」
「そこの部分のずれですよね。それは未分化の時期があるからこその感覚でしょう。こちらでは産まれた時から女性は女性で、はっきりと区分されてるんです」
例えば、王族や貴族の身辺警護をする衛士に女性が採用されることはまず有り得ない。
「彼はああ見えて、育ちは良い訳ですから。女性は守るものだと叩き込まれてるんですよ」
「でも僕らはまだ未分化だから、関係ないだろう」
そこでアピアが我慢しきれずに口を挟んできた。ニッカはそれに対して肩をすくめてみせる。
「そう簡単に割り切れなかったんでしょうね」
何しろ、猪突猛進のあの性格なので、方向修正がなかなか効かないのは想像がつく。
「でもさ、じゃあシードどうするのかな」
今まで三人の会話を聞きながら食べていたミュアが、スプーンを止めてそう割り込んでくる。怪訝な顔をする三人に、彼女は説明をした。
「だって、シードがついてきてるのって、アピアと喧嘩したいからでしょう?」
「まあ、砕いて言えばそうなりますか」
あまりにも呑気な響きではあるが、間違ってはいない。アピアはやはり不満ありげな顔をしたけれど、特に突っ込みはしなかった。
「まさか、このままいなくなっちゃったりしないよね」
「そうしてくれると有難いんだけど」
ただ、口の中でそう呟いていた。
5-7
その頃、当の話題の主は特に宛てもなく目抜き通りをぶらついていた。道に木の柱を立て、布でその三方と上を覆っただけの簡単な店舗が立ち並ぶその通りには、夜が始まった今でも煌々と火が焚かれ、人々で賑わっている。土豚の串焼きを一本買ってかじりながら歩いているうちに、人だかりがあるのにシードは気づいた。どうやら講談が行われているらしい。耳をそばだてるとスティクスの名が聞き取れたので、そちらに足を向ける。
途端、彼の肩が掴まれた。
「見つけたぞ」
聞き覚えのある声に振り向くと、見覚えのある顔が見下ろしている。シードは動揺もせずに返事をした。
「何だ。リーム先生か」
そこにあったのは、トーラー公爵家の衛士であり、シードの家庭教師を務めていたリームの姿だった。
「何だじゃない。まったく……」
リームはその態度に深くため息をつく。少しはうろたえたり逃げ出したりしてほしいものである。まったく怯まない様子からして、彼は自分の家出を正当で後ろめたいところなどないと思っているのは間違いない。
「先生、こんなとこで何してんの?」
聞きたいのはこっちだ、と思いつつも、それを言い出すと不毛な問答になりかねないので、リームは素直に答えた。
「探しに来たに決まってるだろう」
シードが出奔したのはリーラスの屋敷からで、西はトーラー領、東は北方山脈で南に行くしかなく、南に行くとしたらこのタイナーを経由する可能性は高い。リームはそれに賭け、この町に直行し張っていたのである。二週間ばかりで彼の苦労はこうして報われたのであるが、目標がこの調子では甲斐がない。
「ふーん。親父が連れて来いって命令した訳じゃないんだろ?」
仲が悪いくせに、お互いのことは良く分かるらしい。監督不行き届きを謝るリームに対して、気にしないでしばらく放っておけと確かに公爵は告げていた。それを言い伏せて無理に探しに出たのは自分であり、だからこそ成果なしで帰るつもりはない。
衛士に取り立てられてから二ヶ月。
ご子息の家庭教師を命じられた時には光栄に感じたが、まさかその後すぐ家出されるとは思わなかった。実質接したのは一ヶ月足らずで、すぐに遠慮がいらない、一筋縄ではいかなさそうな跡継ぎなのは分かったけれど、それだけだ。まだ何も教えていないに等しく、ここで引き下がって別の任務を拝命する気にはなれなかった。
「そういう問題じゃない。とにかく一度戻ってだな、ちゃんとした話し合いを……」
しかし、そう説教している間にも、シードはふらふらと人混みに入っていってしまう。
「こら、待てって!」
相変わらずマイペースな彼の調子に、リームはこれからの困難を思わずにはいられなかった。
5-8
川の近くに建てられた市壁は水気を吸い込み、積まれた石の間にはどこからも苔が葺いていた。そこに耳をつけると、外の流れが奏でる耳鳴りのような音が石の中に響いているのが分かる。
壁。内と外を分ける物。
ではあれは、どちらが内でどちらが外なのだろう。
「お待たせしました」
声をかけられ、アピアは壁と思考からその身を剥がした。振り向けば、白い毛に覆われた獣の耳を生やした少年がそこに立っている。
「何の用?」
街の喧騒は遠く、辺りには人気がまったくない。こんな場所に呼び出す思惑は明るいものには思えなかった。それでも応えたのは自分からも聞きたいことがあったからだ。
「僕はシードじゃないんですから、果し合いは申し込みませんよ。身構えなくても大丈夫です」
警戒を見透かし、ニッカは両手を小さく挙げて話しかけてくる。
「シードといえば、ちょっと昼間のあれは可哀相でしたね」
わざわざその名前を出してくるところに意図が見える。そんな話は別にしたくなかったが、答えずにはいられない。
「夕食の時といい、庇いたい訳?」
「苛つくのは分からなくもないですが、少し意地悪に見過ぎだと思いますよ。彼にも良いところはたくさんありますから」
「どこが?」
そう聞き返したのは自然の流れだった。ニッカは少し間を置いた後、こう返してくる。
「そうですね。例えば、彼は正直です、僕たちと違って」
「僕は嘘なんてついてないけど」
「そうですか?」
今日のニッカは明らかに意地悪な物言いをしてくる。昼間からの機嫌の悪さを引きずっているアピアは、それに辟易し始めていた。
「……ついてない」
「喋らなければ嘘じゃない、誤解したのは相手が悪いってのは詭弁ですよね」
それは突かれたくない場所で、しかしニッカは言葉を止めてはくれない。
「意図した沈黙は偽りですよ」
「何が言いたいの?」
「すみませんね。ストレートに聞いても答えてもらえないと思いましたので」
彼は話題を誘導して、アピアの沈黙という逃げ道を塞いだ訳だ。こういう駆け引きは苦手な上に、苛々していて慎重さに欠けていた。
シードと殴り合っていた方が随分楽だな、とうっかりアピアは思ってしまい、自分のその想像に気分を害する。今日は厄日だ。このまま流されていると変な循環にはまっていきそうで、彼はそこから抜け出すために自分から討って出ることにする。躱しているだけでは勝つことは出来ない。
「……僕も聞きたいことがある。君は知りすぎてる。三足族のことについて、そこまで知ってるこちらの人間なんて聞いたことない。ごく普通の村の人間だなんて、嘘だろう」
アピアの告発に、ニッカは何も言わないまま正面から彼の視線を受け止めてみせた。路地に灯りはなく、月明かりだけでは彼の表情の細かいところまで判然としない。しかし、そこに笑んでいる顔があるような気がして、アピアはぞっとする。
「と、いう風に黙ると、貴方は誤解しますよね。当然です」
そのタイミングを計っていたかのごとくに、軽い調子の声が場を割った。
「断言しておきましょう。僕はどこにも何のつながりもなく、力もないただの村人ですよ。たぶん貴方と敵対することもないはずです」
先ほどの印象は拭いがたく、もちろんそれでアピアが納得するはずもない。不審の目を向けるアピアに対して、ニッカは再び語り始める。
「見ての通り、僕の片親、言ってしまえば母親なんですけど、彼女は生耳族です」
彼は自分の頭に生える耳を引っ張ってみせた。
「だからね、何も言わなくとも皆思うんですよ。父親は有羽族だって。僕は沈黙の嘘をずっとついてきた」
ニッカの言わんとするところを悟り、アピアは愕然とする。
「まさか……」
不出来子とは低能力者であり、生まれる原因は異種族同士の婚姻にある。即ち、父親が有羽族であるのが嘘ということは、答えは一つしかない。
今度は、ニッカは沈黙をもって答えとしなかった。
「そうです。僕の父親は、自らを不出来子と偽った三足族でした。納得いただけましたか?」
それを疑う要素は存在しなかった。彼は見ただけで三足族だということを看破した。彼はやけに三足族のことについて詳しかった。彼は男という性別を既に持っていても、線が細く三足族的な容貌だった。
「貴方はたぶん僕の父を知りはしないのだろうけど、まったく無関係とも思えないんですよ。貴方は壁を越えてきた。貴方は自分を不出来子と偽ることを知っていた。貴方はこの国に以前から三足族が侵入していることを知っている」
アピアは何も言えない。それはしようとしている沈黙ではなく、ただ、何も言えない。
「両親ともすでに死に至り、何も語ることはありません。僕は父のことが知りたくて、その手掛かりを探しているんですよ」