第一章 人の章
「誤らぬのは神のみなりて」
23-1
ミュアはふと立ち止まった。
そして振り向き、睨むように木々の向こうを透かし見る。
しかしその途端、腕を引っ張られて体制を崩す羽目になった。
「勝手に止まるな」
ごく冷淡に、引き立てるゼナンは彼女に指示を与えた。そして彼は半ば無理やり、彼女を前に向かせる。
「ほら、もう到着だ」
言われた通りに、すぐそこに建物の壁が見えていた。その白い石組みの外壁には細かく意匠が彫られている。太陽と、人と、人から伸びる影。聖書の一節、人が影を、悪を背負うようになった話の場面だ。他の意匠に目を移す前にまた引っ張られ、入り口へと向かわされる。
「さっさと歩け」
「そんな風に引きずらなくても従うわ」
粗雑に扱われ続け、ついにミュアは口答えをした。すると、彼女の耳にその低い囁き声は流し込まれる。
「分かっているだろうな。俺がお前を生かしておく理由は、僅かほどもない」
嘲るような響きを持つ声だ。
「今後、どういう扱いを受けるかはお前の態度次第だ」
ミュアは再び黙り、ゼナンは彼女を急かして先へと進ませる。やがて細い道は建物の入り口へとたどり着き、一行はその中へと通された。
扉をくぐった先は、円形の部屋になっていた。壁に細く開けられた隙間と、天に開いた穴から陽光が差し込み、中を照らしている。外へ続く扉の他に、別の部屋へ続くと思われる二つの口が正面に開いていた。
「ここで待て」
連れてきた男は三人をそこに残し、そのうちの一つへ姿を消す。つまりそこにセピアの伯父が、そしてきっと両親がいるのだ。思い詰めた表情でその口を見つめるセピアに、ミュアは寄り添うように立つ。しかし、またも彼女の行動は妨害された。
「離れていろ」
後ろから肩を無造作に掴まれ、横へと払われる。体術に無縁なミュアが反応できるはずもなく、まともに横手の壁に頭をぶつけてしまう。
「ミュアには手を出すな!」
その扱いを見て大人しくはしていられなかったらしいセピアが、庇うように二人の間に入る。
「ミュアは全然この国のこととは関係ないんだ! だから、やるなら僕を……!」
「ああ、そうだな。そいつは関係ない」
痛かったのかうずくまるミュアを隠すように手を広げたセピアを、ゼナンは高みから静かに見下ろす。
「シンス=トーラーはあちらの有力貴族の息子だ。タイカ=ソールの父は、王から勅命を受けていた。そいつは……すまんな、名前も覚えていない。覚えても無駄だからな」
彼の宣告は淡々と進み、睨みつけるセピアの視線を物ともしない。
「お前たちは集まるべくして集まったが、そいつだけが異端だ。何の背景も、価値もない」
「なら……!」
「それ故、そいつの役割は一つだけだ」
ゼナンは具体的には言おうとしなかったが、その意味するところをセピアもすぐ悟り、顔から血の気を一気に引かせる。
「だめだ……それは、だめだ!」
「なら王子様、最初っから連れてきちゃいけなかったんだよ、分かるか?」
ゼナンはセピアの頭を撫でながら、ひどく優しく、たしなめるような口調でそう告げた。
23-2
それは不意打ちだった。
威力はないに等しかったが、上着はまともに顔へ叩きつけられる。ゼナンはまとわりついて視界を塞いだそれを引き剥がし、目の前に憤慨する少女を発見した。
「あー、ちょっともう限界超えた!」
彼女は仁王立ちで、真正面からゼナンをねめつける。
「いい加減我慢ならないから言うけど、私はずっとずっと腹が立って立ってしょうがなかったのよ!」
慌ててセピアが彼女の服を引いて押し留めようと促すが、ミュアは引こうとはしなかった。当然ゼナンがこれに答えないはずもない。
「いい度胸だな、お前。だが頭は足りないようだ」
彼は一歩前に進み出て、声を低める。
「頭は確かに良くはないかもしれないけど、貴方に馬鹿にされる覚えはないわよ」
対するミュアもずいと進み出て、彼と視線をぶつからせた。その目が据わっているのを見て取り、セピアは諌めるのを諦める。何だか無駄なような気がしたのだ。
「理解していたら、そんな態度は取れないだろう? ご希望ならば理解させてやるが」
「痛いのは嫌だし、殺されるのはご免だわ」
そして、ゼナンが強く掴んだ肩へ目線をやりもせず、彼女は言い切った。
「でもどうして、私が貴方を怖がらなきゃいけない訳? 泣いて命乞いなんてするはずないでしょ、馬鹿じゃないの?」
そういえば、とセピアは思い当たる。シードが力を揮った時も、盗賊に襲われた時も、大森林の中へ、そしてリタントへ踏み込んだ時も、ミュアはいつだって、戸惑ったり憤慨したり呆れ果てたりしていたものの、けして怖がることはなかったのだ。
ミュアの言葉が強がりなどではないことはゼナンにも伝わったらしく、彼は一瞬惚けたような表情になる。
「貴方の方こそ全然理解していない様子だから言わせてもらうけど」
ミュアはなおも言葉を継いだ。
「これは私の旅で、皆の方が勝手についてきたのよ。関係ないとか価値とか、ごちゃごちゃうるさいの。ほうっておいてちょう……」
途端、ミュアの頬が高らかに鳴った。黙らせようとしたのだろうが、しかしそれは逆効果だった。
「嫌だって言ってるでしょうが!」
ごつんという硬い音が間を入れず響き渡る。ミュアの反撃の拳がゼナンの額に当たっていた。まったく痛くはなかったが、ゼナンにとって問題はそこではない。反撃されたこと自体が問題なのだ。今度は加減がされない平手が飛ぶ。さすがに堪えたらしくミュアに一瞬空白の時が訪れていたようだったが、すぐにまったく挫けた色を見せない瞳がゼナンに向けられる。再び顔に向けて繰り出された拳を、ゼナンは掴んで止めた。そのまま捻り上げて押さえつけようとした時、奥に行った男が戻ってくる。
「……何してるんだ」
胡乱げな目を向けられて、ゼナンはミュアを解放する。彼女はそれ以上突っかかってくる真似はせず、セピアの側へ行ってその肩を抱いた。
「暴れたのか?」
「たいしたことじゃない」
問われたゼナンは鼻を鳴らし、殊更何でもない風を装う。
「まあいい。奥へ行け。お呼びだ」
しかし端的に伝えられた命令にセピアを摘み上げようとした彼は、再びミュアと対峙しなければならなくなった。引き剥がそうとするも、今度は気合を込めて抵抗される。
「何してるんだ。そのまま連れていけばいいだろう」
「いや、こいつはここに置いていく」
「全員連れてこいとの仰せだ。お前が判断することじゃない」
そう釘を刺されては退かざるをえない。二人ともを急かすと、そこまで拒否しても意味がないことは分かっているのか、奥の部屋へと移動を始める。
後ろから見張るようについていきながら、ゼナンは自分の判断は間違っていないのではないかとの疑念を振り払うことが出来なかった。
23-3
ほとんど押し入り強盗の勢いで、両手が塞がっているのに構わず窓枠を蹴たぐり倒し、シードは中へと突入した。元々人手が多くない上、詰めていた衛士たちはほとんど奪還に乗り出していたために、その守りは薄かった。奪還側も、突然飛んだシードには対処しきれなかったのだ。しかも塔が最終目的とは思っていなかったので、城へと飛び移られることを警戒して見送ってしまう。
従い、中でシードのところへ駆けつけたのは二人ほどだった。
「貴様、人質を取るとは卑怯だぞ!」
「取ってねーよ」
本人がどんなつもりにせよ、傷つけたら大変まずい状況になる人間を胸の前で抱かれていたら、彼らもうかつに手を出せない。勢いに乗っているシードにあっさりと蹴散らされる。
「で、その何とやらはどこだ」
「地下だよ。あの、ディーディスが出てきたところ」
「あそこか」
じゃあ下から入れば良かったな、などとぶつぶつ言いつつ改めて地下に降りると、宝器庫の前でニッカとサラリナートが待機していた。
「いきなり動かないでほしいんですが。僕ら、シードじゃないんで苦労しましたよ」
幸い、飛んだシードに気を取られているうちに身を隠すことができ、そのまま裏手に回って、壊れた扉から侵入してきたのだ。
「お前らは外で待ってりゃ良かったじゃねーか」
「それなら飛び出す前に、その旨伝えていってください」
「そういうもんか」
ニッカは僅かに眉をひそめたが、それ以上は言わなかった。ここでぐだぐだ説教をしている暇はない。塔に入っている時間が長くなると、外で様子を窺っている衛士たちも突入してくることだろう。
「サラリナート」
アピアもまた、浮かない顔で佇むサラリナートに声を掛ける。
「ディーディスは屋上にいると思う。行ってあげてほしいんだけど」
彼は一連の出来事を目撃していた。いまだ姿を見せないところをみると、たぶん二人とも死んだと思っていそうだ。この騒ぎに気づいて降りてこられれば厄介だ。
サラリナートは迷った様子を見せたが、アピアが目線で促すと、決心したらしく階段へと身を翻す。
「一緒にいるところを、あまり見られない方が良いってところですか?」
下手をすると裏切り者として、必要以上に突き上げられかねない。
後ろ姿を見送りながら聞いたニッカに、アピアは頷いた。
「うん、それにやっぱりサラリナートに宝器庫を開けるところは見せる訳にはいかないのかなって……一応は」
「僕たちは良いのですか?」
「まあ、別に見られたからってどうこう出来るってものでもないし」
アピアの言う意味はすぐに知れた。宝器庫の最初の扉をくぐるとそこは小部屋になっていて、再び扉が立ち塞がっている。その鍵穴も取っ手もない二つ目の扉の前に来た時、彼はシードに自分を近づけてくれるよう頼み、そして己の額をそこへつけたのである。途端、扉全体が仄かに発光したかと思うと、勝手に上へと動き始める。
「その印が?」
「どうせ中のものも、印がなければあまり意味はないしね」
開きつつある扉を見上げたり、半ば開いた口をくぐって裏を窺ったり、興味津々でその仕組みを調べていたニッカだったが、やがて扉が開ききる頃に、わずかに眉をひそめてアピアの方を見やる。
「あのですね、邪推かもしれないですけど、ひょっとしてこれって……」
「ニッカ。言わないでほしい」
彼の疑問を、アピアはぴしりと刺した。
「たぶん薄々は皆気づいてるんだ。でも、これは続いてきたことだから」
「了解です」
肩をすくめながらも、ニッカは引く。
「で、何持ってくんだ」
反対に、まったく気に留めていない風なシードは暢気にそう尋ねてきた。
23-4
そこは清潔だが、空虚で暗い部屋だ。窓はなく、前の間と同じような細い隙間から僅かに洩れる陽光だけが明かりとなっており、それだけではぼんやりとしか見えないため、部屋の片隅に置かれた角灯が光を補っていた。配置されたベッドと僅かな家具。入り口に近づくにつれて明らかに緊張を増していたセピアは、ベッドに横たわる人影を見た途端、弾かれたように駆け出そうとする。
「父上、母上!」
しかしセピアの思いは叶わなかった。その突進はベッドの脇にいた大きな影に阻まれたからである。そしてその影の後ろで、彼は椅子に座っていた。
「焦らなくていい。お前はしばらくここで過ごすことになるのだから」
彼はセピアへと視線を流すことすらせずに、そう話しかけてくる。父に似た容姿の、けれど父と違い、はっきりと骨っぽさを感じさせる中年の男性。
「伯父上……」
「兄がいなければ何もできず、のこのこと捕まりに出てきたという訳か。いかにもお前らしい話だ」
正直、セピアはこの伯父が苦手だった。
その訳が今ようやく分かる。ここまで露骨に態度に出されたことはなかったが、時折こんな気配……敵意をぶつけられていたからだ。
「離してやれ。泣き出されてはうるさくてかなわん」
彼の指示で護衛の男はセピアを解放し、セピアは彼の様子を伺いながら、再びベッドに近づく。そこにあるのは、ひどくやつれているものの、ずっと会いたかった顔だった。拘束されているのに加え、起き上がる気力もすでに失われているらしく、彼の目線だけがセピアへと動く。
「……無事だったか」
「はい、父上」
「お前にはあまり事情を話していなかった。……不安だったろう」
「平気です。アピアも一緒だったから」
その声に反応するかのように、突如反対側から叫びが上がった。
「セピア……セピア、セピア!」
半ばすすり泣くような名前の連呼に、セピアは慌てて母の方へと回り込む。そして膝を着き、彼女の目線と自分のそれを合わせた。
「母上、セピアはここにいます」
元々彼女は体も気も強くはない。この生活に参りきっているのは仕方なかった。手を握ると、弱弱しくだが握り返してくる。
「アピアは……アピアはどうしてるの?」
セピアがどうにも答えられないでいると、彼女は再びか細い声を鳴らした。
「あの子にだけは手を出さないで! そっとしておいてあげて! お願い、お願いだから……お願い……!」
彼女の嘆願を受け流すように、ナッティアは顔を入り口へと振り、そこに立つゼナンに短く声を掛ける。
「報告しろ」
「侵入者四名を確認、セピア殿下含み、です。残り三名のうち二名はこの島に、一名はここに、一名は外にて拘束を指示してあります。残り一名は塔へ侵入したため、ディーディス様にお任せいたしました」
「結果は確認していないのか」
「はい。始末の手筈は整えましたが、こちらの拘束を急ぎましたので」
「それが侵入者か」
そして彼はミュアに目を向け、顔をしかめる。
「四名というと、これまでの報告にあった同行者か。本当にまだ子どもだな」
「そうですが、異種族です」
「……そうだな」
ゼナンは、ミュアの羽を乱暴に掴んで見せつけ、ナッティアは重く頷いた。
「始末しろ。もう一人もだ。なるべく楽にな」
ゼナンではなく、案内役の衛士に彼はそう指示する。驚いて駆けつけようとしたセピアは再び護衛に半ばで取り押さえられ、ミュアは観念したのか何か言いたげにナッティアを睨みつけながらも、大した抵抗はせずに衛士に引きずられて部屋を出された。それを見送りながら、ゼナンは感想を洩らす。
「欲しがる方もおられるかと思いますが」
「悪趣味な話はよせ。可哀相だが、見つかれば混乱を呼ぶだけだ。お前は今すぐ塔を確認に……」
その時だった。
奇妙な声が辺りに鳴り響いたのは。
『今こそ見よ。我の頭上に輝くは神の徴。世の支配を任じられた証なり』
聖書の一節、そしてある儀式の前に必ず述べられる口上。
「……アピアだ」
口を塞いでいた手からようやく逃れたセピアが呟いた。
23-5
『我が名は、アピア=セリーク=リタント=ファダー。印持ちて生まれ、この国の王たるべしと神に任じられた者なり』
城中に、下手をすれば城下町まで届くかもしれない声が鳴り響く。
『我が父、十代国王、テーピア=セリーク=リタント=ファダーの死を以って、我は譲位を請いたもう。導き手、アネキウスの名において』
当然、肉声であるはずもない。
内容もさることながら、その声を不思議に思って人々は立ち止まり、辺りを見回しながらそれに耳を傾ける。そのうちの幾人かは、発生源を見つけることができた。
その姿は城の屋上、もっとも広い中庭を見下ろす場所にあった。陽光に複雑な色を煌かす上衣を羽織り、王杖をその胸に載せ、仏頂面の少年に抱えられている。
発見者は人を呼び、中庭に皆が集まり始めた。
『これは盟約なり。神と王と民に結ばれた約定なり。違うことなかれ、選定の民よ』
そこまで言い切り、アピアは王杖から顔をそらして小さく疲れた息を吐いた。
継承の名乗りの儀。
取り消せるのは、当人と先の国王、つまり選定印を持つ者だけだ。
これで伯父は、父やセピアをすぐ殺すことは出来なくなるだろう。父の死が発覚した時点で、正式な名乗りを上げた自分が国王だ。伯父が自分を片付ける方法は、父の名の下に反逆者扱いをすることだけだ。
「平気ですか?」
下から見えないよう足元へしゃがみこんでいるニッカが、見上げて聞いてくる。アピアは頷き、囁き返した。
「向こうが動く前に、城を味方につけないと……」
ここで伯父を告発するのは必要なことだったが、ためらいもあった。それは同時に父のもくろみをも明かすことである。この段階での暴露は国を動揺させるだろう。反発の大きさは予想できず、ここはうまく行っても国が荒れる可能性が高い。
中庭に集まった者たちの中で、目配せしてそこから離れていく者たちがある。ここへ向かってこようとする伯父の配下だろう。迷う時間はさほど許されていなかった。唾を呑み込み、アピアは恐る恐るながらも次の言葉を告げようとする。しかし、それは阻止された。
何やら考え込んでいたニッカがおもむろに立ち上がり、横手から王杖を奪ったのである。まだ全然体が動かず、ただ胸の上に転がしていただけだったアピアが、それを防げる訳もない。
突然現れた新手に、初め中庭の皆が示した反応は戸惑いだった。しかし、彼の異様な耳に気づいた者から、次第にどよめきが広まる。彼らの疑惑を決定付けたのは、ニッカの第一声だった。
『僕らは、壁の向こうの国、ホリーラより遣わされた者です』
何を言い出すつもりかと目を見張るアピアの前で、ニッカはしれっと言い放つ。
『この城を襲った病の特効薬を届けにまいりました。貴方がたはもう病を恐れる必要はありませんこと、保障いたします』
そして、効果はご覧の通りとでも言いたげにアピアへと顔を一旦向け、また正面へと向き直る。
『かつて起こった不幸な行き違いをこの機会に解消したいと、それ故に僕らは参ったのです。再びアネキウスを共に導き手とせんがため、皆様方の寛大な慈悲を願いたもうなり』
言い終わると彼は王杖をアピアへ戻し、物問いたげなアピアの視線に答えを返した。
「わざわざ波風を立てる必要はないでしょう……本当のことと、信じられることと、信じたいことは、どれも違いますからね」
ニッカの語ったのは紛い物の希望だ。耳当たりが良いのは確かなだけの。
「それに嘘はついてませんよ、解釈によっては」
かなりの詭弁だなとアピアは思わざるをえないが、明言されてしまった以上、もう否定する訳にはいかなかった。
「ただ確実なのは、病気という嘘をあちら側は絶対に翻せない、ということです」
そして、アピアという実例がいる以上、特効薬を嘘だと言い切る根拠は薄い。
初手は打った。
相手の出方を待つ番だった。
23-6
そして、ニッカの放言を聞き終わるや否や、ナッティアは傍らのゼナンに小瓶を放って命令を下す。
「テーピアを殺せ」
「毒ですか」
「無論だ」
躊躇のないその決断をゼナンはあっさりと受け入れ、ベッドへと近づいた。阻止しようと暴れるセピアを引き続き押さえつけながら、護衛の男はナッティアに尋ねる。
「よろしいのですか」
「いずれ来た時だ」
「今、という意味です」
「……奴らの言う特効薬の正体は、実証されねばならぬだろう」
元より止める権限も根拠もありはせず、男は一礼して引き下がる。その時僅かに手が緩み、セピアはほんの少し口を自由に出来る。
「伯父上、どうしてそこまで!」
「どうして? こちらが聞きたいことだ」
ナッティアは冷たい目線をセピアへと向けた。
「正当なる理由があるというのなら、どうしてこいつは喋ろうとしない。何一つ譲らず、止める言葉を聞き流す」
そして彼はセピアに背を向け、ベッドへと歩み寄った。彼は横たわる弟へ語りかける。
「悪い夢だ。狂った夢だ。お前は昔から夢想家にすぎる」
テーピアは無言で兄を見上げ、知らない者が見ても明らかに兄弟と知れるだろう二人の視線が絡み合う。わずかな沈黙の間。
「あの時のことが発端なのならば、私にこそこいつを止める義務があろう」
それを破り、ナッティアはついに別れの言葉を告げる。
「さらばだ、弟よ。無念と思うならば、山で私を待つがいい」
応えて、ゼナンがテーピアの顎を手のひらで捉えた。その指先には摘み出された毒の粒がある。
「吐き出されないのか」
「ご心配なく。中で砕きます」
そして、指が唇へと突き込まれそうなその時。廊下から突如慌てた大きな足音が響いた。戸口に見張りの衛士が姿を現す。
「すみません、逃げられ……声に驚いてたら、天井の穴から……!」
その瞬間、天井から突然埃と板切れがばらばらと降り注ぎ、陽光が差し込む。
「セピア、捕まって!」
同時に降ってきた声に、セピアは疑うことなく従った。主を守るべきかと逡巡する護衛の腕を跳ね除け、声の元へと走り、伸ばされた手へと飛びつく。細く力も弱いが、心強い感触が腕にからまる。
ここにもまた、天井に一つの穴が開いていた。そこを塞いでいた板を、ミュアが上からぶち抜いて降り立ったのだ。
覗く青空を見て、セピアは悟る。
この建物はきっと、全てが祈りの場であったのだと。
浮遊の感覚。自分がこの場から逃げ出すことができれば、父を殺すことはもっときわどい賭けになる。伯父はやけになっている訳ではない、たぶん断念するだろう。
しかし、穴をくぐろうとした途端、ミュアの悲鳴がして、がくりと嫌な揺れが襲う。何が起きたか把握する前に、セピアは明るい場所へ放り出される。ごろごろと転がった後、慌てて跳ね起きた彼は、そこが屋根だと把握すると同時に、どうしてミュアが自分を放したのか知ることとなった。
ミュアの足首を、ゼナンが掴んでいる光景を目撃して。
23-7
穴から外へ出ることは出来た。
けれど、掴まれた。
セピアですら共に飛ぶのは辛いのに、大人の男性一人ぶら下げてまともに浮かべるはずもない。それでも引きずり落とされる訳にはいかなかった。負けた時に待っているものは、間違いなく死だ。
何とか屋根へと飛び出るとセピアを離し、そしてミュアは気づく。ここで彼も屋根に飛び降りられたら、セピアが危ない。他の手段は思いつく余裕などなかった。
高く。
「…………っ!!」
飛び降りることなど出来ないくらいに高く。
声にならない気合を上げ、ミュアは上を目指す。今までに経験したことのない負荷で、背中から嫌な音がするようにすら思える。風が耳朶を打つ。目の前はまだらな赤白に染まり、自分がいる場所すら把握できない。
嫌な雑音が足元からひっきりなしに這い上がってくる。これは……たぶん、笑い。
「見ろ、壁だ!」
そしてその声の意味を頭が認識した途端、突然ふっと体が楽になった。高笑いに釣られて、ミュアは視線を遠くへと投げる。
ああ、確かに壁だと、朦朧とした頭はミュアに告げた。
美しく緑に染まる草原は風に薙ぎ、波の模様を作っている。木々は散らばり、時に固まり、より濃い緑の模様を地上に織り成す。その中に線がある。茶の線。南北に伸びる線。かつて人が作り出した線。世界を分ける、その線。
「どうだ、異種族。あれを壊すというのだぞ。世界は混ざる。居心地の良い場所は失われる。そして、次は何を壊す。一度壊せば次もまた壊したくなる。際限なく世界は壊れ続ける。お前もそれを望むのか?」
一声ごとに、ぎりぎりと足に痛みが走る。先ほどの無茶のせいもあってか、脂汗が頬を幾筋も伝うのが感じられた。
「じゃあ、貴方は何を望むの?」
よく考えた訳ではなく、相手の言葉尻を反射的に繰り返しただけの問いだった。返事は即座にやってきた。
「何も」
「何も?」
「そうでなきゃ、壁を越える勅命など引き受けないだろう」
「今も、何も望んでないのにこんなことに加担する訳?」
「あれは、あり続けなければならない」
ふと答える声の温度が下がる。
「それだけのことだ」
ミュアは、そこでようやく下へ顔を向けた。そこにあるのは、眩むような高さと、自分を見上げる顔。目が合った時、ミュアははっきりと彼を支配するものを知った。
そして、告げる。
「貴方の恐怖を私に押しつけないで」
返ってきたのは、乾いた笑い声だけだった。それを吹き散らすかのように、南からやってくる強い風が、ミュアたちをなぶる。
「……そろそろ限界か」
言われて気を向ければ、足首を掴む力が明らかに緩んできている。片手で、革の長靴の上から掴んでいるのだから、これまで保った方がむしろすごいことだ。
「やれやれ。どうしてお前、落ちないんだ。せめて道連れにしてやろうと思ったのに。有羽族ってのはこんなに維持できるもんじゃなかったと思っていたが」
ミュアは答えなかった。ゼナンは彼女に再び問いかける。
「お前、俺が勝手に落ちるだけだと思ってないか?」
「それを免罪符にするつもりはないわ」
高みを目指すと決めた瞬間に、こうなることは予想……いや、期待していたはずだった。それは一瞬の勝負のはずで、こんな風に長々と話をするつもりもなかったが。
鼻を鳴らしたらしき音が聞こえた。
「当たり前だ」
その途端、重さは急に消え失せた。下を見て、確認はしなかった。
解放された左足がひどく痛む。たぶん骨が外れているのだと思う。そして、こんな状態でも自分は尚、安定して浮き続けている。
彼女は話しかけた。
「……貴方、誰?」
顔は前に向けたまま、背後の気配に向かって。
「私一人でこんなに高くまで、こんなに長く保つ訳がない。貴方、誰なの?」
答えは得られなかった。何の反応もなく、ただ風だけがまた吹き抜けていく。
ミュアは青く抜けた空とその中心に輝く白い太陽をを仰ぎ、小さく息を吐いた。
23-8
転がってきた小瓶は足に当たり、からからと音を立てて止まった。無意識に掴み取った後、セピアはそれが何の瓶なのかに気づく。
ミュアは止める暇などないまま、すごい勢いで木々の上へと消えてしまった。心配でたまらないが、自分にはどうにも出来そうにない。そして、この瓶はまず間違いなく、ゼナンの懐からこぼれ落ちたものだ。
先ほどのやりとりを思い出し、父母は無事だろうかとセピアは抜けてきた穴へと近づく。一目姿を確認できたら、何とかして逃げ回る方法を模索しなければならない。
しかし、頭の中で幾つも組み立てた計画は、穴の縁に立った瞬間に全てが吹き飛んだ。そっと覗いた途端、中から上を見上げるナッティアと目線がかち合ったからだった。
無意識に、足が床を蹴っていた。
全身を揺する衝撃と、はっきりとした手ごたえがすぐ後に来た。もうもうと舞う埃が差し込む日光にちらちらきらめく中、気がつけばセピアはナッティアを床へと押し倒し、馬乗りになって空いた方の手でその喉首を掴んでいた。
自分が憤っているのか、悲しんでいるのか、それともごく冷静なのか、セピアには判別つかなかった。伯父に言いたいことは色々あるはずなのに、どうにも言葉は出てこない。慌てた感じの護衛が剣を引き抜いて、また戻す光景が視界の端に引っかかる。斬り捨てる訳にいかないことに気づいたのだろう。
「近づくな!」
次には当然素手で引き剥がしに来るだろうと考えたセピアは、反射的にそう叫ぶ。
「近づくと……!」
しかし言葉は続かず、そこで詰まった。自分に彼を押し留めるための何ができるというのだろうか。
そして、実際彼を押し留めたのはナッティアだった。良い良い、というように彼は護衛に向かって手を振ってみせたのだ。それから再び目を合わせ、ただ一言の問いかけを投げてくる。
「殺すか」
彼の目線で、セピアは自分があの瓶を片手に握り締めたままでいることに気づかされた。そこにあるのは手段。
そうだ。
今、この伯父を殺せば、全てが終わる。
……終わるのだ。
次の瞬間、セピアは瓶を手前の壁へと投げつけた。
粉々に砕けた瓶から散らばった粒は床のあちらこちらへ転がり、闇と埃に紛れ、たちまちどこに行ったのか分からなくなってしまう。
「何で、誰も彼もそうやって死を振りかざすんだ」
自然と洩れてきた声は、自分でも嫌になるほどに弱弱しかった。
「死は絶対なのに。どうやったって、取り戻しは効かないのに」
横たわる伯父の眉がしかめられる。
「やはり、その印はお前には過ぎたものだ。死を恐れて王が務まると思うのか」
「そうだよ、僕は臆病だ。今だって、怖くて怖くて仕方がない」
素直な言葉は、まるで涙の代わりとなったかのように、次から次へと溢れ出る。
「憎いよりも怖いのか」
「貴方がどうして怖くないのか分からない。そんな風に軽々しく扱えるのか分からない」
彼は殺した。馴染みの従医も侍従も衛士も。
ついさっき、父を、彼の弟を殺そうとした。
そして今、自分を殺すのかと聞いてくる。
「貴方も同じだ。父上が悪い夢に取り憑かれているというなら、貴方もきっと取り憑かれている」
彼の夢に呑まれてはいけない。
「だから、僕は貴方を殺したりなんかしない」
「お前は自分のその選択を正しいと思っているのか」
「……僕は」
わずかなためらいを振り切り、セピアは答えを返す。
「僕は、正しい」
言い切らなければいけないと思った。
「ならば良い」
それに対し、小さく息をつくような返答が伯父の口から出た。それから彼はセピアの小さな体を跳ね除けるようにしてあっさりと起き上がり、服の埃を払い始めた。
床にへたりこんで呆気に取られているセピアに語るともなく彼は呟く。
「すでに決着はついていた。知られてはならなかったのだ、壁を越えられることは」
そして、それはすでに城中に告げられている。
「知られてしまえば、とめどなくなる。もう遅い」
その時、何かがぶつかったような、重い音が外から響いた。
「そろそろ城からの先遣隊が来たか」
あちらにニッカが辿りついたということは、この場所のことはばれている。アピアが指示をすれば国王派の衛士たちは動くだろう。
「さて、お互いの正しさの代償を引き受けようではないか」
それがこの事変の終わりを告げる言葉となった。