第一章 人の章
「見よ、地より魔湧き」
9-1
闇の中ではどちらが岸か判然とせず、ただ打ち寄せる波においてのみ見当をつけるしかない。月を覆い隠した雲は動く気配を見せなかった。まるで禁を破った彼らを罰するかのように。
「たぶん、まだいますね」
「見えるの?」
「目とか鼻とか耳とかは、まあ悪くないんですよ」
セピアには、反対側で耳をそばだてるニッカの姿はかろうじて認識できるが、それ以上遠くになるとただ黒一色にしか見えない。音もまた、波にまぎれて遠くのものだか近くのものだか分かりはせず、匂いは言うまでもなかった。
「しかし、海に灯りを向けてはいけないってのは思いのほか厄介ですね」
夜には海に向いた窓は締め切られ、海から見えるところに灯りも置かない。海辺の町では固く守られている風習らしかった。
海からやってくるのは死だけだからだ。特に夜においては。
そのため、岸の方向のみならず、今が陸から近いのか遠いのかもはっきりと分からない。横に進んでいるつもりが流されて岸に漂着といった羽目にもなりかねないが、だからといって変な方向へ漕ぎ出して戻れなくなったらもっと悲惨だ。
「あいつら、追ってくるかな」
結局は現状維持が無難なようだ。櫂を持つ手を休め、セピアは見えない彼方に形だけ目をやる。
「まずは舟を見つけられるかどうかにかかっていて、次は漕げるかどうかにかかっているかと。まあ無理なんじゃないですか」
ニッカの言う通りに、セピアが明るいうちに探した時も舟はこれ一艘しか見つからなかった。元々用意していたなどでない限り、この闇の中で探し当てるのは不可能だろう。
「あとは根競べですね」
こちらが諦めるか、あちらが諦めるか。どちらも退けない理由があるだけに、長引くのが予想される。
「朝までには諦める、よね……?」
明るくなってくれば向こうは諦めざるをえないだろうが、アピアにこんな状況は絶対知られたくない。なるべく早く去ってくれるのが望ましかった。
「どうでしょう。彼らがどれぐらい必死なのか、知りませんからね」
セピアの焦りに対して、ニッカは他人事風味であるが、それは本当に巻き込まれてここにいるだけだからだ。ちょっと海に出てみようとして、夜中に宿を抜け出したセピアが見つかり捕まりそうになったところを、偶然通りがかったニッカが助けてくれたという状況であり、二人で舟に乗っているのは行きがかり上の成り行きであった。
「それにしても、良く漕ぎ方なんて知ってましたね」
そういえば、何でこんな時間に偶然通りがかるんだろう、とセピアは思い返して不審を抱くが、それを聞く前に相手に質問されてしまう。
「あ、うん。習ったから」
「川の近くにでも住んでたんですか?」
「えーと、あの、湖があって……」
「そういえば、そんなこと言ってましたね」
「でも、これ、ちょっと勝手が違って」
湖ではこんな風に波が押し寄せてくることはなかった。流れに逆らうせいなのか、櫂がたまにひどく固いところにぶつかったりするので、今の状態を維持するだけでも結構セピアは必死である。
「あっ」
また変な流れにはまってしまったらしく、櫂が引っ張られる。よろけたセピアの持つ手が緩み、櫂はあっさりと海に落下した。
「ご、ごめんなさい」
拾い上げようと反射的に水に手を突っ込んだセピアは、途端に小さく悲鳴を上げて引っ込める。
「どうしました?」
「な、何か……」
答えた声が震えているのが自分でも分かる。水の中で冷たいものが指に絡みつき、引っ張ろうとしたのだ。それに本当は“何か”ではない。“誰か”に思えて仕方がなかった。
「見当たりませんね」
セピアが指を握って怯えているうちに、ニッカも手を突っ込んでじゃぶじゃぶと海面をかき回している。その平気そうな様子がセピアを赤面させた。櫂を取られた流れに指を突っ込んだかして、その感触をきっと勘違いしたのだろう。アピアに知られたら、弱虫だとまた笑われる。
こんなことではいけない。アピアみたいに、一人で何でも出来るようにならなくては。一人で。
その響きに、セピアは背筋が寒くなった。自然とうるんでくる目を手の甲で押さえる。本当ならここには自分一人しかいないはずなのだ。
こんな海の上、闇の中でただ一人。
セピアは、ニッカが一緒にいてくれて良かったと思わずにはいられなかった。
9-2
海は、闇であり無であり死である。
かつて豊饒なる恵みをもってグラドネーラを取り巻いていたこの場は、神を疎かにした人々の愚かさにより、魔物に乗っ取られたという。魔物は後に討伐されるも、今もグラドネーラを滅ぼそうと死の手を伸ばしてきている。それが波だ。
実際、海の彼方に漕ぎ出でて戻ってきた者はいない。神の怒りに触れるせいだとも、海の向こうにあるのは魔物の国だからとも言われるが、説話の中でさえそれを確かめた者はいなかった。宝があるという虚言に惑わされ、船団を率いて出航したものの二度と返らなかったという五代王弟の話など、セピアは何度聞かされたか知れない。
だから、沖に出るつもりはなかった。この舟の持ち主もそのつもりだったようで、船尾と杭は長い縄でつながれており、縄をほどかずにそのまま使う仕組みになっていた。熱心な手入れがされている感じもなく、たぶん使うのは緊急の時のみだったのだろう。
当然、今はその縄は杭からほどかれている。追っ手がいるのにつないだまま逃げるのは間抜けすぎるが、そうしておいた方が良かったかもといった状況になってしまった。
取られた櫂は見つからなかった。波に運ばれてしまったのか、沈んでしまったのか、二人で舟の周囲を手探っても、見つけることは出来なかった。
「ごめんなさい……」
セピアはすっかり落ち込んでしまい、船尾で首をうなだれている。
「まあ、どうせ彼らが岸で張っている間はどうしようもないんですし。なるようにしかならないんですから、ゆっくり行きましょうか。最悪でも明るくなれば何とかなりますよ」
ニッカがそう言ってくれて助かったが、鷹揚に構えていて良い状況かどうかも分からない。セピアはそわそわと立ち上がる。
「あの、僕、泳げるから、岸まで縄持って泳いで……」
「ちょっと待って。落ち着いてください。こんな真っ暗な中でそれは無理です」
しかし、ニッカに強く引き止められて、結局船底に座り直した。何だかさっきから迷惑を掛けてばかりのような気がする。自分はいつもこうだと、セピアは暗澹たる気持ちになった。アピアならきっとすぐに解決してしまうのに。
「せめて月が出るまで待ちましょう。交替で休みましょうか?」
「あ、僕起きてるから、ニッカは寝て……」
「あのですね、僕なんかにそんなに気を遣う必要はないんですよ」
ついに苦笑いでそう返され、セピアは更に顔を赤くした。
「前から思ってたんですけど、セピアはいつもそんな感じなんですか?」
ニッカの言葉に、同じことをアピアから言われた時を思い出す。
「そんなに、気を遣わなくていいんだよ、セピア」
アピアは困った笑みと共に優しく背中を叩いて、セピアをそう諭す。
「僕らは周りに少し世話を焼かせるくらいでちょうど良いんだ。皆、そちらの方が安心するんだから。ほら、堂々として」
けれど、セピアは知っている。そう言うアピアがどれだけ無理をしているかを。今だってそうだ。だから、助けたかった。海を通って帰れないかどうか確かめたかった。
それがこんな風に、ニッカまで巻き込むなんて。
「僕は、アピアみたいには出来ないから……」
言葉はいつだって感情には追いつかない。洩れた答えはおかしいほど言葉足らずのくせに、涙は今にも溢れてきそうだった。
アピアだったらここで頭を撫でてくれたに違いない。けれど、一緒にいるのはニッカで、彼はそういったことはしなかった。
ただ、澄ました顔を崩さずこう言った。
「別に出来なくても構わないでしょう。兄弟といえど別人なんですし。僕がシードの真似をしろって言われたら困ってしまうのと同じですよ」
確かにシードの真似なんて誰にも出来はしない。大げさな喩えにセピアが少し目を見張ると、ニッカは念を押すように繰り返した。
「同じですよ、まったくね」
そして、暗闇で僅かに光る瞳を細め、顎の下で手を組んで乗せる。
「お互い寝る気はないようですし、しばらくお話でもしましょうか」
ニッカの提案を断る理由はセピアになかった。
9-3
「ほら、海は地面より底が深いでしょう。だから、海の底に魔物の国に通じてる穴があるっていう話もあるんですよ。こうやって実際見ると、なかなか説得力ありますよね」
「向こうじゃなくて底にあるんだ」
海についての逸話を語っていたニッカは、最後をそう締めた。櫂を取られた時のことを思い、セピアは身震いする。あのまま引きずり込まれていたら、魔物の国に連れて行かれたのだろうか。そのうちこの小さな舟も丸ごと底に引きずり込まれてしまうんじゃないだろうか。今もこの舟の下で引きずり込む機会を狙っているんじゃないだろうか。
どんどん怖い考えになっていきそうだったので、セピアは話を変えようと思ったが、いまいち思いつかなかったので、少しずらしてみることにする。
「どうして魔物って地面から出てくるんだろう」
「見よ、地より魔湧き、天より神来る」
ニッカが答えて暗唱したのは、聖書のアネキウスが降臨する章の一節である。
「つまり、神様が天から来るんだったら、敵対するのは下から来るしかないんじゃないですかね」
実は前に同じことを神官に聞いたことがある。その時は、魔物の話などするものではないと言われ、それきりセピアの疑問は宙に浮いていたのだ。ニッカが真面目に聞いてくれたので、セピアは先を続ける。
「でも、地面からはお花とか野菜とか果物とかも生えてくるでしょう? 魔物と野菜は同じところから来るの? あれは魔物の国から生えてきてるの?」
そうだとすると、毎日魔物の国のものを食べているということで、気味が悪い。
「作物は種から生えてますし、浅いから平気なんじゃないですか。あ、でも、地から生えたものを食べないことで、魔を払うって考え方もありますよ。北方山脈のどこかの神殿でやっているとか」
「え……何食べるの?」
「兎鹿や土豚の乳や肉なんかですね。魚もありなのかな」
「でもどれも草とか食べて育ってるんだよね」
「だから、究極的には何も食べないのが正しいんだと思いますよ」
「無理だよね」
「無理でしょうね。あ、そういえば干し果物持ってました。食べますか?」
たぷたぷと揺れる船上で、二人して干し果物を噛み千切ってもぐもぐ食べているのは、美味しいけれど妙な感じだ。雲が晴れる様子も流されて岸に着く様子もなく、時間の感覚もなくなりつつある。朝はまだ遠いのだろうか。
「言われてみれば、魔物が出るとされているところは地面が普通の状態じゃないかもしれません。海も、熱地も、魔の草原も。大森林は古木ゆえに根を深く下ろしているってのが注目点でしょうか。後は、天の光が届かないってのもあるかもしれませんね」
ニッカはどうやら先ほどの疑問を更に考えていてくれたらしい。事例を検証して分類するその手際の良さに、セピアは感心してしまう。
「リタントには魔物の言い伝えがある土地ってないんですか?」
「し……あの、北の方は穀倉地帯って言われてるんだけど、そこは昔、すごく不毛な地だったって。それは魔物が支配してたせいで、それをアネキウスが退治してくれたから、穀物が取れるようになったって」
「やっぱり地面がらみですね。他にはありますか?」
「ええと」
問われて、頭の片隅に引っかかっている何かにセピアは気づく。それは、今の状況とも関連しているような気がする。地と天と魔物と海と舟とアピアと壁と……。
その連想ゲームは、不意に一筋の線となってセピアの前に現れた。舞い落ちるあの白片、父親と見た光景。
「雪! 雪見たことある!」
突然そう言い出したセピアにニッカは怪訝な目を向け、セピアは慌てて説明する。
「あ、そこのもっと北に雪が降る……あの、何だか白くて冷たくて柔らかい雨みたいに上から落ちてくる奴」
「ああ、聞いたことはあります」
「それはね、穀倉地帯から追い出された魔物が泣いてるせいなんだって」
そう教えてくれたのは父親だった。本当は、実りがないように悪さをしているという言い伝えだった気がする。でも、セピアには父親の言うことの方が近いように感じた。雪の降り積もる風景があまりにも美しかったからかもしれない。そこには悪意も敵意もなく、ただ穏やかな静寂が横たわっていた。
9-4
白く凍りついたその場所は動く物の影少ない、寂しい死の土地だ。そこで生きる動物や植物の数は僅かで、隣接する穀倉地帯の豊かさとは比べるべくもない。人の寄りつかない恐ろしい場所である。
でも、どうしてかその静けさの中に立っていると、全てが赦されて眠りについているような、安堵の気持ちが自然と湧いてくる。
アピアもこれを見ることが出来たらいいのに。
きっとその時抱いた思いが、海を渡って帰れないかという考えにセピアを至らせた。
「じゃあ北から入るのは無理なんだ……」
けれど、セピアは地図を改めて思い浮かべ、肩を落として呟く。そういえば壁の北端は積雪地帯に面していたはずなのだ。壁を越えずに海を渡ってリタントに戻れたとしても、たどり着くのは誰もいない雪の地だ。
やはりアピアはいつだって正しい。南へ下り、壁を越え、セリークに保護を求めるべきだ。だからこんなことを言い出す自分の方が間違っている。
「……南に行くのって何だか嫌だ」
アピアには言うことの出来なかった言葉だった。根拠なんてない。セピアに分かるのは胸の奥でうごめく、ざわざわとした落ち着かない感触だけだ。
「どうしてですか?」
「分からない。でも、何かがあるんだ。良くないものが。行かなきゃいけないけど、それはまだ……」
怖い。
言葉にすることで、見つけられる感情もある。自分は恐れている。南に待つものを。それで起こる変化を。
自分の立っていた場所がけして揺るがない石造りの建物ではなかったことを、あの日以来思い知らされている。床一枚隔てた先は、何がいるか分からない暗黒の水脈がうねっているに過ぎない。
そして、それは自分だけの話ではない。グラドネーラの大地の下には魔物が息を潜めているのだから。
こんなに恐れているのは自分が弱虫だからだ。手が震えている。肩が震えている。さっきからニッカが黙っているのも、きっと呆れているからに違いない。
しかし、そうではなかった。
「僕が思うにですね……南ってのはかなり曖昧な表現ですよね」
ニッカが突然言い出したのはこんなことだった。
「切り分けちゃいましょう。じゃあ、まず、魔の草原は怖いですか?」
「え……あ、うん」
振られた問いに、戸惑いながらセピアは答える。魔の草原を怖くないなんて言うのは、シードくらいだろう。
「聖山は怖いですか?」
「えーと、少しだけ」
「浄められた平原は?」
「……怖くない、かな?」
「大森林南側」
さくさく進められると、むしろどこが怖いのか考え込んでしまい、すると逆にどこが怖いのか分からなくなってくる。うずいていた不安は薄れ、震えは徐々に治まっていく。ニッカの意図を悟り、セピアは小さく微笑んで礼を言った。
「ありがとう」
「ミュアはこれをやると、身も蓋もないって怒りましたけどね」
軽く肩をすくめて、ニッカはそれに答える。
「ミュアも?」
「南の方が何か気になるって言ってましたよ。これも前から思ってましたけど、セピアとミュアってどこか似てますよね」
「そう……かな?」
「アピアといるより兄弟っぽいかもしれませんね」
その言葉に思ったより傷つかなかったのは、ニッカが裏の意味なく言っていると分かっていたせいだろう。似ていないとは良く言われた。父親似と母親似という容姿の問題ではなく、もっと本質的なことだとセピアは思っている。つまり自分が役立たずだという事だ。
それなのに、どうしてアピアが。
セピアは考えかけて、慌てて首を横に振ってそれを吹き飛ばした。
それはもう考えないことにしたはずだ。アピアを困らせてはいけない。悲しませてはいけない。
ここでようやくセピアは今の状況を思い出した。今の自分は、見つかったら明らかに心配をかける状態だ。
「あの……まだ、あいつらっているみたい?」
「どうでしょうね」
ニッカが耳を澄ませた瞬間だった。世界が急にその闇を薄くした。黒から灰色へ、そして淡い色のついた風景へ。
上空を覆っていた雲を、風が吹き散らしたのだ。赤い色を帯びた月が、その柔らかな光を天より地上へと降り注いでいた。
9-5
ざっと見渡したところ、岸には誰の姿もないようだった。もちろん隠れて待ち伏せしている可能性もあるが、彼らが三足族である以上、あの暗闇の中ではセピアたちの姿を認めていないはずで、根気良く待っている可能性は低かった。
問題はどうやって戻るかだ。
岸からは遠くもないが、近くもない。舟は微妙な均衡を保って、波間に漂っていた。放っておいても岸には寄っていかなさそうだ。改めて櫂を探しても、そうそう都合よく見つかるはずもない。
「やっぱり僕……」
泳いでみる、と言いかけて、セピアは言葉に詰まる。海は上からの光に照らされて、ますますその闇を深くしたように見え、それが透き通った水の集合体だとはとても信じられなかった。ニッカもまた首を横に振り、セピアを引き止める。
「無茶は止めましょう。夜明けまでどれぐらいか分かりませんが、待った方が良いです」
その言葉につい甘えそうになるセピアだが、それではいけないとの思いが頭をよぎった。さっきも役立たずであることに落ち込みそうになった癖に、すぐにくじけて楽な方へ逃げる自分が心底嫌になる。
「行く!」
うじうじした気持ちを振り切るように、セピアはそう宣言した。勢いのままに服を脱ぎ、畳んで置くと、船尾から伸びる縄を腰にくくりつける。
「危なそうだったら、引っ張ってね」
お願いをされたニッカは、ひどく渋い顔をしている。よほど気が進まないようだ。
「人間、泳ぐなんて不自然ですよ」
「ニッカは泳いだことない?」
「せいぜい池ぐらいしか縁がなかったもので」
普通進んで泳ぐ人はいないので、ニッカの反応もおかしなものではない。泳ぎの練習をするなんて、酔狂だし役に立たないと言われたこともある。結局、役に立ってしまったし、今だって役に立とうとしているのだが。
「大体、水に入るのは絶対嫌ですね。ええ、一生入りません」
ニッカは何故か威張り気味に重ねて主張し、それならよく舟に乗り込んできたなあ、とセピアはいっそ感心してしまう。転覆の可能性は考えなかったのだろうか。ひょっとしてさっきから特に良く喋っているのは、落ち着かないためなのかもしれない。
ともかく、ここは自分が何とかするしかないと、セピアは決意を新たにした。海は変わらず黒々とその身を横たえていたが、怯んではいられない。
「お願いします」
まだ眉をしかめているニッカに頭を下げ、セピアは思い切って水中へと飛び込んだ。
最初に感じたのは、肌を包む生ぬるい感触だった。さっき手を突っ込んだ時は冷たく感じたが、全身入ってしまえばそうでもないらしい。泳ぐことに関しては、湖とは比べ物にならない波の強さに動きにくいものの、何とか前に進めてはいる。しばらく進んだところで振り向くと、船上でニッカが心配そうにこちらを見つめていた。手を振って余裕を見せ、再びセピアは陸を目指し始める。
あの時は、アピアに抱えられるようにして水の中を進んだ。突然の出来事で混乱していて、自分が何処へ向かっているかも理解できなかった。今は目標へ向けて、自分の力で水を掻いている。少しずつ、けれど確実に近づいてくる陸の風景は、セピアに達成感を抱かせつつあった。
気づけば、もう岸と舟の中間辺りまで進んでいた。何の問題も起こらず、このまま泳ぎ着けるだろう。
そうセピアが安心した瞬間のことだった。
寒気がつま先から頭の先まで一気に駆け上がった。戸惑いの声を上げる暇もなく、見えていた岸の風景がいきなり掻き消える。闇。泡。息が詰まる。
誰かが足を引っ張っている。
恐怖のあまり、声も出なかったのは幸いだったかもしれない。叫んでいたら水を飲んでさらに混乱していただろう。代わりにセピアは体を丸め、目を瞑り、口の中で神と父と母とアピアの名を繰り返す。目を閉じていると、皮膚の周りに冷たい水がまとわりつき、渦を巻いている感触が際立つ。掴まれた足首が一際冷たい。
誰だ。この手は誰のものだ。
その問いが、頭の奥でぱちりと弾けて光った。
お前は誰だ。
急に湧いてきた苛立ちにも似た感情が、セピアの目を開かせた。眼前に底の見えぬ闇がある。それは人の形をしているように見える。大きく、強い。向こうの顔もまた、ぐい、とこちらに向けられた。
瞼が開く。闇の中にごろりとした眼球が現れる。目が、合う。
途端、流れ込んできたものを、どう言い表していいのかセピアは分からなかった。
苦しみ。悲しみ。絶望。怒り。全てが混じり合ったようなもの。
彼は反射的にそれを拒否した。せざるを得なかった。
嫌だ。
頭の奥で幾つもの光球が弾け、背中の辺りがキシキシと痛む。
「離せ、あっちへ行け!」
思わず叫ぶが、もちろんそれは声になることなく、水が口に流れ込んでくる。胸が詰まる。苦しさに必死で周りを掻く。耳が鳴る。嫌だ。嫌だ。
そして、あまりにも呆気なくその終わりは訪れた。
ぽかん、と頭は水面から飛び出た。ひどく深くまで引きずりこまれ、もがいているだけでまったく進んでいないように思えたのに、唐突に光の下にセピアは顔を出していた。
海は穏やかだった。
降りかかる波は温く、月に照らされた波頭があちらこちらで光っている。あの冷たい気配はもうどこにもなく、わずかに首筋にちりちりとした寒気が残っているだけだ。体はむしろ内側から熱を発しているように感じられ、疲れもさっきより軽くなった気さえする。
なんだったんだろうと首をひねるセピアの耳に、後ろから波のものではない水音が届く。振り向くと、ニッカがずぶ濡れになって舟にしがみついていた。
9-6
「ごめんなさい……」
「謝ることじゃないでしょう」
海から吹いてくる風に当たりながら、セピアとニッカは岸の砂利の上に座っている。濡れたまま宿に戻る訳にはいかなかったので、ある程度乾くまでここで待っていたのだ。本来なら濡れていないニッカが拭くものを持ってくるはずだったのだが、彼の方が服まで濡れてしまったので仕方がない。
「勝手に飛び込んだのはこちらですから。どっちかというと謝るのは僕の方では」
セピアの頭が沈んだ後、縄を引っ張っても手ごたえがないし、思わず飛び込んだのはいいが、いきなり泳げる訳もなかったそうだ。
「死を覚悟しましたね。これ以上のピンチが僕の人生にないことを祈りますよ」
耳から水を抜きながら、真顔でこう言われると、笑っていいところかどうか分からない。水が入りやすそうな耳だなあ、とセピアはぼんやり自分にない器官を眺めてしまう。すぐ側にいた、同じだけれど違う人間たち。
「ニッカのお父さんってどんな人だった?」
セピアはふとそう尋ねた。
彼が三足族の父を持つことは、アピアから聞いて知っている。勘繰られているようだが、自分はニッカの父親のことは何も知らない、とも言っていた。あの壁を自分たちよりずっと前に越えた者がいて、しかもこちらの人間と結婚までしているとは、セピアにとってかなりの驚きだった。どんな理由でこの国に来たのか、とても知りたい。
「色んなことを知っていて、色んなことを残したいと思っていた人でしたね」
しかし、ニッカの答えはひどく抽象的なものだった。
「知識欲と顕示欲は比例するもんですかね」
「知りたかったから、こっちに来たの?」
「さあ。そういうことは話しませんでしたし」
首を傾げるセピアに、ニッカは言葉を継いで答える。
「いなくなるまで、三足族だなんて知らなかったんです。知ったのは母が死んでしばらく経った後でしたから、母にも聞けませんでした。知っていたかどうかは微妙なところですか」
「え、じゃあ、どうやって分かったの」
「書きつけを残していったんですよ。もったいぶった人ですよね」
どこがもったいぶっているのか良く分からなかったが、複雑な事情がありそうなので、あまり突っ込まない方が良さそうだとセピアは判断した。思えばシードの時もそれで失敗している。
「結局どうして壁を越えてきたかは分からずじまいってことで。本当に不出来子で、三足族ってのは妄想かもしれないと思ったこともあります。……まあ、事実だった訳ですが」
「どうして?」
「貴方が目の前にいるからですよ」
今まで海の彼方に目をやっていたニッカは、ここで不意にセピアへと振り向いた。真正面から目が合ってしまい、セピアは海中での出来事を思い出し、どきりとする。
「そろそろ、お二人の事情を話してくれる気はありませんか?」
そしてニッカの問いは、セピアの胸をえぐるものだった。
「二人きりでいるより、何か助けになるかもしれません。僕を信用してくれとは、流石に厚顔すぎてちょっと言えませんけれど。ミュアや……シードはああですが、ああだからこそ、少なくとも友人を裏切るようなことはしないと思いますよ」
連なる言葉は重みになる。信用していないから話せない訳じゃない。話せないのはこちらの勝手な理由だ。
あの男たち、明らかな追っ手が現れた後、アピアとも話をした。このまま皆と一緒にいてもいいのか、と。セピアは打ち明けた方がいいと提案したが、アピアは首を横に振った。
アピアの方がいつだって正しいのだから。
返事を待つニッカに、セピアはごまかしで返すしかなかった。
「でも、僕らはすごい悪人で、悪いことをして逃げてるのかもしれないよ」
「そんなことはありえないでしょう」
「何で?」
「そうですね。例えば、貴方たちは名前に関しては嘘をつこうとはしなかったですよね。ミュアは言ってましたよ。じゃあアピアたちには後ろ暗いことはないんだって」
そこでまた、ニッカはおもむろに聖書の一節を暗唱する。
「聞け、名こそその者であり、偽りの名は闇を含む」
そんなことは理由にはならない。
セピアは足首を掴む手に力を込めた。
名を偽らず悪事を働く者などいくらでもいる。だから、たぶんニッカはこう言いたいのだ。理由など何とでもつけられるのだから、必要ないと。
分かっていても、それはセピアには告発に等しかった。自分たちは闇の中にいる。
「ごめんなさい……」
後ろめたさから出た謝罪は、否定の返答に聞こえたらしかった。ニッカは再び海に目を戻す。
「謝ることじゃないでしょう。勝手に聞いたのはこちらですから」
そして、それ以上尋ねてこなかった。
9-7
天の光はいつの間にか随分とその力を増してきているようだった。朝が近い。結局一夜を海で過ごしてしまったようだ。
家々の塊の方から聞き覚えのある声がして、セピアは焦って振り向いた。
「見つかると色々まずいことになりそうですね。僕は退散しましょうか」
ニッカが立ち上がり、伸びと共に大きな欠伸をすると、大きな耳もそれにつられるように後ろに寝る。
「ミュアには出発は明日にしてほしいって頼んでおきます」
「どうやって話すの?」
「うっかり一晩中海辺をうろうろしてた
んでしょうね、きっと。僕一人で」
何故わざわざ胡散臭い事情をでっち上げるかは疑問だが、どうもそれが楽しいらしい。彼は軽く手を振って別れを告げると、声とは反対側に歩いていった。その姿が消えるのを見届けてから、セピアは声へ向けて走り出す。
海で振り払った時に発した熱はいまだ体の内から消えておらず、体は軽く不思議と眠気もない。これなら何とかごまかすことも可能だろう。
暁天は赤みを増し、逆に月はその色を薄め白光の陽へと姿を変えつつある。空の明るさに闇は地上に追いやられ、ぼんやりとした薄暗闇がここかしこに溜まっている。
セピアは声を上げた。
「アピア、ここ!」
セピアの姿を認め、ほっとした表情を隠さずアピアは駆け寄ってくる。
「良かった……連れ去られてたらどうしようかと」
「早く目が覚めちゃったから、海を見てただけ」
嘘をつくのはやはりためらいを伴ったが、本当のことを告げるよりましだった。
「それなら一言残してくれれば……」
「ごめんなさい、すぐ戻るつもりだったから」
「いいんだよ、でもあいつらがいるから気をつけて」
かがんでセピアの頭をかき抱き、アピアは安堵の息を吐く。その指先が随分冷たいのにセピアは気づかされた。いつもベッドの中で握るあの手のように。
セピアはそんな時いつもするように、アピアの額に自分の額を寄せる。しかしその途端、アピアは怪訝な顔をした。
「布、濡れてない?」
不意打ちに、セピアの心臓が跳ね上がる。ニッカの前で外す訳にいかなかったのでそのまま泳いだのだが、乾ききらなかったらしい。
「海のとこで、転んで……」
とっさに出てきたのは苦しい言い訳で、どう考えても説得力がない。だから、アピアが次に口を開く前に、セピアは先手を打った。
「そうだ、アピアも海見ようよ、海!」
アピアの手を掴むと、強引に引っ張って海へと歩き出したのである。勢いに呑まれたのか、アピアは特に問わずについてきた。これからどうやって話を持っていこうか、セピアは悩みながら足を進める。
しかし、角を曲がった途端に現れた風景にそんな些細なことは吹っ飛んでしまった。そこにあったのは予想外のものだった。
曙光を身に受け、海は金色に輝いていた。穏やかな潮騒を奏で、波はうねり、岸に打ち寄せ、やがて引いていく。それは滅びの呪いをもたらすものではなく、優しく撫でているようにさえ見えた。
二人は言葉もなく、並んでその様子を眺めていた。海から柔らかな風が吹いて二人の頬をくすぐった。
「ねえ、アピア」
思いは自然に口から転がり出る。
「僕、ずっとこうやって、一緒に色んなところを見たかったんだ」
あの湖を越え、森を越え、壁を越えて。そこは知らない国で、知らない人たちがいて。巨大な木々や喧騒の街や緑の草地やたゆたう海、そして熱を帯びた地、気高いかの山。
そんなことを言ってはいけない時なのは分かっているけれど。
「……何だか、嬉しい」
叶わないと思っていたことが実現したのだから、本当の願いだって叶うかもしれない。
「うん、そうだね」
アピアもまた言葉少なに頷いて、小さく笑う。
セピアは自らの熱を移すように、強くアピアの手を握り締めた。