Southward

第一章 人の章

「つなぐもの」

20-1

 荒い息を吐きながら、アピアは廊下を歩いている。
 足はよろけがちで、ともすれば取られて転んでしまうだろう。そして、そうなればきっと二度と。
 辺りには誰もいない。助けは求められない。元々、この場所に味方は誰もいない。
 だから、行かなくては。たどりつかなくては。宝器庫まで。
 まだ早い。まだその時じゃない。まだセピアはセリークに着いていないはず。着いていたら、もっと大きな動きがあるはず。まだ僕は。
 途端、えぐり取られるような痛みが体の中を走り抜ける。目の前が眩んで、見えなくなる。気がつけば、肩から壁にもたれてへたり込みかけていた。
 分かってる。分かってる、そんなに急かさなくったって。ずっと分かってる。
 今は行かなくちゃいけないんだから。でも、何処に。……遠いところ。壁の向こう。違う。そんなに遠くはない。地下。宝器庫だ。そこに、伯父たちが。
 訳が分からなくなりかけている自分に気づいていた。でもどうにも出来なかった。
 駄目だ。
 その言葉が頭の中に響き渡る。
 もう間に合わない。
 足が滑った。衝撃が全身を打ち、わずかな間、思考がはっきりする。けれど、もう体は動かせなかった。目の前に立つ敷物の毛ばかりが、瞳に映るものだった。
 何て無駄な使い方!
 アピアはこの無様な喜劇に力なく笑う。
 つまらない考え違いで、こんなにも見知った場所で、何の意味もなく、最悪のタイミングで、僕は命を消費する。
 こんなことならあの時に。
 そう思った途端、首が痛んだ気がした。そんな訳がないのに。あれはかなり前のこと。もう夢の中の出来事のような昔。
 あの時に、あのまま。
 そうすれば、少しぐらいは価値があっただろうに。
 あのまま、殺してくれたなら、せめてシードの気晴らしに。……償いに。
 もう叶わない望み。
 ずるりと闇が落ちてきて、瞼を閉ざす。抗う気力はもはやなかった。
 どうして、こんなことに。
 先ほどからの出来事が、巻き戻るようにアピアの脳裏に甦る。

20-2

 それは、幾度か繰り返された要求だった。
「宝器庫の鍵を渡してもらいたい」
 巡回のように日に二度ほど姿を現すナッティアは、今回もそれを求めてきた。宝器庫には継承の儀式に必要な道具類が収められている。そして、そこは王しか開けられない。逆に言えばその器物を見せれば、王の代理人として任じられたという証になる。
 アピアは彼に、変わらぬ答えを返す。
「何度言われても答えは同じだ。母上を解放するのが、協力の条件だ」
 父親の命が拾えるとは、いくら何でも思っていない。しかし、母親の命ならばさほど奪う理由はないはずだった。逆に殺すことでセリークを刺激しかねない。セピアが奪還に訪れた時、人質にされる危険は当然あったものの、可能なかぎり救いたかった。ここへ戻ってきたのはそのためもある。
 そして、彼らの要求に簡単に従う姿勢を見せるのも危険だ。あまりに従順だと、自分が囮なのだと勘付かれかねない。最終的には従わざるをえないけれど、ごねて時間稼ぎをするのも必要だった。
「埒が明かないな」
 ナッティアは一つ息をつく。
 彼とて、そう簡単に従わせることができるとは思っていないだろう。様子を見て、折れる時機を見誤らないようにしないといけない。
「……仕方がない。見当はついている」
 しかし、いきなりそれは失敗した。ナッティアの指示で、控えていた衛士が動き出し、アピアの両腕を押さえつける。アピアはこのまま連行されるかと思ったが、伯父の思惑は違うところにあった。彼はアピアの首元に手を伸ばし、それをつまみ上げる。
「これだろう。お前が肌身離さずつけていることからも明らかだ」
 服の中から引き出されたそれは、七色の光をちらつかせて揺らめいていた。
「違う……!」
 悲鳴に近い声を上げ、アピアは否定する。その必死さがむしろ相手に確信を抱かせたようだった。
 首から抜かれまいと頭を振って抵抗するが、そうしているうちに安物の鎖が引きちぎれてしまう。それを手のひらにしまい、去ろうとするナッティアに、なおもアピアは訴えかけた。
「それは違う、それは……」
 僕の命をつなぐだけのものだ。
 そう言いかけて、アピアは言葉を呑み込む。今そのことを知られてはならない。その秘密を知るのは、家族と専属の医師だけだった。彼らは知らない。知らないからこそ、自分を捕まえ、セピアを軽んじた。
 それをただ投げ捨てるだけで、簡単に自分が命をも捨てることが出来ると分かったら。そして、そのつもりなのだと感づかれたら。
 自分への監視は強まり、セピアへの追撃は激しくなるだろう。
 だから今はその秘密を知られる訳にはいかない。
 ためらいが、相手を引き止める勢いを弱らせた。ナッティアはわずかにアピアを見やったが、立ち止まることなしに部屋から出て行ってしまう。開いた扉の向こうに、ディーディスが控えているのがちらりと見えた。
 衛士の腕を何とか振りほどこうと、しばらくアピアはじたばた暴れていたが、それが無駄な試みだと思い知らされる。やがて力尽きてうな垂れたアピアを寝台に残し、二人の衛士は扉を固めに戻った。鍵もかかっているはずで、そこから出ることは不可能だった。
 寝台に腰掛けた姿勢のままシーツを両手で握り締め、アピアは黙り込んでいた。

20-3

 もちろん、迷っている暇も落ち込んでいる暇もアピアにはなかった。
 沈黙は思考のための時間だ。もはや賭けるしかない。賭け金は自分の命ということになるか。
 一刻も早く。耐え切れる痛みのうちに。
 顔を上げると同時に、アピアは立ち上がり、駆け出した。掴んだままのシーツがはためき、衛士たちがぎょっとした顔で立ち竦んでいるのが視界の端に引っかかる。アピアが彼らに向かっていったのなら、そんな顔はしなかったのだろう。すぐに取り押さえにかかったはずだ。
 驚いたのは、向かった場所が反対側、テラスだったからだ。
「と、止まれっ!」
 後ろから追いかけてくる声に反応すらせず、アピアは駆け抜け、そして手すりへと飛び乗った。自分の部屋とは違い、隣の部屋のテラスとは距離があり、眼下は湖ではなく遠く固い地面だ。
 そんなことは知っている。
 ためらいなくアピアはそこから飛び降りた。すぐに来た、がくりと体を揺らす衝撃と共にシーツから手を放し、下の階のテラスへと転がり込む。頭上で手すりに通したシーツの両端が踊っていた。
「おい、下の部屋だ!」
「鍵は!?」
「分からん!」
 上の部屋での騒ぎを聞きながら、開いているのを願って扉へと走る。運はアピアに味方した。使用する者のいない部屋は、施錠されないまま放置してあったらしい。
 宝器庫はこの塔の地下だ。伯父に追いつき、取り返さなくてはならない。逃げる気はなかった。ただ、今はまだ死ぬ訳にはいかなかった。まだそのタイミングには早すぎる。
 僕はただ、そのためだけにあるのに、それすら叶わないなんてそんなこと。
 そんなことはあってはならない。
 人の気配を避けながら、アピアは走る。塔の構造は知りすぎるほど知っていた。追っ手らがたぶん誤解しているのも幸いだった。彼らの人数は少なく、それはたぶん脱出口を固める方へ人員を回しているせいだ。塔の中を無為に追い掛け回すよりも、確かにそちらの方が確実だ。ただしそれは、アピアの目的が脱出の場合である。
 逃げ場のなくなる地下へと彼が向かっているとは、思えなかったのだろう。
 見つかることなく、地下へとたどり着く。わずかな採光口からの光だけで照らされた廊下は薄暗く息が詰まり、いくら気をつけても足音が響き渡っている気がして仕方がない。
 それは一足踏むごとに全身を伝わる痛みのせいでもあった。乱れた鼓動が耳の裏で脈打つのが分かる。
 あと少しだから。
 自分に言い聞かせても、体はもはや騙されない。
 普通の時ならば近いのに、今はひどく遠い距離だ。全身のあちこちが悲鳴を上げている。
 痛い。痛い。痛い。
 間に合わない。
 そして、アピアは倒れ、動けなかった。
 誰も見つけることのないこの場所で、最期の時はすぐそこに迫っていた。

20-4

 荷卸しをしている商隊からそろそろと離れ、ニッカとシードは城の中庭を走り抜けた。複雑な造りの建物は一歩間違えるとあっさり迷ってしまうのが予想され、気が抜けない。
「すぐばれるだろ、これ」
「ばれますね」
「いいのか?」
「結局、速攻で決めなければいけない状況下で、あれこれ小細工を弄しても仕方ないんですよ」
 城へと食料を納める商隊に、ウレーニィの口利きで潜り込んだのだ。城の構造上、通常は外から食べ物を運ばなくては成り立たないので、その営みは変わらず続いている。病気の噂のために、その働き手も不足がちだ。そこに三人分くらいの働きはゆうに出来る馬鹿力の持ち主が現れたのなら、素性はさほど問われないのは予想の通りだった。
 とはいえ、出入りの人数はしっかりと数えられている。足りなければ騒ぎになるだろう。もっとも、咎められることを恐れて商隊は出来る限り発覚を遅らせようとするはずだから、彼らから騒ぎ出すことはないはずだ。
 大切なのは、侵入に失敗しないことだけだった。自分たちが中でやることは、成功しようが失敗しようが騒ぎになることなのだから。例外は秘密裏に捕らえられ、始末される時だけだ。
「失敗した時はシードが頑張ってください。間違いなく歴史に名を残せますよ。まあ、暗黒史って奴になるでしょうけど」
「ああ」
 分かっているのかいないのか、シードはどこか上の空の様子で安請け合いする。その時にはどんな惨事となることやら、とニッカは思う。
 やがて二人は樹木の陰が濃い場所へとたどり着いた。間違ってはいないかと辺りを窺うと、茂みの裏からひらひらと手が振られた。覗き込めば、座り込むセピアとミュアの姿がある。
「うまくいった?」
「いったと思います。そっちこそ見つかりませんでした?」
「大丈夫……と思う」
 この二人が見つかれば大騒ぎになること必至なので、大丈夫なのだろう。セピアが心配そうな顔なのは、うずくまったミュアに対するものだ。
「もう、重いものは嫌……」
 消耗しきった顔でミュアは呟く。
 セピアだけは堂々と侵入させる訳にはいかなかった。見破られて捕まったら元も子もないし、騒ぎになるのも好ましくない。
 従って、セピアとミュアだけがこっそり潜入することになったのである。侵入路は橋だった。ただし、上ではなく下だ。ミュアが無理やりセピアを抱えながら飛び、橋裏を伝って湖を超えたのだ。
「何か返しがついてて、たまに刺さるし……」
 有羽族は垂直移動は出来ても、平行移動は出来ない。進むには橋を伝って勢いをつけるしかなく、しがみついたセピアを落とさないように気を使いつつ、その作業をしなければならなかった。それ以前に、二人分の体重では飛ぶだけでも一苦労だ。
「大体ね、シードが羽をちぎり取ったりしなければ、楽だったんじゃないの」
「そんなことよりさっさと行くぞ」
 シードならセピアを抱えるのも負担ではなかっただろう。短慮を責めるミュアのお小言を、シードはほとんど聞き流すようにして皆を促す。
「さっさって、どこ行くつもり?」
「奴は奥の塔とやらにいるんだろうが」
「たぶんそうでしょうね」
 シードの言う“奴”が、ゼナンかアピアかは分からなかったが、どちらにしろその可能性は高そうなので、ニッカは頷く。元々王族が居住していた塔がそのまま閉鎖されて、隔離されているらしい。病気という建前上、それが自然な流れでもある。ウレーニィの事前調査で、塔のベランダにアピアの姿を見かけたという噂が城で流れているのも分かっていた。
「お前らだって分かってるなら、わざわざ聞くなよ」
「で、間違いなく警備は厳重なんだけど? 殴り倒すとか言わないでよ」
「どっかから入ればいいんだろ」
 ほいほい裏口が開いているとはシードもまさか思っていないだろう。つまり物騒さでは正面突破と似たようなものと予想される。
「もう少し情報を集めてからにしたいんですけど、待てませんか?」
 ニッカの問いに、シードはあからさまに不機嫌な顔をした。待つつもりはなさそうだ。
「では、止めませんから行ってください」
 冷たいとも言えるニッカの言い様に、しかしシードは不満を洩らすことすらしなかった。返事もそこそこに、彼は立ち上がって出て行こうとする。
「シード」
 背中へと呼びかけたセピアの声に、シードの歩みが一瞬だけ止まる。
「……お願い」
 ただ一言の願いを了承したのかどうか、彼はそのまま茂みの向こうへと姿を消した。

20-5

「シード一人に任せちゃっていいの?」
 ミュアのその疑問はもっともなものだったろう。追うならば、すぐ行かないと間に合わない。
「今のシードはいつも以上に人の話を聞いちゃいませんよ。止めても無駄です。ついていくのは無謀です」
「それは諦めてる訳? 信頼してる訳?」
「どっちもですかね」
「分からなくはないけど、無責任な言い方ね」
「シードなら大丈夫だよ」
 二人のやり取りを止めたのはセピアで、彼の言葉には迷いがない。
「まあ、大丈夫だとは私も思うけど。それより、アピアと会った時にもめないかが心配だわ」
 何故かは知らないが、別れ際は非常に険悪な雰囲気だったとニッカから聞いている。二人のことだから、顔を合わせた途端にぶり返してもおかしくないのではないだろうか。
「大丈夫だよ」
 再びその言葉を繰り返し、噛み締めるような響きでセピアは続ける。
「アピアにとって、ずっと前からシードは特別だったから」
「特別ったって、それは悪い方向にじゃ……」
「どっちだって特別なことには変わりないもの。だから、僕じゃなくて」
 そして彼はふつりと言葉を途切らせた。
「……それに、僕にしか出来ないことがあるから」
 しばらくの沈黙の後に、その伏せた顔を上げ、ニッカを見やる。
「父上と母上を探すんだよね」
「それが急務ですね」
 アピアを助けるのも大切ではあるが、この状況を打破するには何よりもそれが必要だ。
「ということで、むしろシードには派手に陽動してもらった方が良いですし」
 本人にはそのつもりは微塵もないだろうが、彼が動けば騒ぎになるのは必至だ。その影に隠れて動くのが最善だろう。
「でも、その二人もシードの向かった塔に一緒にいるってことになってるんだよね」
 そうであるなら陽動とはならない。首をひねるミュアに、ニッカは自分の見解を話す。
「建前上は。僕だったら、切り札を誰もが知っている場所に置いておくことはためらいますね。小心者ですので」
 功を狙った者に塔へと攻め込まれ、奪還されたら終わりである。また、お互いを人質として使える両親とアピアを近くに置いておくのも得策ではないと思える。
「じゃあ何処だと考えてるの?」
「見つかりにくく、攻めにくく守りやすい場所。脱出も容易ですと一番です。また、あまりに環境が劣悪なのも困りますね。大事な人質ですので」
「随分虫の良い条件に思えるけど、具体的には?」
「僕はこの城の中に詳しくないですから」
 そこであっさりと思考を放棄したニッカは、セピアに視線を送る。丸投げされたセピアはしばらく考えを巡らせていたが、やがて二人を見つめ返した。
「……思い当たる場所はあるよ」
 しかし、その顔はやや曇りがちだ。
「ただ、そこって……」
 彼が告げた場所は、確かにその表情を引き出すだけの難所であった。

20-6

 嫌な予感がしていた。
 ぐずぐずはしていられない気がした。
 根拠なんてない。いつだって、自分が動くのにそんな面倒くさいものは必要ない。
 ただ、早く行けと騒ぐ心に従うだけだ。
 木の間を縫って塔へと走り近づく。時折、見咎めたらしき声がするが、全て聞き流す。あまりにも堂々としているせいか、今はまだ追ってくる者はいなかった。
 塔の裏手に回り込めば、閉ざされた扉が目に留まる。人気の感じられない塔だ。不吉なほどに静まったその場を乱すことに、シードはためらいの気持ちすら抱かなかった。
 ノブを掴み、思い切り引く。けたたましい音を立て、扉全体が軋む。一度離して再び引くと、ノブの周辺がめりめりと裂けて手に残る。もはや扉は横が止められたただの分厚い板でしかなかった。すかさずそれを中へと蹴り込む。
「ぎゃっ」
 途端、そんな音が聞こえてきた。顔をしかめて中を覗き込めば、重い扉と壁に挟まれて、衛士見習いらしき若い男が悶絶している。
 たまたま扉に背を向けていたのか、構えるのが間に合わず、扉の直撃をもろに食らったらしい。締め上げて情報を聞こうかどうか迷ったが、すぐに起きそうもないし放置しておくことにした。そんなことより、足が動いた。床に敷かれた毛足の長い絨毯を踏みつけ、ずんずんと進む。
「おい、妙な音が……」
「待て、罠かもしれん、まずは誰かが様子だけを……」
 何だか前方が騒がしく、シードは舌打ちをする。普段ならば突っ込んでも良かったが、今はそんな気分にならない。仕方なく脇の階段へと逸れることにした。昇らずに降りた理由は分からない。
 だから、暗い廊下の先に思いもかけないその姿を見つけた時、シードは心底驚いたのだ。早足が駆け足になる。
「何やってんだ、お前!」
 返事はない。床にうつぶせたまま、アピアは少しも動かない。
「おい!」
 肩をゆすっても反応がなく、腕を掴めば冷たく力ない。確かめようと、シードはその体を裏返す。瞬間、彼はその表情を凍らせた。
 髪の毛がはだけて見えた首の左側に、小さな、しかしはっきりと四つ、黒ずんで染み付く痣を見つけてしまったからだった。
 ……お前だろうが。
 粘つく声が耳元で囁いた。
 可哀想に。お前の顔など見たくもないと思っているとは、思わないのか?
 シードはそこへ手を伸ばす。指がかかる。幾度目かの感触。そう、簡単に。いつだって簡単に。自分はそう出来た。
 痣と指はぴたりと位置を合わせる。
 お前は、何のために、ここへ。
「……シ、ド……」
 突如割り込んできたその音に、シードの肩はびくりと震える。わずかに開いた瞼から、瞳がこちらを覗いている。指の下からは微かな脈が感じられた。
「ろして……」
 生きている。まだ、生きている。
「はや、こ……て……も」
 虚ろな目と声が、こちらへ向けられる。
 たちまちシードの冷えていた腹が、かっと熱くなり、苛立ちに似たその熱は、すぐにシードの頭まで駆け上った。
「嫌だ」
 彼は吐き捨てるように宣言した。
「俺はそんなことしない。してやるもんか」
 そして首を掴んだまま、ぐいとアピアの上半身を起き上がらせると、その体を前に抱えて立ち上がる。
「また失くしたんだな。どこだ。行くぞ」
 言われたアピアは放心した面持ちでシードを見上げていたが、しばらくして彼の胸にことんと頭を預け、聞き取りにくいかすれ声で呟く。
「僕……いご、まで……何てよくば……」
「うるさい。答える以外は黙ってろ」
 すぐそこにあるアピアの顔から目を逸らすように、シードはぷいと明後日の方向へ視線をやった。

20-7

 感じたのは、暖かさだった。
 じわりと染み込んでくるそれは覚えのあるもので、少しだけ体が楽になった。目を開けると、これもまた何だか覚えのある顔がある。しきりに話しかけてくるので、はっきりとしない頭で答えを返す。
「首のやつ、どこやったんだ、おい」
「宝器庫だと思う」
 自分ではそう言ったつもりだったが、苛ついた問いがまた戻ってくる。
「ほっこと? どこだそりゃ?」
「ここをまっすぐ行ったところにある」
「何だ、このまま行けばいいのか? そこにあるんだな?」
「伯父上が間違って持っていった。あれはそんなものじゃないのに。あれは、僕だけの……」
「ああ、分かった分かった。何言ってるかよく分からんからもう喋るな」
 黙らされ、揺られているうちに、おかしなことに気づく。どうしてここにあるものの位置を聞かれて、そして自分は答えているんだろう?
 徐々に、痛みで朦朧としていた頭が動き始めていた。今いるはずの場所と、今置かれているはずの状況と、目の前の人物が結びつかないことにようやく思い当たる。
 アピアは息を呑み、目を見張った。
「シード、何で……!」
「うるさい」
「何でここにいるの……?」
「うるさいって言ってるだろが。口塞ぐぞ」
 けしてこちらを見ようとしない、不機嫌な表情が目の前にある。忘れようも間違えようもない、変わらないその印象。
 混乱する頭でアピアは考える。
 服の上に首飾りはなく、服の下にもそれが動く感覚はない。やはり、取られたままなのだ。けれど、のしかかる闇はなくなり、気分は悪いながらも思考はまともになっている。痛みも鳴りを潜めていた。
 それがどうしてなのか、アピアは分かる気がした。
 どさくさに紛れて、より強く頬を胸に押しつけてみる。伝わってくる体温が、幻でないことを告げている。
 その熱は、世界と自分をつなぎ止めるためのもの。
 その時、前方で扉が押し開かれた。中から出てきたディーディスは思案顔をしていたが、すぐに足音に反応してこちらを見、ぎょっとした顔になる。彼の手には、首飾りがぶら下がって揺れていた。
 そして、何を察したのか彼の判断は早かった。アピアが声を掛ける前に、突如身を翻して逃走する。
「待って、それを返して、ディー……!」
「追うぞ」
 シードもまた、アピアの呼びかけを待たずに走り出す。階段を駆け上がり、廊下を駆け抜ける。シードは体力はあれども、足が速い方でもないのでなかなか追いつかない。けれど、それも時間の問題のはずだったのだ。
 昼の光差し込む眩しい回廊で、その人物が待ち構えていなければ。
「ぼっちゃん、なかなか良い判断だ。あれを相手にしなかったのはな」
 すれ違い、さらに逃げるディーディスに何かを告げていた彼は、わざと聞かせるように大きくそう呟きながら、おもむろにこちらへと振り向く。
 相対したシードの緊張は、肩の痛みに姿を変えてアピアにも共有された。
 笑みを浮かべ、気さくともいえる調子で話しかけてくる男は、しかし洩れてくる気味の悪さを隠そうとはしていなかった。
「よお、シンス=トーラー。奇遇だな」
 柱の間から吹き込んでくる風に、右の袖がそよいでいる。
「さあ、決着をつけようか」