7月31日(木) 晴
今日は基地に行かずに、モトくんと遊ぶことにしました。ひどいかぜだと聞いていたけど、けっこう元気そうで安心しました。
素直から電話があったのは、昨晩遅くのことだった。最初、喜々として電話に出た母は、僕相手の電話だと知ると急にそっけない態度になって取り次いだ。いつものことなので、受話器を叩きつけるように渡されても気にはならない。
「もしもし」
「久しぶり」
電話の向こうの素直の声は、元気がないようにも思えたし、変わらないようにも思えた。
「風邪はだいじょうぶ、みんな心配してたよ」
「ああ……」
彼は一瞬ためらったようだった。そしてその意味を僕が問おうとする前に、息継ぎなしでこう申し出てくる。
「明日基地に行かずに出かけないかソウタロウやシンヤには秘密で」
「え」
突然の誘いに、僕は思わず黙り込んだ。嫌だった訳ではないのだが、どうして素直がそんなことを言い出したのか、分からなかったからだ。
その時、廊下の隅から仁菜がこっちをのぞいていることに気づいた。彼女は何か訴えかけるような目でじっと見つめている。明らかに一緒に行きたがっていた。僕はだめ元で素直に提案する。
「えーと、ニナも一緒にいってもいいのかな?」
「来いよ」
あっさりと許可はもらえた。仁菜に目線を送ると、彼女も察したらしく表情が現金にもはっきりと明るくなる。それで僕の気分も少し軽くなった。たまには素直と二人きりもいいだろう。
「うん、待ち合わせはどこ?」
「駅前の本屋で十時半」
「分かった。じゃあ明日ね」
そして、僕と仁菜は時間通りに本屋へと顔を出した。当然のごとく素直は先にきている。彼は僕の姿を認めると、開いていた本を閉じて、眼鏡を直した。
「昼ご飯は持ってきた?」
「うん、おにぎり」
背負っている小さなリュックを見せてそう答える。素直は頷いて、本屋を出た。僕はその後をついていく。
「じゃあ、行こうか」
「どこへ?」
唐突にそう言い出した彼の背中に尋ねると、振り返らずに彼はこう言った。
「海」
コンクリ建ての小さな駅の時刻表は、この前古くなりすぎて取り替えたばかりだったので妙にぴかぴかだった。素直と僕はその上にある路線図を見上げて、しばらく黙っていた。
「本当に海へ行くの?」
僕はにわかに信じられずに、そう聞き返す。返事はなく、彼は怖い目でただ路線図を睨みつけている。そしておもむろに自動券売機に硬貨を入れて切符を二枚購入する。
「僕、あまりお金持ってないよ」
一枚こちらに差し出されて、僕は泡を食ってそう訴えたが、押し付けるように強引に渡された。
「ヒロキは出さなくていい」
「でも」
「いいんだ、こっちから誘ったんだから」
そして、素直はさっさと改札を通ってしまう。僕はためらったが、ここで帰る訳にもいかなかったので、彼の後を追うことにする。仁菜には切符はいらなかった。僕と仁菜は素直の横に並んで、赤い車体の電車を待つ。
「ねえ、モトくん」
素直のこわばった横顔は向かい側の看板に向けられている。僕は不安な気持ちと浮き立つ気持ちを半々に抱いて、彼に問いかけた。
「なに?」
「本当に行くの?」
「行くよ」
「あの時、言ったこと気にしてたの?」
素直は言葉でなく、首を横に振ることで僕の問いに返事をした。
「じゃあ何で突然海に行こうなんて……」
さらに問おうとする僕の声は、ホームいっぱいに響き渡ったアナウンスにかき消された。
電車がまいります、白線の内側へお下がりください。電車がまいります、白線の内側へお下がりください。
無機質な女の人の声に続き、遠くからガタンゴトンと車体が立てる音がやってきて、足元のアスファルトがびりびり震える。段々と音は大きくなり、山間から現れた赤い粒はみるみるうちにこちらへと迫ってきた。目の前を鮮やかな赤と様々な人の顔が横切っていき、やがてそれは失速して僕らの前に横たわった。
「さ、乗るぞ」
有無を言わさず素直は開いた扉へと入っていく。僕と仁菜は顔を見合わせたが、発車のベルに後押しされて慌てて車内へと飛び込んだ。冷房が効いていて少し肌寒い。素直は四人掛けのボックス席の窓際に座り、茫洋と町を見つめている。僕と仁菜は彼の向かいに座り、同じように町を見る。がたんと一つ揺れた後に電車はするすると動き出した。
電車に乗るのはこれが初めてだ。もしかして昔乗ったことがあるかもしれないが覚えていない。僕は窓に額をつけ、赤や青の屋根が山間に張りついた光景を眺めた。やがて電車がトンネルに入り、町並みの風景が山肌に隠れた時には僕の心は期待と不安でいっぱいになる。
暗闇の中、オレンジのライトが線を引いて遠ざかっていく。トンネルに響く電車の走行音と、耳に響く自分の鼓動の音が同じ速さで刻まれていた。
ふと仁菜を見ると、困ったような顔をして僕の裾を握っていて、僕は戸惑う。子供だけで電車に乗った不安からか、それとも宗太郎達に秘密で出てきてしまった後ろめたさからだろうか。複雑な気持ちで素直の様子を伺うと、彼もまた進行方向と逆に窓の外を見つめたまま、眉根を寄せた表情をしていた。
「町、見えなくなったね」
きっかけを掴むために発した僕の言葉で、その素直の険のある顔が緩んだ。
「うん」
「どこまで行くの」
「とりあえず乗り換え駅まで」
そこで他の電車に乗り換えるつもりだそうだ。本当に遠いところまで行くのだ。
窓の外では突き立つ木々と暗闇が交互に現れては消えていっていた。僕と素直の会話はだんだん弾みはじめ、僕は素直が休んでいた時に宿題をやったことなどを教え、素直はその間読んだという本の話をしてくれた。そうして一時間も乗った頃だろうか、アナウンスが終点を僕らに告げた。
僕らの町とは大きさがまるで違う乗り換え駅は四つほどのホームで出来ていた。乗り換え口で、再び僕は素直の買った切符を押し付けられた。次に乗る電車は褪せた水色をしている。どこかで見たような色だった。
「次はどこまで」
「言っただろう、海だよ」
尋ねると、ちょっとむっとして素直はそう返してきた。ここはまだ山の中で、切符の額面
は五百円程度のものだ。僕は少し戸惑ったが、あえてそれ以上は聞かないことにした。仁菜の手を引いて、停車している電車に乗り込む。
対面式の座席に座っているのはお年よりがほとんどだった。その一角に陣取った僕らは彼らの好奇の目線にさらされる。
「あんたたち、どこいきゃーすの」
隣に座ったお婆さんが僕らの顔をじろじろと覗き込んでそう聞いてきた。僕は萎縮してしまったが、素直は堂々とそれに応対する。
「ちょっとお使いです、頼まれて」
「へえ、どこまで」
素直の答えた地名は僕には聞き覚えがなく、どんなところかも見当がつかなった。ただ、その地名には海という字が含まれていた。
それから三十分ほど乗っただろうか、アナウンスがその地名をがなりたて、僕らは電車を追い出された。
僕らが降り立ったそこもまた田舎町だった。僕らの町のように四方を山に囲まれてはおらず、田んぼと畑がひろがる土地だった。改札を通
り、どんどん歩いていく素直の背中を僕と仁菜はまた追いかける。
海らしき風景はどこにもない。西に傾きはじめた太陽が、素直の足の下でせわしく動く影を徐々に伸ばし始めた。風が吹く度にあぜ道の左右に生える緑の稲穂がざあと揺れる。行く手には遠く山がある。
あの山の向こうに海があるんだ。
僕はそう思って歩いていた。
あの山を越えれば。
素直の歩みは速かった。僕と仁菜は段々と引き離されはじめ、どうにも追いつけそうにもないと思った時に彼に呼びかけた。
「モトくん、待って」
それでようやく彼は僕との距離に気づいたらしい。振り向いて立ち止まり、困ったような笑いを浮かべて僕を待った。そして僕と仁菜が追いつくと、ふと空を見上げる。
「もうこんな時間か……お腹すいたろ」
言われれば、朝から何も食べていない。否定しなかった僕の手を引いて、素直は道端の草むらに座った。僕と仁菜もその横に座り、リュックから不恰好なアルミホイルの固まりを取り出す。自分で握ったのだからしょうがないのだが、素直に笑われないかと僕は彼の様子を横目で窺った。だが、素直はこちらを気にしておらず、たださっきのようにぼうと空を眺めていた。
「モトくんは食べないの?」
「お腹すいてないし、持ってきてないから」
僕と仁菜は顔を見合わせた。そして二つあるうちの一つを素直の鼻先に突き出す。見られたら恥ずかしいという気持ちはもうどこかに消えていた。
「こっちは一つでお腹いっぱいだから」
素直は初めは断ろうとしていたと思う。けれど、そうはさせまいと僕は彼の顔をぐっと睨みつけた。結果
は僕の勝ちで、彼はしぶしぶ受け取って食べ始める。僕も仁菜と半分ずつにして頬張った。おにぎりは生暖かくて固くてそんなにおいしくはなかったけど、素直から文句は出なかった。
遠くでとんびが鳴く声がした。周りに人影はなく、別の世界にうっかり迷い込んでしまったような気がした。まるで、誰かが世界の人すべてを消してしまったかのように。
魔王が。
ようやく僕はその単語を頭に浮かべた。そういえば魔王探しの話をここに来るまで一度もしなかった。なかったことのように、僕の頭からすぽんと抜けていたのだ。
しょうがないだろ、と言った宗太郎の声が不意に僕の頭の中で蘇った。
「ごめんな」
「なんで?」
その時、突然謝ってきた素直にびっくりして僕は聞き返す。
「海、ないみたいだ」
どうやらさっきからずっとそれを気にしていたらしい。僕は素直の生真面目さに少し笑い、自分の膝を抱えた。
「うん、いいよ」
それから僕らはしばらくそこに座っていた。この町の空気は自分たちの町と違って砂っぽさがあまりなく、草の匂いが強かった。少し山を下ったからか、日差しが強い気もする。むき出しの足がちりちりと粟立つようだ。海に行くともっと強いのだろうか。僕は嗅いだことのない潮の匂いを想像した。
素直は変わらず空を見上げている。彼の視線を追ってもたなびく雲くらいで特に面
白いものは見えない。
「空が好き?」
「違う」
聞くと、彼は一言で僕の問いを切って捨てて、ためらいがちにこう付け加える。
「……地面を見るのに飽きた、だけかな」
「え?」
「ん、なんでもない」
そして、首をおおげさなくらいぶんぶんと何度も横に振り、立ち上がってお尻についた草を払った。
「帰ろうか」
いつの間にか周りは夕方の気配に満ちている。僕は素直に手を引かれて、駅までの道を歩いていった。その僕の手を仁菜が掴む。電車のように連結して僕らは駅へと進んでいく。
帰りもまた素直が切符を買ってくれた。たぶん彼は、帰りの料金も考えて行ける範囲で海がありそうなところを選んだのだ。素直は完璧主義だったけれど、たまにこういう抜けたことをする。もちろん僕はそんな素直が嫌いではなかった。
僕らは行きと逆のルートを通って、町へと帰る。帰りの電車の中で、僕は素直に魔王の話を何度か振ろうと思い、その度言い出せなかった。考えれば、まったく進展していないことを言っても仕方がない。それに素直は疲れているようで、眠り込んでしまった仁菜ほどではないせよ、うとうとしていた。そういえば、素直はこんなに夜遅く家に帰って平気なのかとも思ったが、それも聞けなかった。
すっかり暗くなった窓の外を眺めつつ、僕は妙な気持ちになる。いつも自分の部屋の窓から見ていた灯りのついた窓に今は僕が乗っている。もしかしたらもう一人の僕が、今でも自分の部屋からこの窓を眺めているんじゃないかと、そんな気がする。
やがて僕らの町の名前が告げられて、電車は何のトラブルもなくそこへと到着する。降りたのは僕らだけだった。
「今日はありがと」
駅の前で向き直りお礼を言ったが、素直は無言だ。まだ眠いのかもしれない。僕と仁菜は三度顔を見合わせ、じゃあ明日ね、と告げて帰ることにする。素直の家と自分の家とは正反対だ。
「ヒロキ、ニナ!」
しかし背を向けた途端に名前で呼び止められ、僕は彼の方へ振り向く。ちょうどホームを急行電車が通り過ぎていき、ガタンゴトンという轟音に紛れて素直の声が僕らの元に到着する。
「今度は海まで行けるようにする」
素直らしいその台詞に僕は笑って頷いた。
「明日は基地にくるよね」
「もちろん行くよ」
今度は素直が頷き、そして僕は手を振りつつ別れた。
僕は後になってこの日のことを一番よく思い返すことになった。もし素直が帰りのことなど考えずに持っているお金全部を使って切符を買ったならば、僕らは海にたどり着けていたかもしれない。でも、それができないほど彼は臆病で、それはまた僕も同じだった。だから例え昔の僕らに忠告ができたとしても、結局同じことになっただろう。けれどこの時、海にたどり着けていたら、きっとその後に起こること全てが変わっていたのだろうとも思う。
それが良いにしろ悪いにしろ。