8月2日(土) 台風
昨日からの雨に加えてごおごおと風もふきはじめました。ぼくはニナと一緒に一日中部屋にいました。家がこわれるんじゃないかと心配です。
僕は海にいた。
波止場に波は弾け、空をカモメが舞う。つんと鼻にくる潮の香り。水平線の向こうからむくむくと湧きあがってくる入道雲。一艘の木造船が波間に浮かんでいる。
あれに乗ってどこまでも行くのだ。
そのことが僕には分かっていた。ためらいはない。地面を蹴って跳び、甲板へと降り立つ。ギイ、ギイと波に軋みながら、船は出港する。
「にぃちゃん」
いつの間にか仁菜が波止場に立って、こちらを見つめていた。船が進む度、彼女の姿は小さく彼女の声は聞こえにくくなっていく。
「にぃちゃん、行くの」
僕は頷く。
「にぃちゃん、行けるの」
僕は不意に分からなくなった。このまま行くと船が沈んでしまうような気がした。跳んで戻るのなら今だ。ぐずぐずしていると間に合わなくなる。
「残るのか」
誰かが舳先に立っていた。逆光で顔は良く分からない。声からすると男ではあるようで、見知った人のような気がした。
僕はためらう。
「お前も俺を見捨てるのか」
「にぃちゃん」
仁菜がまた僕を呼んだ。
「にぃちゃん、にぃちゃん」
船は軋む。僕は波に合わせて揺らされる。遠くからごおという音がした。嵐の音だ。このままではこの船は沈む。
「にぃちゃん!」
そして、僕は目を見開いた。目の前に仁菜の顔があった。彼女はえへへと笑い、窓の方へと歩いていく。
「にぃちゃん、すごいよ、外」
もうここは海ではなく、見慣れた僕の部屋の中だった。僕は首を振って布団から起き上がり、仁菜を追って窓から外を覗き込む。
嵐だ。
雨は横殴りに窓に叩きつけられ、前の家の木がなぎ倒されんばかりに煽られている。どこかからはがされたのか、ベニヤ板が目の前を舞い、あっという間に見えなくなった。僕は慌てて窓を開け、苦労して雨戸を引き出した。上着をべたべたにしながら閉め終わると、部屋の中は真っ暗になり、家全体がぎしぎしと鳴っているのがよく分かる。あの船の軋みの音だった。
僕は濡れてしまった頭を拭きに一階に下りる。父がいなくなって男手のないこの家では、色々と不便なことが多い。居間を覗くと、相変わらず母が不機嫌そうな顔でテレビの前に座っていた。
「おはよう」
僕は挨拶して、まだ雨戸が閉まっていないサッシを見つめた。狂ったような風雨が窓ガラスを軋ませている。
「雨戸、閉めようか」
「あ……ああ、そう、そうよ、雨戸を閉めなくちゃいけないかしら」
母は僕の言葉に反応してそう独り言のように呟いたが、動こうとはしない。僕はさっきと同じように乗り出して雨戸を引き出し、居間を締め切った。濡れついでだ。一階の窓を全部閉め終わると、タオルで頭を拭きながら二階へ戻った。階段を上がる時、背中に母の突き刺さるような視線を感じたが振り向かなかった。
部屋では仁菜がベッドの下から箱を取り出してお店屋さんを開いていた。色々な石や古びたおもちゃが床の上に広げられている。雰囲気を出すためか、明かりは電気スタンドだけだ。僕は手早く着替えると、彼女の話に付き合いはじめた。
これはどこで拾ったものとか、これはいつ買ってもらったものとか、彼女の話はつきることがない。
外からは嵐の音が絶え間なく忍び込んでくる。さきほどの夢を思い出して、まるでここは船倉の中みたいだと僕はぼんやりと思っていた。