8月10日(日) 雨のち晴
僕らは町を出た。シンくんは遠くへ逃げようと言っている。
海に行けるだろうか。
僕は朝の冷たさに震えを感じ、目を覚ました。そして見慣れぬ灰色の天井に慌てて飛び起きたものの、横で眠る千衣子に気づき、すぐにここが自分の部屋ではないことを思い出した。外はまだ薄暗い。それでも窓に近づいて空を覗き込むと、雲の切れ間がところどころ白んでいた。日は昇ってきているらしい。
窓を開ければ、細かな水滴が顔に降りかかってきて慌ててまた閉める。外では目をこらしてようやく見えるほどの霧のような雨が降っていた。
「早いな」
宗太郎が半身を起こして、僕にそう声をかけてきた。
「寝れなかったのか?」
「そうじゃないけど」
「いきなりだったもんな」
彼は大きく伸びをし、僕の横へとやってきた。彼の目はどことなく赤くなっているような気がする。僕の視線に気づいたのか、彼は手の甲でごしごしと目をこすった。
「さて、どうするか」
そしてため息のようにそう呟く。僕は思わず宗太郎に尋ねていた。
「ソウくんは逃げるのに反対なの?」
「どうしてもいやだ、という訳じゃないけどさ。あまりに突然だったし、こんなでうまくいくのかと思ったり」
まだ他の人たちが起きてくる気配はない。コンクリの床にごろ寝をしているだけなのでたまに寝返りを打ってはいるが、疲れたのかよく眠っているようだ。
「正直なところ、良く分からなくなってるだけだったりする」
そう告白すると、宗太郎は何かを吹っ切るように僕の顔を正面から見て笑った。
「だからみんなが逃げたいって言ってるなら、もう反対はしないよ。はっきりとした理由がある訳じゃないんだ」
「ソウくんは逃げたいって思わないの?」
「うーん……」
僕がそう聞いたのは別に意地悪心からじゃなかった。ただ前に本部で二人きりになった時、宗太郎は本当は誰よりもここにいたくないんじゃないかと感じたことを思い出したからだ。彼はあの時と同じように遠くをじっと見て答える。
「そりゃまあ他のとこに行きたいって思うこともあるけど、そんなに簡単にはいかないだろ」
「そうかな」
「そうさ」
彼は言い切り、そしてこの話はおしまいだと言わんばかりに一つ手を叩いた。
「さ、朝の準備でもしようか。色々持ってきてくれてありがとな」
外では鳥の鳴き交わす声が次第に大きくなってきている。まだ雨は止まないが、午後あたりからは太陽が出てきそうだった。
遅い朝食を取りつつ、僕らは今後のことを話し合った。もう昼も近い。そろそろ親たちが騒ぎ出す頃だ。少なくとも千衣子の親は娘が消えうせたという状況を放っておく訳がない。すぐに警察へ届け出るに違いなかった。
「うまくいけば、今頃までは気づかないはずなんだけど」
昨晩に比べてずいぶん顔色が良くなった千衣子がそう説明してくれた。今度の騒ぎに際して、彼女は自分の部屋に鍵をつけさせることに成功したらしい。気分が悪いから早く寝ると言い、鍵をかけて出てきたのでおかしいと気づくのは遅れるはずだと。
「それに魔王の手先になっちゃったんだから、警察は避けるかもしんねーじゃん」
「どういう理屈だよ、そりゃ」
「あ、でもそういう場合って警察も手先だったりする?」
「だからどうしてそんな話になるんだよ」
真哉と庸介の掛け合いを背に、宗太郎が千衣子に再び尋ねた。
「その結果が出た紙はどうした?」
「怖くなったから破って捨てた」
「お父さんやお母さんが手先になってるってはっきりと書かれたんだよな?」
「……うん、あそこにいると危ないって」
「いつ、どうやって手先にされたかは?」
「そこまで、聞かなかった」
ぼそぼそと千衣子は答え、宗太郎は眉間にしわを寄せてなにやら考える。前に魔王を予言しようとした時のことを考えれば、千衣子がそれ以上予言をやらなかったことは当たり前とも言える。きっと魔王の力や場所を直接聞くような質問をするとああなるのだ。もし僕が千衣子だったとしたら、あんな状態になるかもしれない質問を一人でやる勇気なんてとても出ないだろう。
「分かった。どうやって手先にするのか分からない以上、町に戻るのは危険だな」
宗太郎もそれは承知しているらしく、それ以上千衣子に尋ねることはしなかった。
「そうだろ。だからさっさとここから逃げようぜ」
「逃げるのは賛成だが、どこいくんだよ」
相変わらず庸介に突っ込まれ続けている真哉だが、彼はまったくそれに怯まずごく気楽に提案をした。
「とりあえずこの山の向こうでいいじゃん」
確かにこの山の向こうには町があるはずだった。昔、ここが鉱山として機能していた時には隣町といっていいほど交流があったと聞いている。だが、閉山となった後には交流も絶え、鉄道の路線もまったく別
のものとなってバスなども通っていない。
「待てよシンヤ、車とかには乗れないぞ」
子供だけで交通機関を使ったり、車を道で捕まえてお願いして乗せていってもらうのはあまりにも目立ちすぎる。すぐ見つかってしまうだろう。
「もちろん歩いてに決まってんだろ」
しかしさらっと真哉はそう言いのけてみせた。これには庸介も突っ込みようがないらしく、軽く肩をすくめただけだ。かくして説得役は宗太郎一人に任された。
「待て待て待て。山ひとつって言えば簡単に聞こえるけど、車道は歩けないし、山道なんてあるかどうかも分からないぞ」
「俺、昔ばあちゃんに聞いたもん。山の中に通路があったって」
そこまでは真哉の戯言だと聞き流していた僕らだったが、いきなり彼の口から飛び出したその興味深い単語はその意識を変えるのに充分な効果
を持っていた。朝食を変わらず口に運びながらも、みんな明らかに先ほどまでとは聞く態度が違う。
「ほら、ここらへん鉱山だったろ。んで、向こうとこっちまで山を貫通してたらしいよ。そのトンネルを通
って、ばあちゃん向こうまで行ったことがあるって言ってたもんね」
「そのトンネル、場所まで分かるのか?」
もちろん僕らは真哉が首を縦に振るのを期待していたが、あっさり彼はそれを裏切った。
「ん、知らない」
真哉らしいといえばらしいが、みんなが落胆したのは間違いない。宗太郎が苦笑いをしつつみんなの意見を代表した。
「それじゃダメだろ」
「なんで?」
真哉は本当に訳がわからないという顔で宗太郎を見返し、そして言い放った。
「チーコが分かるじゃんよ」
今度こそ僕らは耳だけでなく顔全部を真哉の方に向けざるを得なかった。さすがの真哉もそれには怯んだらしく、続いた声は上ずっていて弱気だった。
「だ、ダメならいいけど……」
「そうじゃない。そうか、チイが特定できるな、確かに」
朝食はさっさと終了された。元々菓子パンをかじっていただけなので、机の上を空けるのも簡単だ。そしてそこにはスケッチブックの新しいページが置かれる。魔王に関係していない予言のため、千衣子も乗り気だった。
「神様神様、この山を横断するトンネルはありますか?」
はい、との返答に僕らは期待をもってお互いの顔を見やる。
「そこは今でも通れますか?」
一瞬の間があり、はいの方へ千衣子のペンは滑った。そしてはいを二回囲んだ後に、いいえを一回囲む。
「通れるところと通れないところがあるってことかしら」
横の涼乃がそう小さく呟くのが聞こえた。真哉の話からすると古い通路のようだから、その可能性は高いと僕も思う。
「場所はどこですか?」
次の動きは複雑だった。ペンは鳥居から上へと走り、前のページの裏、何も書いていない白いところへと行ったのである。そしてそこへ幾つかの曲線と直線を描きはじめる。最初は何をやっているか分からなかったが、見ているうちにそれがこの辺りの地図だと見当がついた。やがてペンは一箇所に留まってぐるぐると小さく円を描いて動いた後に、そこから少し離れた長方形へと移動してそこで止まる。
「ありがとうございました、神様」
そして千衣子は予言を終了した。
僕らはその地図に群がるようにして見入る。単純な線で描かれたものだったが、何となく雰囲気は分かった。長方形がたぶん僕らが今いるこの廃住宅、ペンがぐりぐりと動いたところがそのトンネルの入口だ。
「遠くないな」
宗太郎が顎に手を当ててそう洩らす。縮尺はよく分からないが、周りに描かれた山の大きさを考えればせいぜい歩いて三十分くらいの距離だと思える。
「俺探しに行く! 俺が行く!」
真哉のはりきりようといったらなかった。これでは止めようもない。宗太郎は苦笑いしながら、庸介に水を向けた。
「じゃあ二人で探してくるから、ヨースケたちはここで見つかった場合の準備をしておいてくれないか」
「いいぜ」
大人たちが町を一通り探し終わったら、次に的を絞ってくるのはこの辺りに決まっている。全員でぞろぞろトンネルを探しにいく訳にはいかないし、もしここが見つかった場合に逃げ出すための用心棒が必要だ。宗太郎の判断は妥当と言えた。
いつの間にか雨も止んで、うっすらと日が差し始めている。むし暑くなりそうだった。
夕暮れにさしかかる頃、真哉と宗太郎は汗だくで、そして喜々とした顔をして戻ってきた。その顔を見ただけで、目的のものが見つかったことが分かる。
「ちゃんと通れそう?」
「なんとかなりそうかな。こっちはどうだった?」
「探してるらしいグループがたまに下を通りかかった」
大人二、三人ぐらいのグループで、千衣子や宗太郎の名前を呼んでいる組もあれば、じろじろと辺りを見回している組もあったが、僕らの捜索隊であることは間違いない。人の気配がした時は床に座り込んで息を潜めていたので顔など確かめなかったが、とりあえず誰かの親は混じっていなかったようだ。
汗を拭くためのタオルを渡しつつそのことを話すと、宗太郎は複雑な顔をした。
「まあ、チイを連れ出したのは俺だってすぐばれるとは思ってたけど」
二人一緒にいなくなれば、それは疑われるだろう。真哉や僕の名前はなかったことは黙っておいた。言っても意味はない。
「そういえば、ヨースケとスズノさんは?」
次に宗太郎はそのことに気づいた。
「山を越えるならそれなりの食料がいるって、町に……」
自分たちだけならもし見つかっても仲間とは思われないかもしれない、と僕や千衣子の反対を押し切って行ってしまったのだ。
「え、大丈夫かよ。魔王に見つかったりしないかな?」
一休みしてコーラを飲んでいた真哉がたちまち首を突っ込んでくる。昨夜は風呂に入ってないためか、彼が近寄ってくると汗の匂いがぷんと鼻にくる。
「シンヤ、飲むより先に拭けよ」
宗太郎がタオルを彼に投げてよこした。そこで宗太郎は不意に気づいたように千衣子と僕の方を見直す。
「そういえば風呂とか平気か? 俺らはいいけどさ」
女の子に対する彼の気遣いなのだろう。千衣子はそれに首を横に振って答えた。
「気持ち悪いけど、しょうがないもん」
僕も横にいる仁菜を見て確認を取るが、彼女も平気だというように頷く。大体着替えもないし、今はそんなことを気にしている場合ではない。
「そっか、でも我慢できなくなったら言ってくれよな」
その時、実際に言ったら宗太郎はどうするのだろう、とふと僕は思った。宗太郎の優しさを疑う気はない。ただ不意に違和感を覚えただけだ。宗太郎は僕らが文句を言い出さないことを知っている。知っているから、そんな優しい言葉が出てくる。
「にぃちゃん、ダメ」
そこまで考えた時に、仁菜が僕の服の袖を引いてきた。
「やっぱりお風呂入りたい?」
僕はお風呂は好きではなく、仁菜が入りたがらなければ極力避けて、汗を濡れタオルで拭くくらいにしがちだった。汚いのは好きではないのだけれど、あの空間がどうにも苦手なのだ。
「ちがう、おふろはいい」
僕の問いに、彼女はふるふると首を大きく横に振った。そして僕の目をじっと覗き込み、もう一度繰り返す。
「ダメだよ、にぃちゃん」
その時、坑道から人の気配がした。状況だけに僕らは警戒したものの、現れたのは五年生二人だった。
いつもは庸介が先に入ってくるのだが、今日は涼乃の方がまず姿を現し、ついで荷物を持った庸介が続いてくる。それはまるで涼乃が庸介を従えている様子に見えた。彼女が手に持ったスーパーのビニール袋を下ろすと、中からは菓子パンやビスケット、缶
ジュースなどが転がり出てくる。
「トンネルは見つけたぞ。そっちは見つかんなかった?」
さっそく真哉が庸介に寄っていってそう尋ねる。それに庸介はいつもながら偉そうに、しかしそわそわした様子で答えた。
「そんなへまするかよ」
一方、涼乃のところには宗太郎が行く。
「どうでした?」
「明日には本格的な山狩りになるみたい。おばさんたちがそう噂してたわ。行くなら急がないと」
「でも夜に動くのはやっぱり危険だから……」
「そうね。本当はすぐにでも行った方がいいけど。明日、日が昇ったら出発ね」
宗太郎の言葉を遮るように彼女は返事し、手際よく荷物を小分けし始めた。その表情は妙に固い。
「なんだかスズさんって性格変わってないか」
涼乃から離れた宗太郎が僕にそう耳打ちしてきたので、僕も返す。
「やけになってるみたいだよね」
町への買い出しでも、今までなら彼女は言い出した庸介を諫めるような役回りだったはずだ。ところが今日はあっさりと彼に賛成して、反対を振り切って行ってしまったのだ。今も近寄りがたい雰囲気を発して、みんなの荷物をさっさとひとりで作ってしまっている。確かに手際はいいのだが、そっけなくて怖いのだ。千衣子が手伝おうと様子を窺いつつも、割り込めなくて困っていた。
「ぷっつんしたな」
いつの間にか後ろにやってきた庸介がぼそっと言う。そして僕らに顔を寄せてひそひそ話をした。
「ほらあいつ、優等生だろ。だからやるとなったら加減知らないんだよな。頭冷えるまでほうっとくしかないな」
「あんなに買ってお金は平気なの?」
「あー、まあ、貯めてたみたいだしなあ。とにかく今はそういう話しない方がいいぞ」
昨日、家に帰った時に持ってきたらしい。僕はそこまで頭が回らなかったので少し恥ずかしくなる。そうこうしているうちに、涼乃は荷物分けを終えてしまった。
山にも捜索が入っている可能性がある以上、火は目立つために使えないので、その日の夜も菓子パンや缶
ジュースでお腹を満たして、僕らは明日のために早寝をした。空に浮かぶ月は細く、明かりにするのは心細かったし、懐中電灯も下手に使えないため、後は寝るしかなかったということもある。昨日は冷たかったコンクリートの床は、今日は熱をもっていて寝苦しかった。それでも僕らは泥のように眠り込んでしまう。
僕は数度、窓の外で誰かが歩き回っているような音を聞いた気がしたが、起きた時には夢か本当か区別がつかなくなっていた。