8月21日(木) くもりときどき雨
あの記者がまたうろつきはじめている。町の様子もなんか変だ。
今日から涼乃が基地に来れるはずだ。
昨日は基地に行かなかったし、それで余計に宗太郎と庸介だけの基地に行くのは気詰まりになったが、彼女がいてくれれば良い方向に行くかもしれない。
ついでに少し大回りして、ゲームセンターを覗いていこうと僕は考えた。真哉がもしいたら連れていけるし、いなかったら基地に行ったという希望が持てる。
その判断のおかげで僕は首尾よく真哉を見つけることが出来たが、彼には余分なおまけもついていた。
あの出っ歯の記者だ。
「もう話すことないって何度も言っただろ!」
商店街の大通りで、真哉は彼に突っかかっていた。まだ店が開いていない通
りには人通りも少なく、僕は思わず道の端に隠れるようにして彼らに近づいた。
「いやいや、まだあるよね?」
記者は僕に背を向けていてその表情は見えないが、声と逆に目は笑っていないだろうと想像がつく。彼は真哉の手首をしっかり握って離さなかった。
「ねーよ!」
「嘘はいけないな。みんなに嫌われてしまうよ」
記者が囁くようにそう言うと、真哉はあからさまに動揺した。僕は彼のやり口に腹が立ち、急いで物陰から飛び出して二人の元に急いだ。真哉の泳いだ視線が僕を捉え、その顔がぱっと明るくなる。記者は背後から来る僕にはまだ気づかない。
「昨日のことだって……」
「シンくん、行こう」
記者がまた話し掛けようとした隙に、僕の手が真哉の腕を奪い取った。そのまま基地の方へ駆けようかと思ったが、下手に逃げると基地の場所を知られるかもしれないとの考えがよぎり、僕は一瞬躊躇する。途端、真哉の腕は掴み返された。
「ちょっと待った、待った。逃げることないだろう、話を聞きたいだけなんだから」
「シンくんも話すことはないって言ってるんです」
僕もまた立ち止まり、記者の顔を睨みつける。
素直の死から二週間以上が経ち、他の記者たちの姿はほとんど見えなくなっていた。元々僕のところまでやってきた記者はこの人だけだったし、どうにもしつこすぎて気味が悪い。だから、僕は逆に問いつめてみることにした。
「どうしてつきまとうんですか」
「どうしてって、これが仕事だからね」
「でも、他の記者の人たちはもういないです」
「あー、新聞さんとかは忙しいからねー。なかなか長期の取材って難しいんだよねー」
そういえばこの人は週刊誌の記者だった気がする。名刺はろくに目を通さないまま捨てたので、雑誌の名前もこの記者本人の名前も覚えていない。
「聞きたいことって何ですか」
彼は真哉の腕を離してくれそうになく、僕は逆にさっさと彼の用事を終わらせてしまうことにした。すると記者はいそいそとメモ帳を取り出す。
「ジュースおごるから、公園にでも移動しようか?」
「ここでいいです」
そんなにゆっくり話す気はないとの意味をこめて、僕はそう切り返す。記者はそれが通
じたのか通じてないのか、シャープペンシルの尻で頭を掻いた。この時点で真哉の腕は離されていたのだけれど、逃げてもまたつきまとわれるだけだと思い直して、僕はとりあえず話は続けることにする。真哉が不安げな顔で僕を見つめていた。
「あ、そう。じゃあまずマオウはだれ……」
「それはもう話しました」
結局そのことらしい。僕がはねつけると彼はたちまち渋い表情を作る。
「隠しごとは無しにしよう」
「なんにも隠してません」
「君の友達が死んだんだよ?」
「何度聞かれても答えは同じだし、モトくんのことをあれこれ言われるのはすごくいやなんです」
僕の中に昨日の体育館の光景が蘇ってきて、また目の前が真っ白になりそうになる。この町のほとんどの住人は素直がいなくなっても、何一つ変わることなく日々を過ごしている。それどころかこの記者などは素直がいた光景の一つすら知らないのだ。
僕は再び真哉の腕をとって踵を返した。
「シンくん、やっぱ行こう」
今度は記者は掴み返したりしなかった。それ以上に意外な行動に出たからである。
彼は僕らの背中に向かってこう呼びかけたのだ。
「君達を救おうと思ってるんじゃないか!」
彼が発したその言葉は僕らを呆気にとらせ、足を止めさせるには十分なものだった。真哉も同じ気持ちらしく、ぽかんと口を開いて記者を見返している。店が開いてぽつぽつと通
りがかった人が、そんな僕らを不審な目で見つめていた。そのためか記者は寄ってきて、僕らを裏道に引き込む。
「だから正直に話してくれないか。君達を脅しているマオウは彼なんだろう」
声を抑えて、再び彼はこう問いかけてきた。
「ヨースケさんじゃありません」
「彼は危険だ。知っているか、彼の父親とお兄さんは今、入院している。もちろん彼の仕業だよ。君達までそんな羽目にさせたくない」
僕と記者のやり取りを、真哉は目を見開いて聞いているようだった。それでようやく僕は、真哉があの逃亡から後に起こったことを知らないのではと思い当たる。真哉の顔色は記者が話すごとに赤みを増していくようだった。
「彼は君達を悪い仲間に引き込もうとしているんじゃないか? 一週間前、君達を連れていって、彼は何をするつもりだった? 怖がらなくていい、君達が言ったということは当然秘密にするし、内容によっては警察に一緒に……」
そこで、ついに真哉は爆発した。
「ヨースケはそんなんじゃない!」
ぱあん、という良い音と共に、記者のメモ帳が空を舞う。
「魔王は魔王だ、みんな死んじゃうんだぞ、死んじまえ!」
記者が反応できないうちに、今度は真哉が僕の手を引いて走り出した。路地を転げ出て、とにかく記者から遠ざかろうと別
の裏道へと走りこむ。もちろんこの辺りの地理は僕らの方がよく知っているので、あっさりまくことができるはずだ。しかし、三つほど角を曲がった時に、行く手にぬ
っと人影が立ちはだかった。
腕を組んだ彼は僕らにこう言う。
「バカだな、お前ら。てきとーに話合わせとけば良かったのによ」
その姿を認めた真哉の顔がたちまち明るくなった。
「ヨースケ!」
僕は真哉ほど単純に喜べない。庸介の言葉は彼が記者と僕らのやり取りを聞いていたことを意味している。
「いつから……?」
「あ? ああ、途中からだけど。ゲーセン開く時間に来てみりゃこれだよ」
彼の表情には怒りや苛立ちは読み取れない。かといって一番怖いあの無表情という訳でもなく、どこか遠くを見て考えているような様子だった。
しばらく庸介はその表情で黙っていたが、やがて「雨降りそうだな。良かったら道場、来いよ」とだけ僕らに言って、背を向けて歩き出した。それは有無をいわさないやり方だったので、僕と真哉は慌ててその後についていく。
三日前に来た時と同じように、道場の入り口には休業の紙が張ったままだ。真哉がそれを見てまた目を剥く。彼の問うような視線に肯定の頷きを返しながら、僕は靴を脱いで空手道場に上がりこんだ。古い畳の匂いがする。
「あ、降ってきた」
真哉の声に振り向くと、確かに外の土にひとつふたつ大きな雨粒が落ちてきているのが見えた。雨雲が通
り過ぎるまでここで待つのが良さそうだ。
ふと母屋の方に目をやった僕は縁側に女の人の姿を認めた。年頃からいって、庸介のお母さんだろう。頭を下げると、なぜか逃げるように家の中に引っ込んでしまい、その後一度も姿を見せることはなかった。
「稽古つけてやろうか」
「ほんと!」
庸介の提案に、真哉はあっさり乗る。真哉はいつの間にか庸介に尊敬に似た気持ちを抱いているようだった。一昨日ゲーセンで会った時の様子とは大違いだ。
「あんたはどうする?」
庸介は僕にもそう問うてきたので、僕は慌てて首を横に振る。じゃあ隅で見てな、と彼は言い、そして真哉に向き直った。
「まあいまさら型からやってもしかたないからな。とりあえず打ってきてみろよ」
庸介の言葉に従い、僕は隅の壁に寄りかかって二人のやり合いを見学することにした。頭の上にある窓では、幾つも水滴が線を引いて流れ落ち始めている。小さな水滴と大きな水滴がぶつかり、一つになって落ちていく。
やがて軽い応酬から始まって、次第に二人の打ち合いは激しくなっていった。主に真哉が殴りかかっていって、庸介が受け流している。傍で見ていると、真哉の動きにいかに無駄
が多いのかが僕でも良く分かった。真哉は素人だから仕方がない。逆に言えば、庸介についていけるだけでも偉いものだ。
だから、休憩の時に庸介がこう言ったのには同感だった。
「前から言ってるけどさ、お前、結構いいセンいけると思うよ。ちゃんと続けてみたらどうだ」
「でも、もうすぐ俺、弱くなっちゃうし……」
しかし、途端に真哉は元気をなくしてうつむいた。能力がない時の彼は威勢こそ良いが、突出して運動神経が優れている訳ではないのは、体育の時間などを見ていても分かる。
「そうかな、だってその感覚についていってる訳だろ。ダメってことはないと思うが」
真哉からは返事はない。
「どう思う、あんた」
すると急に庸介は僕に話を振ってきて、しどろもどろに答えざるをえなくなってしまった。
「いいと思うよ。シンくん部活入ってないんだし」
あまり良い返事ではなかったとは思うが、それでも真哉は僕の方をちらりと見た。その視線には軽い期待が混じっているように感じる。
「俺で良かったらこれからも教えるけどな」
続いて庸介が後押しして、真哉は完全に顔を上げた。その表情は呆れるほどに明るい。
「ほんと?」
「ただ、まともな指導じゃないことだけ承知しとけよ。ちゃんとやりたきゃどっか入った方がいい」
「いい、ヨースケでいい!」
「分かった分かった、その代わり先生と呼べよ」
そして、真哉は浮かれた様子でぴょんぴょん跳ね、おもむろに手を上げて宣言した。
「先生、トイレ!」
「行ってこい」
常人の倍くらいの距離を幅跳びしつつ、許可を得た彼が道場を出ていく。庸介は苦笑してその後ろ姿を見送った。
「あいつさ、口では大きいこと言う割に、てんで自信なかったりするのな、変な奴」
真哉はいつも不安なのだ。誰かに認めてもらうために大言壮語し、いざ認めてもらえるとそれがその人の気まぐれでないかと怯え出す。この頃の僕はそれにうすうすとしか気づいていなかったけれど、真哉が学校で言われているほど幸せな人間でないことを知っていた。
「ま、これであいつも基地来るんじゃねーの。夏休みを終わらせなきゃいけなくなったからな」
そして庸介もまた、あの記者が言うような人間でもない。噂のかなりの部分が本当だろうけど、それは庸介の一面に過ぎない。
僕の感謝の視線を感じたのか、彼は眉をひそめてこう付け加えてくる。
「言っとくが、俺は魔王なんてもんがやってくるとは思ってねーからな」
「え、だって」
「ずっと言ってんだろ、馬鹿馬鹿しいってな。あの予言とやらになんかつまんないオチがついてそれで終わりに決まってるさ」
彼は一貫してその姿勢を崩すつもりはなさそうだ。僕がそれに反論できなかったのは、次に彼の口からこぼれた小さな呟きのせいだった。
「魔王なんていないから、全部自分でやるしかないんだよ」
ふと目を床に落とした僕は、そこの畳に黒い染みを見つける。そして真哉が長いトイレから戻ってくるまで、そのまま顔を上げることが出来なかった。