夏の魔王

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8月5日(火) くもり

 モトくんの手紙をみんなで読んだ。

 坑道へと飛び込んで、僕は速い息を整えた。そっと外を窺ってみても人影はない。追いかけてくるまではしなかったらしい。横で仁菜も小さく息を弾ませている。
 少し強引だったかもしれない。力まで使ってしまった。メモやカメラバックをちょっと浮かせて落とし、気を散らさせただけだから、風にでも煽られたと思ってくれればいいのだけれど。
 ふと額の汗を拭おうとして、手に何か握り締めたまま走っていたことに気づき、僕は手のひらを開いてそれを確かめる。そこにあったのはぐしゃぐしゃになった紙片、あの記者に渡された名刺だった。見慣れない出版社の名前が刷られている。
「ちょっといいかな、話を聞かせてほしいんだけど」
 顔だけはにこやかに、その二人組は門の前で僕を待ち構えていた。
「常川素直くんの友達だよね?」
 僕はうつむいて返事をしなかった。
「彼から何か聞いてないかな、ほら、悩みとかね」
 事故にしてはどうも夜遅いしおかしい、それに電車の前に立ちはだかってまるで止めようとしてたみたいだって聞いてる、もし彼が自分から死んだのなら、その意志をちゃんと残された人たちが見つけ出してあげるのが彼のためだろう、メモ帳を片手に持った少し歯の出た方がそんなようなことをひたすら僕に語りかけてきたが、目も合わさなかった。仁菜も何も言わずに僕の後ろに佇むだけだ。
 そして、気がついたら僕は進路を塞ぐように立っていたその二人を力であしらい、仁菜の手を引いて走り出していた。この坑道に着くまでの間、まるで悪いことをして逃げているみたいでなんだかひどく腹が立って悔しかった。
 僕はしわだらけの名刺をまた握りつぶし、空へと思い切り放った。そしてどこまでも行ってしまえと念じる。たちまちその紙くずは雲の白さに溶けて見えなくなった。二度と落ちてこなければいい。
「にぃちゃん、行こう」
 空を睨みつけている僕の手を仁菜がそっと握ってくる。僕は彼女の手を握り返し、坑道へと戻った。
 本部に入った途端、泣き声が耳に届いた。千衣子だった。彼女が顔を覆って泣きじゃくるその横で、宗太郎が唇を引き結んで床を見つめていた。彼は僕が窓枠を越えると、疲れた顔をこちらに向けた。
「ああ、ヒロキ、平気か?」
 僕は頷き、彼から二歩ほど離れた場所に座る。
「チイちゃん、どうしたの?」
 後で考えればどうしたなんて聞くところじゃないように思えるが、その時の僕は何だか泣いている千衣子が不思議に見えた。
「記者に待ち伏せされた」
「……モトくんのことで?」
「やっぱりヒロキんとこにもきたか」
 同じ記者かどうかは分からないが、彼らは素直の交友関係をどこかから聞き出したらしい。下手をすると、昨日家に行ったところを見られたのかもしれない。
「モトが都会の中学受けるように親から言われててそのプレッシャーじゃないかとか、よけいなことをいっぱい聞いた」
 その話は僕にも初耳だった。それが顔に出たのか、宗太郎は手をひらひらと振る。
「ヒロキも知らなかったか。誰にも言わなかったんだろうな、あいつ」
 彼が受かれば、当然この町の中学に通うことになるだろう僕らとはお別れになる。まだ先のこととはいえ、わざわざ言い出す気にはならなかったのだろう。
「で、まあ、なんかそれで……本当だったんだな、と思えてきちゃった訳さ」
 宗太郎の語調はあくまで軽く、道を歩いたらふと十円玉が落ちているのに気づいたというような感じだった。そして、その十円玉 を飲んで喉にひっかけてしまったような気持ちに僕はなった。そうだ、本当だったのだ。素直はもうここに姿を表すことはない。
 変な気分だった。千衣子みたいに涙が溢れてくることもなかった。昨日と同じように、この世界は間違っている、とぼんやり僕は考えた。そして口からは別 の言葉が零れ出てきた。
「でも、あの人たち何がしたいんだろう」
 僕らを追いかけて悲しみのコメントをとりたいにしてはどこか妙だ。まさか魔王のことを知っているはずもない。宗太郎はその理由を予想していた。
「遺書が見つかってないんだ。だからあいつら自殺にできなくて困ってる」
「事故……じゃダメなの?」
 ようやく泣きやみかけた千衣子がしゃくり上げながら尋ねる。宗太郎は彼女の頭を優しく撫でながら、憎憎しげに町の方を睨みつけた。
「自殺の方が面白いのさ、奴らにとっては」
 そして、僕は宗太郎の言った遺書という言葉で思い当たるものを持っている。
「これ……」
 僕は背中のリュックを下ろし、中にしまってあった封筒を宗太郎に差し出した。宗太郎はそれを一瞥して目を丸くし、受け取ろうと手を伸ばしたが寸前で止めた。
「どうした?」
「家のポストに入ってた。昨日の夜に見つけた」
「そっか」
 素直の死んだ場所と僕の家の位置関係を考えれば、消印がなくても直接投函したものだと容易に判断がついただろう。
「読んだのか?」
「最初だけ読んで……持ってきた」
 とても一人で、夜に自分のあの部屋で読み切る勇気がなかったのだ。宗太郎は頷き、ここでようやく僕から手紙を受け取った。千衣子も泣きやみ、大きな濡れた目で手紙をじっと見つめていた。
 その時、不意に坑道の方から騒がしい音が響いてくる。僕らはあの記者たちがここをつきとめてやってきたのかと緊張して腰を浮かせる。しかしそこから出てきたのは、いつもの見知った顔だった。
 庸介と、彼に引きずられるようにしてやってきた真哉だ。彼の口は庸介の骨ばった手でがっちりとふさがれている。さっきからの騒ぎは真哉がもがいて暴れていたせいらしい。
 宗太郎が目線で庸介にどうした、と問いかけると、庸介は押さえつけたまま肩をすくめてみせた。
「こいつがよ」
 途端に、真哉は庸介の腕からするりと抜け出して、僕らに向けてこう怒鳴ってきた。
「あの人たちに言おうぜ、モトは魔王に殺されたんだって!」
「こんなこと言い出すからひっつかまえてきたんだよ」
「だって本当のことだろ!」
「本当だろうがなんだろうがなあ……」
 真哉もまた素直の死を実感して必要以上に興奮しているのだろう。千衣子がふっと立ち上がり、彼の側へと寄っていった。目が赤いので泣いていたことはすぐ分かるらしく、真哉は彼女を見て少し怯んだようだ。
「な、なんだよ、チーコ」
「シンちゃん、座って」
「なんでだよ」
「座って」
 千衣子は有無を言わせなかった。真哉はたちまち黙り、宗太郎の横へ戻った彼女の隣に釈然としない顔をして座り込む。続いてやれやれといった感じで座った庸介に宗太郎が尋ねた。
「スズさんは?」
「ああ、もう来るだろ」
 タイミングよく、坑道から涼乃が飛び出してくる。そして庸介に話し掛けつつ、着席した。
「ついてこなかったみたい。山の下辺りでもう見かけなかった」
 記者たちは追ってくるほどしつこくはないようだ。僕らにはとりあえず声をかけただけだったのだろう。彼らにこの基地は絶対に発見されたくない。
「これでみんな揃ったな」
 涼乃、庸介、真哉、千衣子、宗太郎、僕、仁菜の順で僕らは並んでいる。そうなってからやっと、無意識に僕は宗太郎と間を空けて座っていたことに気づき、また妙な気持ちになった。どうも納まりが悪い。もぞもぞと座りなおし、宗太郎の方へ顔を向けた。
「さっき、ヒロキからこれをもらった」
 宗太郎はみんなの中央辺りにそっと手紙を置く。誰もがそれに注目して息を呑んだ。
「モトの最後の言葉だと思う」
「何が……書いてあったんだよ?」
 真哉が身を乗り出し、今にも開けそうな勢いで宛名の文字を確かめている。
「まだ誰も見てないんだ。今からみんなで見ようと思うけど」
 賛成か反対かを聞く必要はまったくなさそうだった。みんなが宗太郎の手元に注目している。
 僕は冒頭だけは読んでいたので、逆に目を背けたくなった。素直の手紙はこんな風にはじまる。

 この手紙を書くかどうかはずっと迷っていました。でも出すにしろ出さないにしろ書いておくことにします。外は今日も雨です。本当は昨日、直接みんなと会って話すつもりだったけど、やっぱり口では言えない気がします。だから、文にしてまとめておこうと思います。
 これを見た人は他の人に伝えるかどうか決めてください。ぼくはそうしたほうがいいのか悪いのか分かりません。
 こわいからです。魔王が本当にこわいからです。

 最初から一枚ずつ、宗太郎は読んで回していく。真哉と千衣子の手に渡り、次に涼乃と庸介、そして僕と仁菜が最後だ。

 何度もみんなに話そうと思ったけど、どう言っても分かってもらえない気がしました。うまく話せそうにないのです。
 魔王はあの日以来、町のいたるところにいます。黒いもやもやはだんだん広がってきています。どこから出てくるのかは分かりません。地面 からのような気がします。アスファルトからも出てきてます。出てきてもやもやとたまってます。夏休みの最初の方は電信柱の下なんかにもやもやしているだけでした。でもどんどんはっきりしてきてます。あの時千衣子のまわりにいたのと同じやつです。あれが濃くなってきてます。魔王の力です。
 今、窓の外を見ると雨にあたって流されもせずもやもやしているのです。真っ黒です。ひどくなってきている気がします。あれはこわいものです。あれに町がのみこまれた時、たぶんみんな死にます。ぼくはどうすればいいのか分かりません。魔王がどこにいるかなんてこんな真っ黒じゃ見えないのです。今も、窓のところに黒いもやが跳ねた気がする。こわい。さがすのもむりだ。雨がひどい。この雨であのもやはよけい強くなったみたいにみえる。きっとこの台風も魔王のやったことだ。奴はぼくたちを探している。そんな気配がする。あいつがなんで今までぼくたちを攻げきしてこなかったかわかった。あいつはぼくたちを見つけてないんだ。だから町全部を一緒にこわそうとしてるんだ。見つかったら殺される。逃げた方がいい。やっぱり戻らなければよかった。なんとかなるんじゃないかって思ったぼくがばかだった。外にいけばあれはなかったのに。雨がやんできた。見えるところの地面 すべてが黒くなってきている。魔王は町をおおいつくそうとしている。こんなの倒せない。もうだいぶ真っ黒だ。はやい。道路の止まれの文字なんてまったく見えない。それに誰も気づかない。歩くたびにくつのうらにその黒いのがついてねちゃっとのびているのに気づかない。いやだ。やっぱり家から出たくない。あれにつかまる。でも逃げないとあれはどんどんやってくる。たまにあれは盛り上がってジャンプするみたいに吹き上がっている。出たら飲みこまれるかもしれない。なんでぼくにしか見えないんだろう。みんなに見えれば分かってもらえるのに。この町にいちゃいけない。夏休みが終わる頃には全部真っ黒だ。
 ぼくたちにあんなのが倒せるわけがない。逃げろ。逃げるしかない。早くしないと手おくれになる。もうおそいかもしれない。ぼくは先に行く。これをよんだら早くにげろ。

 最後の方は殴り書きだった。
 読む間誰も喋らず、息をする音さえ立てないように気を使っているようにも思えた。読み終わってもしばらく身動きすらするのもためらわれた。外で木が鳴ってガサガサいった途端、千衣子が床から飛び上がって宗太郎にしがみつく。
 素直は台風のあのすごい大風の中、自分の部屋でひとりこんなものと向かい合っていたのだ。
 今、窓の外を見ると町から黒いもやが湧き上がってきて襲ってきそうな気がする。僕らはひたすら円の中央に置かれている封筒を見て押し黙っていた。
 素直は魔王に追い詰められた。僕と仁菜しか本当の意味が分からないだろう部分、戻らなければよかったと後悔している素直の告白が僕の頭の中でぐるぐる回っていた。
 あの時、素直は逃げようとしていたのだ。そのことに僕が気づいていれば、それよりも僕が一緒にいかなければ素直は海までたどりつけたのかもしれないのに。
 魔王に殺されなかったのに。
「魔王って……どんな奴なんだよ……」
 真哉が呆然と呟いた。魔王は都合の良い存在のはずだった。僕らに倒されるべき悪役。話を盛り上げてくれる演出者。こんな展開は誰も望んでいない。そんな魔王は誰も望んでいない。
 僕らは誰もが千衣子の予言を思い浮かべていたに違いなかった。
 夏休みが終わるまでに魔王を倒さなければ、みんな殺される。
 それはもう物語の道具立てでも曖昧などうともとれる言葉遊びでもない。パン屋の食中毒と同じように、絶対に起こる現実の出来事なのだ。
「魔王の話は今日はなしだ」
 その不吉な連想を断ち切るように、しゃがれた声で宗太郎は言い切った。
「今日は暗くなる前に帰ろう」
 異論はなかった。暗い町を歩く気にはなれない。路地にたまった暗闇から現れ出た黒いもやがいつ僕らを線路に追い立てるのか分からないのだから。
 そそくさと僕らは帰り支度をはじめた。宗太郎が便せんをまとめて折り、封筒に入れる。
「なあ、それ、俺が持って帰ってもいいかな……もう一度ちゃんと読みたいし」
 その時、宗太郎の顔を見て、真哉がおずおずとそんなことを言い出した。宗太郎は手紙を僕に返しながら、困ったように眉を寄せる。
「それはやっぱりヒロキにモトが出したものだから、ヒロキがいいって言わないと」
 真哉の真剣な視線が僕へ向けられる。僕は構わなかった。正直、その手紙を持っているのが重かったこともある。
「いいよ」
 僕は真哉に手紙を渡した。真哉はうやうやしく受け取り、自分のズボンのポケットに差し込む。
「そういえばお通夜とお葬式はどうするの?」
 そして、すっかり帰るだけになった時になんとなく避けていた話題をずばりと突いてきたのは涼乃だった。それについては明らかに僕らの間には気乗りしない空気があった。昨日のこともあったし、記者たちがうろついている可能性が高いこともあった。
「うん、やっぱり行った方がいいよね……」
 けれど行かないのも何だか嫌だ。素直に悪いような、彼を仲間外れにしている気になる。僕はそう呟き、みんなも行こうかという雰囲気になる。
 それをはっきりと否定したのは庸介だった。
「あんなとこ行くことねーだろ」
「ちょっとヨウスケ、そこまでは私達が口出しすることじゃ……」
 涼乃が慌てて止めるが、庸介は腕組みしたまま言葉を続けた。
「あいつのことはよく知らねーけど、あんな家よりお前らと一緒にいた方が楽しかったんじゃねーの? じゃあそんなとこに行くことねーよ。行ったって気は晴れねーよ」
 その庸介の言葉はもっともに聞こえた。僕はたぶんお経をあげようが、線香をあげようが、花を供えようが、そして素直の死に顔を見ようが納得できないだろう。
「ここで、俺らで葬式をやろうか」
 ふっと思いついたように顔を上げてなされた宗太郎のその提案に、みんなからすぐに返事は戻ってこなかった。

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