夏の魔王

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8月18日(月) 晴

 スズノさんの家を訪ねてみることにする。
 剣道場だということは知っていたけど、とても大きな家できんちょうした。

 庸介に相談してみると、戻ってきたのはこんな答えだった。
「別に追い払われることはねーけどな」
 その言い方に含むところを感じなくはないけれど、行ってみなければ分からない。僕と宗太郎は作戦を立て、涼乃を無理やり付き合わせたことを謝る、という口実で様子を見ることに決めた。これなら一応話を聞いてもらえるだろう。
 中学校の近くに二つの道場は並んでいる。昼前なのでまだ稽古はないのか、両方とも人の気配はなく静まり返っていた。
 庸介の家の前を通ると、宗太郎が僕の肩をつついてその扉を指す。そこには、しばらく稽古を休む旨を記した張り紙がひらめいていた。
「ちょっとやりすぎだよなあ……」
 宗太郎は嘆息するが、本人の前ではそれは言えないだろう。庸介の反撃が良いことなのか悪いことなのか僕は分からなかった。庸介の気が晴れるなら構わないとも思う。けれど昨日の様子を思い出すと、僕の気は重くなるのだ。
 僕らは塀に沿って歩き、住居の扉へと回った。門柱には表札とチャイムが備え付けられていた。宗太郎が押すと、扉の向こうから答える高い声がする。ガラガラと引き戸が開き、紺の着物を纏った背の高い女の人が現れた。
「どちらさま?」
 それが涼乃の母親だというのは、交番で見覚えがあったので確定できる。
「あの、すみません、あやまろうと思って」
 すかさず宗太郎がぺこりとお辞儀をし、僕も習う。顔を上げると、彼女は眉をひそめて僕らの顔を見つめてきた。
「一体何のお話?」
「あの、スズノさんの……」
 向こうはこちらの顔を覚えていなかったようだ。そう言った途端、面白いくらいに顔色が変わった。
「ああ、貴方達、そう、そうね、どうぞあがってらして」
 僕らは返事を待たれないまま、玄関の中へ連れ込まれる。背後でぴしゃりと扉が閉まった。仕方なく僕らは涼乃の母親の後についていく。
「今、お茶とお菓子をお出ししますからね」
 彼女はそう言って去り、残された僕と宗太郎は目線でどうしようかと話し合う。きちんと居間まで通 されるとは思わなかった。ちり一つない畳敷きの日本間はどうにも居心地が悪い。
 沈黙は乱暴に引き開けられた襖の音で破られた。
「へぇー、これがお姉ちゃんの例のお友達?」
 そこに現れたのは僕らと同じくらいの年恰好をした少女だった。見覚えがないので少なくとも同学年ではなく、たぶん一つ下の三年生だろう。彼女は不躾にじろじろ僕らを観察してきたかと思うと、入ってきて僕らの向かいに座った。
「ヨウスケといい、お姉ちゃんモッテモテー!」
 そしてけたけたと笑う。僕と宗太郎は呆気にとられてその様子を見ていた。面 影はあるが、あまりにも涼乃とは雰囲気が違いすぎる。
「スズさんの妹?」
「そんなの見りゃ分かるでしょー、あんたアホ?」
 僕への確認だったかもしれない宗太郎の質問を一蹴した彼女は、組まずに伸ばした足で僕の膝をつついてきた。
「ねえねえねえ、あのカッチカチのさー、愛の逃避行の相手ってやっぱヨウスケ? それともあんた?」
 もはやついていけないと判断したのか、宗太郎ですら不機嫌な顔で黙り込んでしまった。そこへちょうど母親がお盆を持って戻ってくる。
「あら、ゆうちゃん、どうしたの?」
「ちょっとお話してたの」
「そう、良かったわね」
 母親と入れ替わりに、涼乃の妹は足取り軽く出て行った。母親は僕らの前に麦茶を置きつつ、にこにこと話しかけてくる。
「ごめんなさいね、好奇心旺盛な年頃で」
 今の彼女からは、交番で涼乃を叱りつけていた時の面影は汲み取れない。
「で、お話は何でしたっけ?」
「あの、僕達が強引にスズノさんを仲間に入れたことを謝ろうと……」
「ああ、そのこと」
 彼女は柔らかい笑顔で、僕らの言い分をあっさりしりぞける。
「涼乃は一番年上なんですから、貴方達を止めなきゃいけなかったんですからね。貴方達が謝る必要はありませんよ」
「いえ、でも」
「貴方達は若いんですもの、羽目を外したくなるのはよく分かります」
 僕らに口を挟む隙は与えられない。ここで涼乃の母親はいいことを思いついたようにぽんと手を叩く。
「そうだ、うちに入門して、発散してみたらどうかしら。きっと楽しいわよ」
「ピアノやってるので、武道はちょっと」
 宗太郎はそう言って断るが、彼のピアノは嗜みみたいなもので、プロになるとかコンクールに出るとかそういう気はまったくないからこれは口実に過ぎない。
「あらそうなの。ピアノをやっている男の子もいれば、女のくせに武道をやっている子もいるのね、面 白いわ」
 くすくすと彼女は笑う。
「誰か殴ってやりたい相手でもいるのかしら、怖い怖い」
 ここまでのやり取りで僕と宗太郎はすっかりやりこめられていた。これはねばっても無駄 で、のらくらと嫌味を交えつつかわされてしまうだけだ。
 そこで宗太郎はずばりと切り込むことにしたらしかった。
「スズノさんに会わせてもらえませんか?」
「いけませんよ。謹慎中ですから」
「いつまで謹慎中なんですか?」
「反省するまでですよ」
 物腰柔らかながらあっさりと受け流される。事実上、会わせる気はないと言われたようなものだ。これ以上は強く言えない。
 仕方なく僕らはお礼を述べて、涼乃宅を後にした。
「とりつくしまがないってのは、ああいうのを言うんだな」
 宗太郎のぼやきに、僕は苦笑して頷く。うまくいくとは思っていなかったが、鼻であしらわれるとも思わなかった。今なら庸介の言っていたことがよく分かる。
 来た道をさかのぼり、僕らは塀沿いに歩いていく。角を曲がった時、僕はふと人の気配を感じて家の方を振り仰いだ。すると、確かに窓のところで人影が動いた。
 続けて、カポン、と間の抜けた音が足元でする。しかし目をこらしてもそこには何もない。宗太郎はそろそろと手を地面 に伸ばし、見えないそれをなんとか探り当てる。
「スズさん?」
 僕らの推測は当たりだった。
(やってられないわ)
 なんだかやさぐれた返事が、宗太郎の何かを掴んだ手のひらの中からくぐもって聞こえてきた。
(ごめんなさい、わざわざ来てくれて。嫌な思いしたでしょう?)
「スズさんこそ平気?」
(だいじょうぶ、あの人たちね、しあさってから夏休みいっぱい旅行に行くのよ)
 それは朗報だった。
 しかしそれはまた、あまり良くないことを示してもいた。
「もしかして、俺たちのせいで旅行に行けなくなっちゃった?」
 眉をひそめて喋る宗太郎に、涼乃は明るい声で答える。
(ああ、私は最初から数に入ってないから)
「え?」
(じゃあしあさってに)
 ふっと宗太郎の手から見えない紙コップが消えうせたのが分かった。

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