8月25日（月） 晴ときどきくもり
ぼくはニナを守ろう。そう決めた。
朝早く、僕は一人で基地へ向かった。一昨日の晩から寝ようとしても寝付けず、うとうとしては目が覚めるのを繰り返し、ひどく長い夜を過ごした後だったから、太陽の光は目に痛かったが、気持ちよくもあった。
「ニナもいく」
駆け出した僕を追いかけ、仁菜が玄関から転がり出てきた。僕の心に一瞬、彼女を置いてこのまま走ってしまおうかとの思いがよぎる。けれどそれは出来ずに、僕は彼女と手を繋いで歩き出した。
正直なところ、考えることが多すぎて仁菜の相手まではしていられない。一昨日からいくら考えても魔王をどう捉えて良いか分からず、思考は堂々巡りで、家にいると息が詰まりそうだった。だから、誰もいない基地へ行くのだ。今日は誰にも会いたくない。
一体僕らはどこからおかしくなったのだろう。宗太郎の言うことを信じ、従うべきだろうか。魔王は何を狙い、僕らをどうしようとしているのだろうか。
僕には答えがない。ただ一つ分かっていることは魔王を倒さなければいけないということだけで、そのために何をすればいいのかも分からない。
「にぃちゃん、いたい」
いつの間にか足早に歩いていたらしい。仁菜の声で僕は我に返り、立ち止まる。すでに山に入っており、梢を飛び回る鳥の声が耳につく以外は静かだった。警戒のために大回りして基地につくまでの間も人の気配はない。
坑道の暗闇を渡り、ライトへとたどり着く。僕は手探りでスイッチを入れ、壁にもたれて座り込んだ。ここの空気は冷たくて気持ちいい。外の世界を遠く感じる。
魔王との戦いはこの秘密基地から始まった。千衣子の予言が僕らにその存在を告げた。僕らを夏の終わりに殺すと言い、町は黒いもやに包まれはじめた。素直が逃げ出そうとして殺され、僕らは逃げ出すことができない。あと七日で夏休みは終わる。
宗太郎は魔王が僕らを必要としていると言ったけれど、なんだかそれは僕にとっては現実味のない言葉だった。
一昨日それを聞いた時のおさまりの悪い気持ちが再び襲ってきて、僕はごまかすようにもぞもぞと動いて姿勢を直す。すると地面
に下ろした僕の手に何か固いものが触れた。青いビニールシートの下から、本の角らしきものが突き出していたのだ。最初は庸介と素直が持ち込んで隠した雑誌かと思ったが、綴じ代のリングが目にとまって違うと分かる。
僕はシートに手を突っ込み、それを引き出した。思った通り、それは千衣子のスケッチブックだった。本部から荷物を運び込む時に紛れてしまったのだろうか。
それはまるで啓示のようにも思え、手に取ってめくってみる。最初のページは、黒いボールペンの細い線が縦横無尽に、千衣子の丸みを帯びた文字を塗りつぶしていた。最初の予言、魔王の予告の言葉だ。続けて「さがせ」の三文字を頂点とした三角形が描かれたページ。はい、いいえのところだけを丸で囲まれたページ。そして、前のページの裏側に描かれた地図。
ふと僕の手が止まった。この予言に従って僕らは逃げ出したのだから、これ以降は千衣子の下書きしかないはずだ。けれど紙を透かして黒い線がたくさんが見える。僕は次のページをめくった。
はたしてそこには最初のページのような暗雲が広がっていた。細かく震えた線は入り混じってたどることが出来ず、一体何がここに示唆されたのかは分からなかった。次のページもまたすでに使われていた。やはりぐしゃぐしゃに線は引かれていたが、何重にも囲まれた一際目立つ四角があって、僕はそれをたどって読んでみる。
「な、に……げ……る」
逃げるな。
僕はさらにページをめくった。下から現れてくるページはすべて同じように真っ黒になっていた。もう間違いはなかった。逃亡の後にもこのスケッチブックは使われたのだ。そして千衣子が一人で予言を行うはずがない。
最後までめくり終わって、僕は天井を見上げる。全てのページが塗りつぶされていた。そこから告げられた言葉を読み取ることはできない。ただ一つ分かったことは、宗太郎のあの自信はどこから来たのかということだ。間違わない千衣子の予言。
けれど、と僕は思う。この予言はいつもの物ではなく、明らかに暴走している。黒いもやに操られて出てくる予言、それは真実を語っているだろうか。
「魔王って何だろう」
結局僕はこの問いに答えを見つけられない。洩らしたその言葉は独り言に過ぎなかった。だから、返事がやってきてひどく驚いた。
「ニナは知ってる」
仁菜は僕のひじを掴み、背伸びをして囁く。
「まおうはニナをつれていくんだよ。そこへいっちゃうともうかえれないの」
彼女は真剣で、こんな訴えが彼女の口から出ると思っていなかった僕は、戸惑いながらその顔を見つめるだけだ。彼女は怯えている、僕と同じものに。
「連れてなんかいかせないよ」
自然にその言葉は僕の口から転がり出た。
僕にとって仁菜はとても大事なのだから、仁菜がいなくては僕もここにいることは出来ないのだから。僕は魔王から仁菜を守る。それだけの理由でいい、分からないことを考え続けるのは止めよう。
仁菜の存在だけを確かなものと思えばいい。