8月7日(木) くもり
ぼくらの望んでない方向へこの世界は動いている。シンくんは悪くない。
僕がそれを見つけたのは偶然だった。
母が珍しく朝から出かけていて、居間がからっぽだったせいだ。なにげなくそこを通
って台所に行こうとした僕は、机の上に適当に放り出された新聞に目を止めた。そこまで大きな記事ではなかった。けれども見出しに使われたその単語は僕の目を惹きつけるに充分なものだったのだ。僕は新聞を取り上げて記事を読みふける。三度読み直してようやくこれが自分の見間違いでないことを確信した。そして、そのページをひっ掴み家を飛び出す。基地ではなく、宗太郎の家が目的地だった。
彼の家は茶壁のマンションの一階だ。ピアノ教室のプレートがかかっている扉の前に立つと、ピアノの音が途切れ途切れに聞こえ、チャイムを鳴らすとそれが止む。
「はい……」
「あの、ソウタロウくんいますか?」
「ごめんなさいね、今は練習中なんだけど。あと一時間くらいはかかるわ」
インターホンの向こうの女性の声は少し固くなったように思えた。僕は慌てて言葉を継ぐ。
「あ、じゃあいいです。後にします」
無理に出してもらうことはできなかった。これを見せたら宗太郎はピアノの練習どころではなくなるだろうし、できることなら僕も知りたくないような話だったからだ。
こうなったら基地で誰かくるのを待とうと、僕は山への道を行く。足取りは重く、道は遠かった。太陽はほとんど雲に隠されていて、どこか空気は湿っている。夕方頃には一雨きそうだった。
「おい」
ふと後ろでそんな声がした。僕は自分が呼ばれているとは思わなかったので、気にせず歩を進める。するとすぐ後ろでまた声がした。
「おい、ヒロキだろ」
庸介だった。
「何変な顔してんだよ。ここ、俺んち」
そういえばそこは空手道場の前だった。隣には涼乃の剣道場も並んでいる。道を気にせず歩いていたので気がつかなかった。
僕が突然の庸介の出現に彼に話をしようかどうか迷っているうちに、彼は僕の手に握られた新聞にちらりと目を落とし、大きく舌打ちをする。
「やりやがったか」
その険しい顔に僕は怯んでいたが、庸介は構わず僕の手をひっ掴んだ。
「おい、ちょっと来い」
拒否する暇は与えられなかった。引きずられるようにして連れて行かれた先はたばこ屋だった。まさかたばこに付き合わされるんじゃないだろうかと萎縮した僕を気にせず、彼は手馴れた様子でポケットから幾つか硬貨を出すと、店番のおじいさんに差し出して横に差してあるけばけばしい色の新聞を二つほど取った。そして一つを僕に押し付ける。
「確かめな」
乱暴にばさばさとめくっている彼を後目に、見慣れない新聞を僕は恐る恐る開いた。するといきなり下着ひとつの女の人の大きな写
真が飛び込んできて、慌てて閉じる。僕がそんなことをしている間に、庸介はお目当てのものを見つけたらしい。
「ほれ、そっち貸しな」
僕のものと彼のものをあっという間に交換する。僕の手の中には派手な文字が躍る白黒のページがあった。読むまでもなく庸介が見せたかったものが何なのかすぐ分かった。それは僕の持っている普通
の新聞より詳しく、そして毒々しく彩られた記事だった。その後、いつでも鮮明に思い出せたぐらいだ。
見出しはこうだった。
『魔王に殺された!小学生死の叫び!』
「俺としたことが、詰めが甘かったな」
庸介はそう呟くと、もう一つの方も僕に押し付け、手に握らせる。見なくとも似たような内容なのだろう。
「ソウタロの奴、連れ出してこい。あっちの方は俺が連れてきてやるから」
そして、山を親指で指しながら、彼は僕にそう指示してきた。僕は頷き、宗太郎の家へと駆け戻った。
走ったせいで胸が苦しかった。
僕は宗太郎が本気で人を殴るところを初めて見た。やられた方の真哉は床に尻餅をついて呻いている。入ってすぐのことだったので、庸介も僕も止められなかった。
「お前、何やったのか分かってんのか!」
「だって、俺らだけじゃどうにもなんねーよ! 味方が増えるかもしれないって思ったんだ!」
僕は秘密にしていた千衣子の予言を思い返す。
魔王と戦う際にメンバー以外の子供が助けてくれますか?
いいえ。
魔王と戦う際に誰か大人が俺たちを助けてくれますか?
いいえ。
真哉は知らなかったのだ、僕ら以外に魔王と戦う人間はいないと。
「いいか、お前がやったのは、モトナオを侮辱するネタを奴らに与えただけじゃないんだぞ」
宗太郎は真哉の叫びに一瞬ためらった様子を見せたが、再び眉をつり上げて真哉に言葉を叩きつけた。
「モトの手紙には、チイの名前が書かれてるんだ! 魔王はチイを見つけるぞ!」
これには真哉も反論の言葉をなくしたらしい。そこまで考えていなかったはずだからだ。素直のことも千衣子のことも。
彼は本当に助けを求めただけだったのだろう。
真哉はうずくまって頭を抱え、すすり泣きをはじめた。そうなってようやく宗太郎も困惑した顔になり、拳を収める。僕は何も言えなかった。しばらくはばつの悪い沈黙に真哉のしゃくりあげる音だけが響いていた。この状況を変えてくれたのは、腕組みをして壁にもたれていた庸介だった。
「とにかくこれからどうするか決めようや、な、ソウタロ」
彼はなだめるように言い、真哉の横に立つ。
「お前もいい加減泣くの止めとけ。だから昨日言っただろ、あいつら頼ってもムダだってよ」
そして、真哉の襟首を掴んで持ち上げ、その頬をひとつはたいた。やたらといい音が本部に響く。
「泣いてたってちゃらにゃならないんだから、エネルギーのムダだ」
今度は反対側の頬がはたかれる。また同じ音がした。庸介の顔はさっきの宗太郎とは違い、まったくの無表情だ。僕はやはりさっきと同じで止めに入ることはできず、怒っていたはずの宗太郎も毒気を抜かれたような顔をしている。真哉は驚いて涙も引っ込んでしまったようで、両頬を真っ赤にして潤んだ目を丸くしていた。
また庸介の手が振り上げられた。
「そこまで」
その時、あっさりと彼の手を掴んで止めたのは、いつの間にか現れた涼乃だった。
「ヨウスケ、違うんでしょ、それは」
囁くように涼乃は言い、少しの間の後、庸介はすとんと真哉を下ろす。まだ呆然としている真哉に宗太郎が近寄っていって、いきなり殴ったことを詫びていた。庸介は殴った方の手を二、三度開いたり握ったりして見つめると、涼乃に向き直る。
「いたか?」
「いたわ、記者らしいのがうろうろしてた」
涼乃は千衣子の家を見てきたそうで、みんなにその報告をした。さっそく記者たちは千衣子を突き止めたらしい。
「お父さんらしき人が水と塩撒きちらしてたわ。あそこに訪ねていくのはちょっと無理ね」
新聞沙汰になりそうなうえに、その原因が男と遊んでいたということになれば、彼の怒りは想像して余りある。前の時の比ではないだろう。
「たぶんチイちゃん、家から出してもらえないね」
「そりゃ逆に安全ってことじゃねーか?」
いつの間にかまた壁にもたれていた庸介が茶々を入れてきた。確かに言われてみればそうともいえなくもない。
「でも一人で閉じ込められてたら不安になっているはずよ」
涼乃の言い分ももっともだった。もし僕だったとしたら事情を知っていても知らなくてもどっちでもたまらない。
「チイは俺がピアノの時に連絡とれるからそれでなんとかしよう。ちょうど明日だし」
宗太郎は少し調子を戻してきたらしい。いつものように仕切り始めた。
「俺たちはあの記者をなんとか追っ払う方法見つけようぜ。シンヤ、手伝ってくれるよな」
泣き止んだものの輪から外れて下を向いていた真哉は、その言葉に小さく頷いた。