8月14日(木) 晴
熱が出たみたいで、動けなかった。きのう決心したばかりなのに情けないと思う。何度も魔王の夢を見た。もしかしたら夢じゃなかったのかもしれないけど。
その日の朝、僕は目が覚めているのに体がほとんど動かないことに気づいた。全身が重い。むりやり起き上がろうと手をベッドについて上半身を持ち上げたが、半ばまで来たところで急にひじから力が抜けて、枕に頭を沈めることになった。耳の横がガンガンと鳴っている。動いたせいか、天井が水に映った景色のように揺れて見えた。
そして、なぜか天井は透けている。上から誰かが僕を覗き込んでいる。強い敵意が降ってきて、僕の全身を刺した。僕はやっぱり動けず、ただ目を見開いていた。
恐ろしいものがそこにはいた。確かに造型は人間の顔をしている。けれど憎憎しげに吊り上げられた目や口は血走り、膨らみ、もはやそれが人間でないことを示している。
僕が起き上がれないのはそれの見えない手が体を押さえつけているからだ。ぐい、と僕の首に一層力がかかった。
途端に僕の口から無数の水玉が溢れ出た。それは天井へと昇っていき、天井を揺らし、揺れた天井はそこに映る顔をぐにゃりと歪ませた。
よく見えない。それは僕が目を閉じているからだ。
そして僕はまた目を開いた。
全身が汗でぐっしょり濡れている。さっきよりは体の重さが取れた気がした。試しに立ち上がってみると、よろよろとしながらもなんとか床に降りることができる。下着とパジャマを着替え、からからに乾いた喉を潤しに僕は一階に降りた。
居間からは変わらずテレビの音がする。昼のニュースの時間のようだ。平板なアナウンサーの声が台所まで侵入してきていた。
「……昨晩深夜、……の踏切に飛び込んだのは花崎宗太郎君、十才と判明し……」
僕は持っていたコップをステンレス台に取り落としそうになって、慌てて叩きつけるように置いた。たぶん自分の耳の聞き間違いだ。調子が悪いから、変なものが聞こえるのだ。
アナウンサーの読み上げはまだ終わらない。
「踏切に飛び込んだのは松添真哉君、九才と判明……」
「飛び込んだのは菅千衣子さん、九才と……」
「んだのは沓名涼乃さん、十一……」
「のは永見庸介君、十……」
耳を塞ぎ、リノリウムの床に座り込む。緑と白が交差した床の模様が目の前に迫った。額をそこにつけると、冷たい感触が全身に広がる。
いつの間にか音は消えていた。顔を上げると、人の気配もなくなっている。母は出かけているようだった。だからテレビもついている訳がない。
僕は立ち上がり、水を煽った。ぬるい液体が喉を通過していく。それから水筒に水を詰めて、氷を手に持てるだけ持って風呂場に向かう。洗面
器にそれを入れ、二階へ持っていくつもりだった。
ガラス戸を開けると、そこには仁菜が立っていた。いつもの緑とオレンジのワンピース。
「にぃちゃんはいっちゃうね」
「いかないよ」
頭がぐらぐらする。前もどこかでこんな会話をしたような気がする。
「ニナはもういらないんだ」
「いるよ」
仁菜は人の話を聞かずに一方的に喋ってくる。
「ニナはのみこまれるよ」
僕はもう返事が出来ない。頭の芯が痺れたようになって何も分からない。
仁菜はにいっと笑った。
「けど、それでいいんだ」
気がつくと、僕は自分の部屋の扉の前で洗面器を手に持って立っていた。白いタオルが氷を浮かべた水底に、くらげのように沈んでいる。
眠ろう。
僕は思う。
起きれば何もかも良くなる。
そして扉を開けると、窓の外に彼はいた。
「気をつけろ、ヒロキ」
彼は眼鏡を直し、僕を見つめる。
「死は地面から来る」
こつこつと腕時計を叩くと、彼は横を向き、遠くを見つめる瞳になった。
「先に行ってる。ゆっくりおいで」
踏切の音がする。電車が来る。この町から出る電車。海へと続く電車。素直との最後の思い出。
目を覚まし、熱が下がっていることに気づいた時にはもう夜も更けていた。最終の電車が通
過する音が遠くこだましている。枕もとに置いた洗面器の水はすっかり温くなっていた。