8月27日(水) くもりのち雨
記者はぼくたちのことを書くだろうか。ぼくたちは受け入れられるだろうか。そうだといいと思う。
でもきっとちがう。
ぼくらは……ぼくはひとりだ。
昼も近づいてきたというのに、空は薄黄色い幕で覆われていた。仁菜の手を引いて玄関を出た時、その空模様が目に入ってきて僕は立ち止まる。
「あらあ、どこへ行くの? 今日は午後から雨降るそうよ」
すると横合いからそう声をかけられ、僕はびくりと背中を震わせた。見ると、隣のおばさんが門柱からにゅっと顔を出している。箒を手にしているが、この顔合わせは偶然だろうか。監視されているのかもしれない。
「山はやめときなさいね、山は」
僕の警戒に気づいたのかどうか、おばさんは眉をひそめて顔を近づけてきた。逃げる訳にもいかず僕は耳を傾けたが、結果
、その内容にひどく驚かされることになる。
「ほら、記者さんがいたでしょ、あの歯が出てた。あの人、昨日の朝に山で倒れてたって」
そう聞いて、僕はとっさに庸介の顔を思い浮かべてしまう。こう言ってはなんだが、しつこく絡まれたりしたらやりかねない。
「ケガとかひどいんですか」
「いや、そういうのじゃないらしいのよ。私もてっきり物騒な話ねー、とか思ってたんだけど」
おばさんは僕が反応したのに気を良くして、べらべらとまくし立て始める。
「なんだかよく分かんないんだけどねー、脱水症状で入院ですって。いったい何をしてたのか見当もつかないらしいわよ。なんでもおトイレとか、あのね、ほら垂れ流しだったらしくてねー。ちょうど畑へ行く道だったから、朝そこのおじいさんが見つけたらしいんだけど、放っておいたら大変だったかも」
「なんでそんなになるまで山の中にいたんですか。ケガはなかったんですよね」
「そうそう、それがおかしいのよね。縛られてたりとか、そういう跡が一切ないらしいの。足跡が倒れてた周辺にだけいっぱいついてたから、狐にでも化かされてぐるぐる回ってたんじゃないかって、おじいさん言ってたわ。でもいまどき狐なんてねえ」
おばさんの話を聞き、庸介の仕業との考えは僕の中でみるみるうちに萎んでいった。そんなことは庸介には出来ない。だが、それで安心とはいかなかった。それを出来る可能性があるのが、ただ一人だけいるからだ。
すぐに走り出したい気持ちを抑えて、僕は家へと踵を返した。それから二階へ駆け上がってりこっそり窓から覗くと、おばさんは突然の僕の行動にあきれ返った様子で、しばらくするとぶつぶつと何やら文句を呟きつつ自分の家へと戻っていく。
罠かもしれなかった。まさか宗太郎がそんなことをするとは思えない。嘘を言ってけしかけ、僕を宗太郎のところへ向かわせて何かする気なのかもしれない。そうだとしても確かめずにはいられなかった。僕は一階に戻って受話器を手に取る。ダイヤルを回すのももどかしく、居間から漏れてくるテレビの音が攻め立ててくるように聞こえて仕方ない。三回コールして電話はつながった。そして幸いにも受話器からは宗太郎の声がした。
「はい、ハナザキです」
「ソウくん、記者の人の話……」
居間に聞こえないように、僕は声をひそめてそう喋る。すると一拍空いて返事があった。
「……いえ、違います。うちはオクジョウじゃありません。はい、来ても困ります」
一瞬、宗太郎はおかしくなってしまったと思った。しかし、彼が駄目押しするように繰り返したところでようやくピンと来る。
「だから、うち、オクジョウじゃないんです」
「あ、分かりました、すみません」
「じゃあそういうことで」
あっさりと通話は終わり、電話は切られた。
「行こう」
受話器を置き、僕は改めて仁菜と共に外へと走り出す。今度は隣のおばさんは出てこなかった。
湿気を帯びた暑さが澱んだ水のように道路を流れ、駆ける僕を包み込む。宗太郎の力と良く似た感触。これの壁で四方を塞がれたら、そしてそれが乗り越えられない高さだったら、成す術はないだろう。誰も来ない山奥に取り残された気持ちはどんなものだろう。でも、あの人は間違いなく魔王の手先だ、と僕は考え直した。宗太郎にはきっと考えがあるのだ。
宗太郎のマンションは五階建てだ。階段を駆け上がり、最上階まで来て辺りを窺う。天気のせいか人影はなく、僕は咎められることなしに手すりに飛び乗って屋上へと手を伸ばすことができた。そこで初めて自分の体を力で持ち上げてみたのだが、なんとかバランスを崩さず屋上を囲むフェンスを掴むことができて安心する。そのまま体をたぐり寄せてフェンスを乗り越え、力を解除した。
そこには既に宗太郎が来ていた。真っ白な長袖のパーカーを羽織り、反対側のフェンスにもたれて僕の方を見ている。どうしてか僕は彼に近づくのが恐ろしく思えた。別
に彼に怒っている様子はなく、表情も穏やかなのに。仁菜は僕の背中にしがみついて離れない。
「前の時はごめ……」
「記者って言ってたけど」
僕が謝るのを遮って、宗太郎はそう話し掛けてきた。
「もう話が出回ってるんだ」
「うん、けど、ソウくんとは……」
「ああ、俺」
あっさりと認める宗太郎を僕は呆然と見返した。そうとしか考えられなかったけれど、やっぱり自分じゃないと言ってほしかった。そんなことに、他の人に力を使うのは……裏切りだ。
一昨年の夏の約束。僕らはこの力を秘密にする。僕らはこの力で誰も傷つけない。この二つを守り、そして仲間を裏切らない。僕ら五人はあの橋の下で誓ったのだから。
「なんて顔してんだよ。ヒロキなら分かってるだろう。あいつは一番厄介な手先だ。動きを止めておかないといけなかった」
「じゃあ殺すつもりだった」
「まさか。殺す気があったらもっと山奥でやるよ。元々一晩で解放するつもりだったし」
宗太郎は心底意外そうな顔をする。
にわかに風が強くなってきて、遮るもののない屋上ではもろにその威力を体に食らう。宗太郎の薄手のパーカーは煽られて逆立ち、フェンスはガタガタと軋む音を立てた。みるみるうちに雲は厚くなり、湿った空気は頭の上にのしかかる。
「今日じゃなくて命拾いしたな、あいつ。陸でおぼれるのってちょっと面白いけど」
「あの記者の人に力のこと言ったの」
「一応手先じゃない可能性も考えて、魔王のこと説明してみたよ。まあダメだったけどね。ヨースケと一緒、そんなものないってさ。さすがに馬鹿馬鹿しくなった。しつこいし」
「秘密にするって約束は……」
「もういいだろ。魔王を倒せばこの力だって認められる。怖がることなんてない」
魔王を倒せばすべてが良くなる。
宗太郎の信念には曇りがない。それがいつでも僕らを引っ張ってきたのだし、それが彼の良いところだった。僕は、そしてきっとみんなも彼のそんなところが好きなのだ。
「ああ、でも、ヒロキは分かってくれるけど、シンヤはこだわるかも。これも終わるまでは内緒にしておこうか」
しかしその問いに、僕は首を横に振った。
「分からない」
宗太郎の嘘は自分を守るためのものじゃなかったはずだ。
「ソウくんの方が魔王に操られてるみたいだ」
「おい……ちょっと待て、ヒロキ」
僕と仁菜はフェンスを越える。制止の呼びかけには従わなかった。
「明日の会議には来いよ、絶対!」
咎める宗太郎の叫びを背に、僕は仁菜を抱きしめ、屋上から飛び降りた。力が発動したのは二階の近くだった。一旦解除し、今度は地面
から一メートルくらいのところで止まることが出来る。僕を追いかけるように空から大きな雨粒が幾つも降り落ちてきた。アスファルトがより濃い黒色に染まりはじめる。
魔王、魔王、魔王。
僕と仁菜には他にどこにもいくところはなく、家へと駆け始める。