夏の魔王

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7月19日(土) 晴

 夏休みまでにひみつ基地を作ろうとソウくんが言ったので、ぼくたちはがんばりました。
 けれど、もうちょっとで完成だったのに、ぼくたちの前にてきがあらわれました。

 はじまりは秘密基地からだった。
 その設立を言い出したのは宗太郎で、彼は妙な熱心さをもって僕らをかきくどいた。
「絶対必要だと思うんだよ! だって俺らは特別なんだから」
「特別だとなんで基地がいるんだよ」
「世の中にはびこる悪と戦うためさ」
「無茶いうなよ」
 素直がいつも通りに否定してかかったが、宗太郎はめげなかった。彼には自分に酔ってしまうところが多分にあって、喋れば喋るほどそれは加速して、ニュースやら漫画やらでかじった小難しい単語がすごい頻度で混じり始める。きっと喋っている本人も意味不明だっただろう。彼の身振り手振りは大きくなり、その背中のランドセルがガタガタと喧しい音を立てる。
「世界の環境破壊はすごい勢いで進んでいて、オゾンホールからダークマターが入り込んでくるんだ。それが世界破壊の元になるんだよ。人間の心にもその素粒子が微妙に影響してそれが差別 を生むらしいよ。それを防ぐには一人一人の心構えが必要なんだって。俺らの場合、一人で百人分くらいの効果 はあるんだ。こう、うまくいくと上からぱーっと光が降ってきてさあ……」
 ずれた主張をしてはいるが、これでいて正義感は強いのだ。一方、僕は自分で言うのもなんだが結構覚めた子供だったので、熱い彼の心にはいまいち同調しきれなかった。
「とにかく、作ろうよ、基地!」
「そりゃ、ないしょの遊び場があると色々楽だけどさ、でも」
 僕のあいづちにすかさず彼は食いついてくる。
「よーし、決定決定! 夏休みまでに作ろう。そうでなきゃ意味がない」
「おい、ソウタロウ、勝手に決めんなって」
「ま、いいじゃん。面白そうだしさ」
 それまで黙っていた真哉が宗太郎に味方して、二対二、この局面で僕の主張の勝ちはなくなった。この二人は決めてしまったら引かないからで、僕だって秘密基地という言葉の響きに、何も感じるところがなかった訳じゃなかったからだ。ただ目の前の二人と違って、慎重でエンジンがかかるのが遅いだけなのだ。決まったとなれば、それなりに乗り気にはなる。それは素直も同じようなもので、さっき否定してみせたのは彼のいつもの癖にすぎない。
「どこに作るんだよ。言い出したからには、決めてんだろな」
 素直の問いかけに、宗太郎は鼻息荒く胸を張った。
「もちろんあそこだろ」
 彼は振り向き、上方を指差す。僕も真哉も素直もその先になにがあるのか予想はついていたが、一応その方向を仰ぎ見てみた。
 そこにはもちろん山があった。元々山中を切り開いて作られたこの町の中でも一番高い処、こんもりと茂った木々の中に朽ち果 てたコンクリの建物が幾つも立ち並んでいるのが見える。
「やっぱそうだな」
 真哉がもっともらしく頷き、素直は反論する。
「あそこに基地作ってる奴はたくさんいるし、見つかって追い出された奴はその十倍以上いるぞ。別 の場所にしといた方がいいと思うけど」
 それに加えて中高生の柄の悪い集団のたまり場になっていて、壁一面に卑猥な落書きがされていたりするし、ひどいケースになると放火された建物だってある。さらに休日前の夜など、バイクの爆音とけばけばしい灯りが山道を登っていくことがよくあった。
 もちろん真哉もそのことは知っていて、素直の指摘に乗り気だったその顔が一気に曇る。
「う、うーん、モトっちの言うことも一理あると思う」
 彼はあっさりと主張を翻して素直の方についた。すると宗太郎は憤然とした口調で反論してきた。
「そんなことを恐れていては千年王国の創立は遠くなりにけり、だぞ! 夏休み前に準備をして、いざ時期が到着したらさっそくあの力の研究に入らないと世界は大変なんだから! 心配はいらない!」
「分かった分かった。その見つけたところって具体的にどんなところ? そういう奴らに見つからなさそう?」
 宗太郎が一層支離滅裂になってきたので、僕はなだめる側に回る。さっきの台詞を一息に言い切った宗太郎はしばらく呼吸を整えるのに精一杯のようだったが、僕の質問には意を得たという顔を見せた。
「平気さ、だってあいつら昼間はこないだろ。夜になったらとても見つけにくい場所なんだ。今まで誰も見つけてないはずだし」
 落ち着けば、宗太郎の喋りもごくまともなものになるのだ。僕ら三人は目配せして、とりあえず宗太郎の計画を一通 り聞いてみることにした。
 秘密基地の規模はどれくらいか。何が必要なのか。どうやって必要なものを入手するのか。作るのにどれぐらいかかるのか。結局具体的な場所はどこなのか。
 最後の質問にだけは、あくまで僕らが直接見ないと分かりにくいからと宗太郎は答えようとしなかった。驚くような場所なんだろうか、と僕ら三人は不審に思う。けれど、それだけもったいぶられるとやはり見たくてたまらなくなるのが当然だ。
 結局、僕は折れることにした。
「分かった。そのソウくんの言う場所を見てから決めよう。モトくんもそれでいいよね、シンくんも」
「まあ、いいよ」
「異議なし」
 素直が頷き、三対一になってまで真哉が反対する訳もない。
「それじゃ、明日案内するから、学校終わったら即集合。いいよな」
「お昼はどうするのさ」
「えーと、じゃあ光速で食べて集合」
「オッケー」
 僕らは共犯者の眼差しを交わして、その日はそのまま別れた。色々心配するところは多いけれど、僕も本当のところ秘密基地は作りたいし、宗太郎がどんなところを見つけてきたかと考えると頭がぼうっとするほど楽しくなってくる。熱気が立ち昇るアスファルトを跳ぶように駆け、明日は何を持っていこうかと頭の中で何度も考えた。
 その足取りが鈍くなったのは、角を曲がった坂の下の方に家の屋根が見えてきた頃だった。僕の家の壁はくすんだ水色をしたトタンで、周囲の家からはちょっと浮いた感じがしているから、遠くからもすぐに見分けることができる。薄曇りの天気の下でそれはいつも以上にみすぼらしく、味気ないものに見えた。僕は引き返し、あの壁が見えなくなるほど暗くなってから家に帰ろうかとも思ってしまったが、家の前にいる小さな影を見つけて、それも止めることにする。
 彼女は茜色に染まった雲のカーテンをぼんやりと眺めているようだった。
「どうした?」
 僕が声をかけると、慌てて仁菜は下を向く。僕はその瞬間、彼女の目じりにうっすらと涙が浮かんでいるのを見た気がして、その顔を覗き込んだ。
「なんでもないよ。おほしさま見てたの」
 彼女はうつむいたままそう言う。僕はあえてその顔を上げさせようとせず、逆にさっきまでの彼女の視線を追って空を見上げてみた。雲の隙間から見える空は徐々に藍色に侵されつつある。夏の暑い空気に阻まれてちらちらと瞬く星が次第にそこに貼りつき始めた。
 いつのまにか仁菜も僕と並んで空を見つめていた。彼女の小さな手のぬくもりが僕の指を包む。こっそりその様子を窺ってみると、もう乾いてしまったのか目には涙は見当たらなかった。
 そうしているうちに、空の橙は完全に消え、灰色の雲も闇と化してしまう。坂の上から街灯が順に瞬いて灯り、こちらへと段々近づいてくる。雨の匂いを少し含んだ風が僕と仁菜の前を通 り過ぎていった。
 僕は空から家へと視線を移した。あのくすんだ水色はもう分からない。
「さあ、家に行こう。一緒に入るから」
「うん」
 仁菜を促すと、彼女はあっさり僕に手を引かれて歩きはじめた。玄関のサッシ戸はたてつけが悪く、おおげさな音を立てないと開け閉めできない。僕と仁菜は居間から洩れるテレビの音を聞きながら、靴を脱いだ。
「ただいま」
 仁菜が家の奥へと投げかけたその言葉への返事はなかった。僕が歩いていって居間を覗くと、やはりいつも通 りにそこには母が座ってテレビを見ていた。彼女は僕の気配に気づいたはずだったが、目をこちらにやることもなくただ座っている。
 僕も気にせず、台所のテーブルの上にあったビニル袋を掴むと仁菜を連れて自分の部屋へと戻っていく。中には弁当が入っているのだろう。今日は忘れられなかったらしい。お金が置いてある日もあって、そんな時はなるべく安いものを買って済ませた。何も置いていない日のために貯めておいた方がいいし、お小遣いにもなる。
 僕と仁菜は電気もつけずに、二階の窓から外を覗いた。ここからはトタン壁は見えない。見えるのは空と星と家々とあのそびえ立つ山ばかりだ。
 それと電車。
 僕の家の前の坂を下りきったところに線路が横たわっている。外から風に乗って踏み切りの音が聞こえてくると、僕は窓から身を乗り出して、通 り過ぎる電車の窓の明かりを眺めたりしていた。
「にぃちゃん、あの向こうには何があるのかな」
 窓を開け、仁菜は腕をいっぱいに伸ばして山の方を指差した。僕も窓から半身乗り出して、彼女の耳に口を近づけ、その大変な秘密を囁く。
「海があるんだよ」
「あの、でっかーい、うみ?」
「そうそう。いつか一緒に行こうな」
 僕の言葉に仁菜は目を輝かした。
「ほんと? 約束できる?」
「うん、できる」
 僕は即座に頷く。いつかあの電車に乗り山を越えて海へ出るんだと、ずっと思っていたのだ。僕はほとんどこの街から出たことはなかったし、だからもちろん海を見たことはなかったけれど、それは僕の中では決まっていたことだった。
「じゃあ約束」
 僕と仁菜は小指を絡ませ、それから微笑みあった。

 次の日の待ち合わせ場所は校門の前だった。
 僕が時間ぎりぎりに駆けつけると、素直はすでに来ていて、いつも手放さない腕時計をこつこつと指で叩いてみせる。
「やっぱり一番はヒロキか」
「ソウくんやシンくんは……」
「シンヤはいつも通りだろ。ソウタロウが来ないのは珍しいけど」
 宗太郎も僕と同じく、ぎりぎりに駆け込み組だったのだが、今回は道の向こうにも姿は見えない。
「お母さんにつかまってるのかな」
「そうかもね」
 宗太郎の母親は、普段は優しくて穏やかな人だったが、うっかりハマってしまうととんでもなくしつこく絡んでくるという話だった。僕らも一度遊びにいった時に、その状況に遭遇したことがある。僕らの玄関先での誘いを了承し、ちょっと友達と一緒に外に出て遊んでくる、と宗太郎が彼女に声をかけた途端、それは起こった。
「ちょっと、なんで!?」
 突如金切り声を上げ、彼女は宗太郎に怒鳴りかかる。
「今日は宿題で忙しいって言ってたじゃない! ねえ、なんで出かけるの!?」
 それは先程応対してくれた人とは別人ではないのかと思わせる取り乱しぶりで、僕らは驚いて声も出ずに立ち尽くした。宗太郎は母親と僕らの両方の顔を見比べると、「ごめん、先行ってて。追いつけたら追いつくから」と僕らに囁いて、ドアの外へと押し出してくれる。閉まった鉄扉の向こうから、かすかにガラスを引っかくような高音が洩れ聞こえてきた。その日、結局宗太郎は姿を現さなかった。
 あれは昔、母さんが唐辛子をうっかり食べ過ぎてしまった呪いなんだよ、と後日に宗太郎は語った。そのうち呪いは解けるから気にしないでいいよ、と続けて彼は笑う。だから僕らも同じように笑い、笑いつづけて、そのうちなんだか分からないけれど無性に何もかもおかしくなってしまって笑いが止まらず、お腹が痛くなって気持ちが悪くなるまで笑い転げてしまったりもした。
 けれど、まだ彼女の呪いは解けていないらしく、たまに宗太郎は大遅刻して現れるのだ。いつもならそんな時は先に集まった者だけでその日の目的地に移動してしまうのだが、今日は宗太郎がいないとどうしようもないので困ってしまう。
 僕と素直は校門の横にもたれかかり、真哉と宗太郎を待った。部活動にやってきた生徒たちが僕らの横を通 り過ぎていく。そのまま待ち合わせ時間を十分ほど過ぎたところで、素直は大きくため息をついて首を振る。そして僕の方へと振り向いた。
「時間がもったいないな……俺、駅前の本屋に行ってるから、そろったら呼びにきてくれよ」
「分かった」
 素直は手を振りつつ去っていき、仕方なく僕は独りで校門前に佇むことになった。あと五分もすれば真哉がたぶんやってくるんじゃないかと思いつつ。
 しかし、僕の前にぬっと現れたのは真哉でも宗太郎でもなかった。
「よ、ヒロキちゃんじゃん」
 ずらずらと僕の前に並んだのは三人もいた。その中の二人には見覚えがある。にやにやと笑いながら僕を見下ろす、いつもながら不快な視線だった。
「何、こいつがどうしたの?」
 新顔は一歩退いたところで、仲間をきょろきょろと見回している。彼に向かって、あとの二人は口々に説明を始めた。
「ほら、しらねー? ひとつ下の変わり者グループ」
「聞いてんだろ、お前も」
 それだけで、彼も納得したらしい。たちまちにやにや笑いが彼の顔に伝染した。
「ああ、あれかあ。へえ、こいつが」
「ヒロキちゃん、他の奴らと待ち合わせ?」
 僕は当然答えなかった。うつむいて、ただ地面を見つめて彼らが飽きてくれるよう祈る。この五年生グループは性質が悪い。下手に答えようものなら、たちまち手を出す口実にしてくることは確実だった。黙っていたからといって去ってくれるような奴らでもなかったが、逃げるにしても囲まれていては分が悪い。耐えるしかない。
「もしもーし聞こえませんかあ?」
「聞いた通りに生意気だね、こいつ」
「おい、ちょうどいいだろ。ちょっと確かめてみようぜ」
 僕は間違った選択をしてしまったらしい。会話の流れが明らかに不穏な方向へと流れはじめ、僕は反射的に顔を跳ね上げる。呆然とする僕の顔を見て、彼らのにやにや笑いはいっそうひどく広がり、昔読んだ絵本に出てくるおばけのようになっていた。慌ててまたうつむき、逃げ出す隙間はないかと目線を彼らの足元に走らせたが、向こうには僕の考えていることなどばればれだったらしい。僕が行動に移す前に、胸元を握られて動きを封じられた。
「ちょっとこいや、な、ヒロキちゃん」
 無理に出したような不気味な猫なで声をかけられ、僕の足はすくんで動かなくなってしまう。そして、僕がこれから起こることを覚悟した時、救いの手は差し伸べられた。
「ヒロキ、待たせたな」
 そのセリフと共に、人垣の向こうに大小二つの影が現れたのだ。その大きい方がずかずかと近づいてきて、僕を覗き込む。宗太郎は五年生より頭半分くらい大きい。
「ひとり?」
「あ、も、モトくんは駅前の本屋に……」
 僕がやっとのことでそう告げると、彼は頷く。
「分かった。遅れてゴメン」
 そして半ば強引に僕の手を掴んで、五年生の囲いの中から引きずり出した。宗太郎の体格からして彼らもとっさに反応できなかったらしい。宗太郎に手を引かれて去りかけた時にようやく囃したて始めた。
「かっこいいねえ、ハナザキくーん」
「俺らなんて見えてないってか?」
「相手するなよ。行こうぜ」
 宗太郎はこういう場面においてはしごく冷静で、穏便な態度をとるものだった。今回も例に洩れず、挑発に乗るような真似はしない。彼は僕のしわの寄った服を直し、真哉にもここから去ろうと促す。
「無視かよ、さすが『けっかんかてい』のハナザキくん」
 その時、五年生の口からぼそりとその言葉が洩れるのを、僕は聞いてしまった。宗太郎はわずかに口の端を上下させただけで、それ以上の反応はしない。打てば響くような激しい反応をしたのは、後ろで不愉快そうに上級生を睨みつつ待っていた真哉の方だった。
「んだとおい……!」
 沸騰して殴りかかろうとする彼の襟首を掴んで押しとどめたのは当の宗太郎で、僕も加勢して真哉の腕にすがりつく。五年生たちは僕らのそんな様子をにやにやと見ているだけだ。
「やめろよシンヤ、いいから相手にするな」
「無茶だよ」
 僕らの年齢では一年分の体格の差はかなり大きい上に、特に彼らは乱暴なグループだ。元々小さい真哉が闇雲に殴りかかっていって勝てる相手ではない。宗太郎だって喧嘩が強い方ではけしてないし、三人相手では無理だ。もちろん真哉だってそれは承知していて、僕らの制止で頭が冷えるとうつむいて大人しくなった。
「おいおい、やらないのか。相手になるぜ」
 五年生たちは挑発してくるが、僕らが乗らないと見ると馬鹿にしたように唾を吐いて指を立ててくる。僕と宗太郎は無理やり真哉の肩を掴んで反転させると、とにかく五年生たちから離れることにした。
「逃げますか、お子様たちは」
「全員ちんちんついてないだろ、お前ら」
 馬鹿笑いが背後から追いかけてくる。
 僕は真哉の肩を抱くようにして、駅前に続く道を駆けた。宗太郎が後ろに続く。
「ちくしょう。今が夏休みだったら、あんな奴ら一撃なのに。ちくしょう……」
 うつむいたまま絞り出される真哉の声は、悔しさで震えていた。僕と宗太郎は何も言わずに真哉の横で走っていた。真哉のその言葉が嘘ではないことを僕らは知っているが、それがけして出来ないことも知っている。真哉本人だって分かっている。例え今は彼らをやっつけることができたとしても、夏休みはいつか終わるのだから。一年の十二ヶ月のうち、たったの一ヶ月半。
「さ、急ごうぜ。モトが待ってる。その後、秘密基地だ!」
 宗太郎が何かを振り切るように叫ぶ。僕らはもうすっかり夏の色になった空の下、いっそう速度を上げて走り出した。

 山に入ると、すでに蝉が遠くの方で鳴き始めていた。僕と真哉はリュックを背負ってスーパーの袋を提げ、山道を登っていく。終業式の後すぐとなると、まだ太陽が高いので暑くてたまらない。
「こっちだったよな?」
「……たぶん」
 振り返って確認する真哉に、僕は頷き返す。木々の合間から、古びたコンクリの建物群が見えた。この道を通 るのはこれで五度目だが、どうも特徴のない風景のため、このルートが正しいとは断言しにくい。
「なんだよソウの奴、今日は大切な日なのに、ろくに打ち合わせず慌てて帰っちゃってさ。そんなに通 知表ひどかったのか」
 真哉はぼやきつつ、腕を頭の後ろで組んだ。彼の背中でぶらぶらと揺れる白いビニルからは、入っているコーラのボトルの青色が透けて見えていた。
 僕は彼の後をついて歩きつつ、あの日、宗太郎が僕らを案内してくれた時のことを思い出す。本屋で素直と合流した僕らは、五年生たちがついてきていないことを確かめると、山へと向かった。
「昨日言ってたのは嘘じゃないよな」
 素直はポケットに手を突っ込みつつ、前を行く宗太郎の背中にそう声をかけた。
「え、何が?」
「見つかりにくくて、でもむちゃくちゃ行くのが大変ってことはなくて、すごい場所ってのだよ」
 歩きながら振り向く宗太郎に、素直は不機嫌そうな顔で言葉を叩きつける。
「まさか、それもいつものはったりじゃないだろうな」
「まあ見てなって。正義っぽさ爆発してっからさ」
 宗太郎は彼の不審をさらりとかわして、ぐんぐん山道を登っていく。素直は僕の方を見て、あからさまに肩をすくめて眼鏡を鼻の上に押し上げてみせた。僕はどう反応して分からずに、困ったように笑い返す。それから十分ぐらいした後に、僕らは目的地へたどりついた。
「あそこだよ、あそこ」
 宗太郎は木立の合間から見える茶色の斜面を指差し、道を外れた。続いて草むらへと足を踏み入れた僕らだったが、昨夜の雨で地面 はぬかるんでいて歩きにくかった。自然と宗太郎が踏みしめた後を一列でついていくような形になる。僕は一番最後だった。
 やがて、宗太郎は立ち止まった。すぐ後ろに続く真哉がおお、と小さく声を上げる。僕は前の三人の背中でまったく見えず、仕方がないので脇へと一歩出てみる。踏んだところから水が染み出す感覚が靴を通 して伝わってきた。けれど、目の前に広がる風景がそれを忘れさせた。
 暗い穴が僕らの前にぽっかりと開いていた。入り口は木枠で固められ、明らかに人の手が入っている代物だ。そして僕らはそれが何の跡なのか、当然知っていた。
「鉱山跡か……」
 この町はこの鉱山のために作られたところだった。北の山に幾つも廃墟となって朽ちているコンクリの建物は鉱夫とその家族達の住居であり、山の下の街は彼ら相手の商売やら、掘り出された鉱物の運搬やらに携わっていた。鉱夫というと悲惨な生活をしていたように思えるが、住居の施設はその頃の最新式で、当時はかなり裕福だったらしい。僕らの祖父母の時代の話だ。
 当然僕らは、その頃の話をごく断片的に聞くくらいで、この町が賑わっていたという頃のことを知らないし、実感もなかった。僕らにとってここはたださびれていくだけの田舎町だった。
「やっぱヒーローの基地は山ん中にあるもんだよな」
 一人で納得して、宗太郎は背負ったナップサックから懐中電灯を二本取り出す。そして一本を素直に渡した。素直は嫌そうなしかめ面 をしながらも、それを受け取った。
「迷路になってたりしないだろうな」
「ちょっと分かれてるけど、ヘーキヘーキ」
「ソウ、すげえすげえ!」
 素直が文句を言い、宗太郎が受け流し、真哉が感激する。僕はぼんやりとその入り口を見つめていた。中に溜まる黒々した闇はゆっくりとこちらに溢れ出してきそうだ。本音を言えばあまりここには入りたくなかった。
 しかし、僕がそう言い出す前に、カチリという音がして、宗太郎の手の懐中電灯が闇を追い払った。
「よーし、行こうぜ。俺からはぐれるなよ」
 宗太郎を先頭に、真哉が続き、僕を挟んで最後に素直がもう一つの懐中電灯を持って突入することになる。
 坑道の中は湿った匂いで満ちていた。昨晩遅くに降った雨のせいだろう。道が奥に向かうにつれ、ゆるやかに登っているおかげか、外と違って足元が濡れていないのはありがたかった。
「でも、こういうとこって毒ガスとか出たりしないか。危険だぜ」
 素直の囁き声が坑内に響く。
「俺、何回も来てるんだぜ。大体、毒ガスが出るような穴が開きっ放しにされてる訳ないだろ」
「まあ、それもそうか」
 その時、ふと真哉が立ち止まった。僕はぶつかりそうになって慌てて立ち止まる。
「おーい!」
 何をするのかと思ったら、突然真哉はそう叫んだ。もちろん囁き声ですら大きく聞こえる状況なのだから、彼の大声はところどころに反射してわんわんと響き、遠くへと駆けていく。それに対して、素直が棘のあるひそひそ声を出した。
「シンヤ、うるさい」
「だって、すげーぜこれ!」
 真哉は声の音量を絞ろうとはしない。うるさくて僕はたまらず耳を塞いだ。
「お前、いいかげんにしろよ!」
 素直がたちまち険悪な空気をまとう。割って入ったのは宗太郎だった。彼は振り向いて真哉の耳元で言う。
「ダメだろ、ここは秘密基地なんだぞ、シンヤ。秘密なんだ。敵にばれたらどうする」
「ほら、ヒロキが耳塞いでるだろ。ったく、お前はいつもいつも」
 続いて素直が毒づいた。そこでようやく真哉は浮かれすぎたことに気づいたらしい。たちまち彼の顔色は沈み、額に幾つか汗が浮き始める。
「あ、俺、ちょっと嬉しくて……ごめん。ごめんな。ごめん」
 僕は慌てて耳から手を離したが、真哉の顔色は懐中電灯の明かりの中でも分かるくらいどんどん青くなっている。宗太郎はそんな彼の肩に手を回し、優しい声音でまた囁いた。
「オーケーオーケー。今度からちょっと気をつければすむことさ。気にしない気にしない。アメリカ人も古いことわざでそう言っている。な、モト、ヒロキ」
「アメリカ人はともかく、別に怒ってはないよ」
「うん、怒ることじゃないって」
 素直と僕が相槌を打ったことで、少し真哉の顔色は戻ったようだった。そして、再び進みはじめた時には黙っていた彼も、五分もするとまた小さな声で軽口を叩きはじめた。それで僕は安心して彼の後ろを歩いていく。感情の起伏が激しい彼は、よくやり過ぎてしまい、そのために孤立することも多かった。怒りにしろおふざけにしろ、頭に血が昇ってしまうとどうにも止められないらしい。もしあと少し周りの雰囲気を察することが彼にできたのなら、けっして彼は僕らとつるんではいなかっただろう。
「さあ、着いたぞ」
 僕がそんなことを考えている間に、どうやら目的地まで来てしまったようだった。宗太郎がそう宣言し、懐中電灯をぐるりと壁から天井まで一回しする。
 そこは、二十人ほどは楽に入れそうな空間になっていた。木枠で強化された天井は真ん中を頂点に尖ったように掘られていて、まるで鳥かごのような形をしている。ここへの出入り口は、入ってきたところをあわせて三つあったようだったが、そのうち一つは半分以上土砂に埋もれていて、とても通 れそうにない。
「ふーん、まあ基地にはできそうだけど」
 素直が持っている懐中電灯で辺りを照らして感想を述べる。
「ここ、明かりはどーすんの」
「電気スタンドとか……あ、コンセントねーじゃん」
「懐中電灯で何とかするってとこ?」
 僕らは口々に文句をつけながらも、内心それでも良いと思っていた。少し暗い方が秘密の気分が出る、というのは暗黙の了解だったからだ。問題は正義の秘密基地というより、犯罪者のアジトの雰囲気が出てしまうことだが。しかし、宗太郎の悪知恵はちゃんとその点まで働いていた。
「ふっふっふ」
 彼は不敵な笑いを洩らすと、おもむろにナップサックを地面に下ろして、その中に両手を突っ込んだ。そして、ごそごそとその口を大きく広げ、ゆっくり球形のものを引き出す。彼の頭上まで持ち上げられたそれは、懐中電灯の微かな明かりで時折ちらちら光る。
「ふっふっふ、スイッチオン!」
 そして宗太郎は頭に乗せたそれを作動させた。たちまち水色の光が辺りを満たす。後で良く考えればそれは寝室に置かれる類のムードライトだったのだろうが、その時の僕らにとっては、正義の味方の基地にある作戦室の中央で意味なく光っているあの球形オブジェにしか見えなかったのだ。おおお、と僕ら三人にどよめきが走った。対して宗太郎は大きく胸を張る。
「正義っぽいだろ」
「すげーすげー!」
 興奮しきった真哉がぶんぶん腕を振り回して叫んだ。宗太郎が彼の口元にそっと手のひらをかざすと、彼は顔色を変えてたちまち音量 を下げ、しゃべる。
「ホント、正義の味方っぽいよこれ!」
「俺はここを作戦室とすることを提案したい」
 鼻息荒く、宗太郎は宣言した。僕らに異議はない。真哉が先陣を切って拍手し、素直と僕も続けて小さく拍手をする。
「ここが作戦室ってことは、もしかして他にもあるのか?」
「モゲモゲ様の予言にぬかりはないのじゃー」
 どんどん宗太郎が妙な方向にノリノリになってきてしまっている。モゲモゲ様というのは思いつきに違いない。そのうちいつものむちゃくちゃな話をしだすことだろう。
 そして、また先へと歩き出した宗太郎に僕らはついていく。作戦室からもう一つの出入り口をくぐって出て、二度ほど通 路を折れ、進んだ先に見えてきたものは光だった。
「あれ、出口じゃん」
 真哉が素っ頓狂な声を上げると、先を照らすライトの光が小刻みに揺れる。どうやらまた宗太郎は含み笑いをしているらしい。
「今度は何だよ、ソウ」
「見てのお楽しみ、お楽しみ」
 宗太郎はもったいぶり、自然に僕らの心は逸って早足になる。そしてついに光のところまでたどり着いた僕が見たものは出口だった。真哉が指摘した通 りに、正真正銘まぎれもなく出口に過ぎなかった。
 ただ、僕のすぐ目の前には窓があった。窓は大きく開け放たれ、黄ばんだカーテンが風にはためいていた。
「あそこが本部さ」
 言うなり、宗太郎の体が宙に舞う。彼の体は危なっかしいところもなく、窓を通 り抜けて住居の床に着地した。確かに失敗するような距離でもないが、ふと下を見るとそこは四階だということが分かり、失敗したらただではすまないのが明らかになる。あまりそういうことを深く考えない真哉がすぐ後に続いた。もちろん彼もあっさり成功し、僕と素直はどちらからともなく顔を見合わせる。
「おーい、お前らも早くこいよお!」
 すごく嬉しそうな顔をした真哉が交差するように大きく手を振ってくる。こういう時は彼の前向きさがとてもうらやましい。
「ヒロキ、先に行け。もし失敗しても掴むから」
 素直が着地点を見据えつつ、ぼそりと僕に呟いた。僕は逡巡したが、覚悟を決めて少し後ろに下がり、続けて軽く助走をつけて跳躍する。拍子抜けするほど簡単にそれは成功した。
 僕がそこから離れると、すぐに素直も窓から飛び込んでくる。
「ようこそ、本部へ!」
 宗太郎が大げさな身振りをつけて僕と素直に一礼してみせた。
 ここはどうやら元々は団地の集会室か遊戯室だったようだ。壁に貼られた色とりどりの折り紙がべろりと剥がれかけて垂れ下がっていた。僕らが踏み荒らしていない隅の方は厚く埃がつもっている。
「潜入する奴らも三階くらいで満足しちゃうらしい。ここ、鍵がかかってるし、一番奥の建物だしな」
 ご満悦の宗太郎が頼んでないのに解説してくれる。だが、それに文句を言う人間はいなかった。汚れているとはいえ、ガラス窓で囲まれていて明るく広い部屋と、いかにも隠されている雰囲気をかもし出す坑道内の部屋、この二つに僕らは満足していたからだ。
 たちまち、僕らは具体的にどうこの秘密基地を作っていくかの相談に移った。
「じゃあどこにどういうもの置きたいか決めようぜ」
「やっぱりテーブルは欲しいよな」
「寝転べなきゃ意味ねーぜー」
「あと作戦室に扉つけないと、ひみつ話ができないよ」
 口々に要望を述べ、それぞれに部屋の中を歩き回る。みんなの胸は自分の思い描いた理想の秘密基地でいっぱいのようだった。僕ももちろん例外ではなく、窓辺を歩きながら自分の持ち物を思い浮かべ、ここに持ってくるには何がいいかと頭の中でとっかえひっかえしていた。だから、ふと横を見なかったら、それには気づかなかっただろう。
「なんか光ってる」
 窓の外、町を越えたはるか向こう、山並みの隙間にきらきら光るものが見え隠れしていた。僕の後ろに宗太郎がきて、僕の視線を追って言った。
「ありゃ海かな」
 そして、興味をなくしたように真哉や素直の方へと戻っていく。僕はそこから離れず、しばらくそれを見つめていた。
 遠く見える海は青くなく、ただちかちかとたまに太陽の光を反射するだけだった。

 こうして僕らの秘密基地作りはスタートした。
 僕らは毎日学校が終わると、秘密基地に必要だと思うものを持ち寄って集まった。真哉などは自分の部屋を移植するかの勢いで持ち込んだため、その大半は却下されてまた持ち帰っていたりもした。大雨の日は仕方なく行くのを諦め、雨を恨んだ。作戦室に雨が流れこんでいないか、とても心配だった。いつもなら夏休みが待ち遠しくてじりじりしていた時間が、この時ばかりはあっという間に過ぎていく。
 そして今日はついに終業式で、同時に秘密基地完成記念日なのだ。
「モトっちも待ち合わせ場所にいないし、今後が不安だぜ、まったくよー」
 しかしそんなめでたい日なのに足並みは揃わず、僕と真哉は二人で山を登っていた。
「モトくんは先に行ったんじゃないかな、ほら遅れたからいつもみたいに」
「今日ぐらい待っててくれてもいーだろーがよー」
 真哉はさっきからぶうぶう文句を言いっぱなしだ。彼にしてみれば出鼻をくじかれた心情なのだろう。彼の手のビニール袋の中には、コーラのペットボトル二本と紙コップが入っている。これでまず乾杯するんだ、と待ち合わせ場所で僕に笑いながら見せてくれたのだ。それだけに彼の気持ちは分かるような気がした。
「お、入口はっけーん」
 道は正しかったらしい。僕らは各々懐中電灯を持って突入する。途中作戦室に明かりはついておらず、誰かいるとしたら本部の方となった。真哉はアニメの主題歌を歌いながら、ずんずんと本部への通 路を進んでいく。やがて本部入口にたどり着いた僕らは、窓の向こうにいくつかの人影を見つけた。素直や宗太郎は先に到着していたようだ。
 本部への入り口である窓は大きく開いている。その下にぶらりと板で作った簡易橋が下がっていた。先日、やはりジャンプだけでは出入りしにくい、との結論からみんなで作ったものだ。ただし、時間切れでまだ本部側だけしか止めていない。
 真哉がそれを見て、期待を込めた目で僕へと振り返った。
「な、ヒロキ、もう使えるんじゃないの、あれ」
「どうだろ」
「やってみろよ」
 真哉に促され、僕は試してみることにした。てのひらを上に向け、扇ぐようにそれを動かしてみる。すると、片方だけ止められてぶら下がっていた木の橋がぐぐ、と持ち上がり、やがて地面 と平衡に浮かび上がった。
 真哉は歓声を上げ、その橋を渡っていく。一瞬橋はたわんだが、それ以上揺れることもなかった。
 着いた僕らを宗太郎が迎える。
「橋はちゃんと使えたみたいだな」
「あれは解除しておいた方がいい?」
「いやいいだろ、帰る時で」
「ところで何で今日は急いでたの?」
 ふと僕が思いついてそう尋ねると、宗太郎の視線が泳ぐ。その先をたどって、僕は納得した。
 しかし、真哉は僕と宗太郎のその会話には気づかず、無造作に荷物を部屋の隅に放ると素直のところへ駆けていく。
「モトっち、結構、俺も来てる?」
 芝居がかった仕草で一回転し、真哉は素直に促すように手のひらを向ける。素直はちらりと眼鏡ごしに彼の顔を見てから、投げるような返事をした。
「うん、来てる来てる。もう空だって飛べるよ」
「よーし、楽しい季節の始まりだぜ!」
 真哉はぴょんぴょん跳んだ後にくるくる回り、最後はポーズをつけて止まる。その時になって、ようやく隅でスケッチブックを開く少女の姿が彼の視界に入ってきたらしい。彼は口を大きく開けた。
「……なんでチーコがいるの?」
「不満?」
 千衣子はスケッチブックを閉じて、そう返した。肩の上で揃えられた猫っ毛の髪が、彼女の動きに合わせてふわふわ跳ねる。
「ソウちゃんに教えてもらったんだけど」
 真哉の確認する視線に、宗太郎は肯定してみせる。それでも真哉は納得いかないようだった。
「だって女は、なあ?」
 彼は同意を求めるようにぐるりと僕らの方を見回す。素直は我関せずというように肩をすくめ、僕はたぶん困った顔になったと思う。
「……ニナちゃんだっているじゃない」
 そして、千衣子の反論するようなその指摘は、僕にとって衝撃的だった。慌てて振り向くと、いつの間についてきたのか、仁菜が僕の後ろにいてにこにこ笑ってきた。けれど僕の驚愕の表情を見て、彼女の表情はちょっと曇り言い訳をする。
「だってにぃちゃん、遊んでくれないし」
 確かにこのところ、彼女を放りっぱなしだった。学校から帰るとすぐにここに出かけてしまい、夜になるまで家には戻らないので、僕がどこに行っているのか、不審に思っても仕方がない。とにかく僕は仁菜の出現に困ってしまった。夏休み中、彼女を放ってここへ遊びに来る訳にもいかないし、だからといって彼女をここの仲間に入れてくれとは頼みにくい。真哉も納得しないだろう。
 僕が困惑して何も言えなくなったところを救ったのは、いつも通り宗太郎だった。
「まあまあまあ、チイも仲間だしさ。俺はいいと思ったから連れてきたんだけど。来るもの拒まずってことでいいじゃん、なあ?」
「ソウが言うなら、そりゃ構わねーけど」
 真哉はそう答えつつも、ちょっと口を尖らせた不満そうな表情だった。そしてくるりと千衣子の方へ向き直ると胸を張ってこう言いのけた。
「ここくるならスカートはやめとけよ。そのうちこけてパンツ見えるぞ。キモい」
「ほっといてよ!」
 真哉さえ退いてくれれば、あとの問題はない。これでうやむやに仁菜の出入りも許された空気だ。宗太郎が僕の方を見て、心配ないというように頷いてくれた。聞かれないように胸の奥でこっそり息をつき、僕は仁菜に注意しておく。
「いいか、おとなしくしてるんだぞ。みんなに迷惑かけたら、もうここに来れないぞ」
「分かったよ、にぃちゃん」
 仁菜は真剣な顔をして頷き返す。
 その間にも真哉の千衣子に対するちゃかしは続いていた。千衣子は普段はおとなしく、一歩退いた態度を崩さない女の子だったのだが、どうも真哉とは壊滅的に相性が悪いらしく、こういった言い合いが行われる。
「占ってやる」
 千衣子は真哉をにらみつけて、手元に置いてあったスケッチブックをふたたび開いた。そこにははい、いいえの選択肢と五十音、そして鳥居が書かれている。
「それで悪い結果が出たら思いきり笑ってやる」
 たちまち真哉の顔がひきつった。彼は慌てて素直を振り返ったが、素直はただ肩をすくめて眼鏡を押し上げる仕草を返しただけだった。
「そりゃシンヤだけ来てるってことないだろ」
 次に宗太郎を見ても彼は苦笑するばかり、僕を見ても助けられるわけもない。
「へーん、俺、絶対いい結果になるに決まってるもんねー」
 助力が期待できないと悟った真哉はついに開き直ることにしたらしい。腰に両手をあてて胸をはり、着々と準備を進める千衣子を見下ろす。しかし、そんなことで千衣子は退いたりしなかった。
「あっそう。お楽しみに」
 冷たくそう返すと、ボールペンを軽く握り、スケッチブックに下ろそうとする。その時だった。
「へえ、面白いとこ見つけてんじゃん」
 耳障りな声が本部に響いた。その声の方を振り向いた僕らは、かけられたままの橋から次々とやってくる侵入者の姿を見た。僕は橋を解除しようかと思ったが、そんなことをすれば渡っている最中の人が落ちてしまうことに気づき、ためらう。結局橋を落とすより先に、五年生グループ五人に本部へと闖入されてしまった。
「山の中に走ってくから何かと思えばなあ」
「いじめられっこはこういうところだけは目ざといや」
「歌まで歌っちゃって、えらくご機嫌だったな、おい」
 あの時と同じようににやにやしている三人組が先頭だった。尾行されたと知った真哉の顔はたちまち真っ青になり、ついで真っ赤になる。どうすればいいか、感情をもてあましているようだった。
 三人組の後ろには、宗太郎より背の高い男がいて、彼も興味深そうに本部をねめ回している。たぶん値踏みしているのだろう。そして、何より最後に入ってきた、一見小柄な男こそが一番厄介な相手だった。
「ナガミヨースケだ」
 宗太郎がぼそりと呟いた。僕もその名前には聞き覚えがある。奴らを実質仕切っているボスで、学校でも何度か暴力沙汰を起こして問題視されている人間として。中学生と喧嘩をするのもしょっちゅうらしい。そう思ってみれば、背は宗太郎より頭半分くらい低いものの、その体つきはがっちりとしていて、ランニングから剥き出しになった腕など、あきらかに筋肉がついているのが分かる。子分のご注進に答えて、ついにおでましになったらしい。庸介は僕らをひとりひとり観察するように見てから、最後に宗太郎に目を留めた。
 そして、連れの四人を押しのけ、一歩前に出てくる。
「お前が仕切ってる奴か?」
「そういうことは決まってない」
「へえ?」
 そう返事をした宗太郎の固い顔を、庸介はじろじろと無遠慮に覗き込む。宗太郎は無言のまま、その視線を受け止めていた。
「へええ、まあいいや。ここは俺らが使う。文句があるなら聞くぞ」
 そう言いながらも、こちらの言い分など聞く気がないのは彼らの態度からあまりにもあからさまだ。
 そして、宗太郎は迷っている様子だった。彼はもめ事が大嫌いだった。けれど、ここをそんなに簡単に手放す気にもなれなかったのだ。
 だから、この選択に彼は答えを返せない。返したのは真哉だった。
「止めんなよ、ソウ!」
 そう叫んだものの、真哉は僕らに止める暇など与えてくれなかった。彼がその叫びと共に地面 を踏み切った瞬間、二メートルほど離れていた三人組は彼の体当たりを受けていたからだ。予想しえない不意打ちに、食らった三人はたまらずしりもちをつく。その体を踏みつけ、真哉は次に背の高い男へと飛び掛った。首筋に食らいつくようにしてぶら下がり、壁に男の頭をぶつける。
 突然後ろで巻き起こった騒ぎに、庸介は一瞬呆気にとられたようだった。しかし、背の高い男がやられた辺りには状況を把握できたらしい。目に強い闘志が宿り、彼は真哉と対峙するように向き直った。彼らの間は大股で五歩ほどの距離が開いている。今の真哉なら一跳びで到達できる距離だ。庸介はさきほどの真哉の人間離れした動きをまともに認識していないはずで、タイミングさえ間違えなければ、真哉の勝ちは確定だろう。お互いの隙をうかがうように、二人は睨み合い体勢を整える。
「シンヤ、伏せろ!」
 その時、急に素直がそう叫んだ。反射的に真哉は頭を下げる。すると、彼の頭の上のカーテンが突然横に吹っ飛んだ。まるで誰かが乱暴に薙いで開いたかのように不自然に。
「こいつもできるんだ、一緒だ!」
 素直が指差した先には、庸介が右手を振り切った姿勢のまま驚いた顔をしていた。みんなの視線が庸介に集まり、場が凍りつく。そこから一番に動いたのは当の庸介だった。
「んだと?」
 彼はそう呟くように言い、標的を変えた。真哉からは視線を外さなかったが、左手を素直の方へと突き出し握ったのだ。途端に、素直が小さくうめく。
 もちろん庸介の手が宗太郎の後ろにいた素直まで届くはずもない。だが、素直の服は何者かが掴んでいるかのように激しくしわを寄せていた。
「一緒ってなんだ、お前ら」
 素直の体はそのままずるずると後方に引きずられ、開いている窓に押しつけられる。素直の上半身が外へと乗り出した。そうなっても、庸介は真哉と対峙していた場所から一歩も動いていない。ただ、素直の方へ伸ばした手には明らかに力が込められている。
「見えるってのか!」
 庸介がそう叫ぶと、ぐらりと素直の上半身が揺れた。この状態では、僕も宗太郎も真哉も下手な手出しはできかねたし、千衣子などはボールペンを握りスケッチブックに向かった姿勢のままで凍りついている。
 もし素直が落とされた時は、僕が何とかしなければいけない、そうは思ったものの、人間一人を浮かばせたことは今までなかったのでできるかどうか分からない。不安な気持ちを隠しきれず宗太郎に目線を送ると、彼は大丈夫だというように頷いてくれた。
 あとは真哉がいつ動くかどうかだった。だったのだが、事態は意外な方向に動いた。
「ヨウスケ!」
 高い声と共に、入り口の窓から小柄な影が一つ飛び込んできたのだ。その影は庸介と素直の間に、何かをぶんと振り下ろした。
「つっ」
 すると庸介がうめき、素直の胸元のしわがたちまち消え失せる。かがみこんで咳き込む素直に、僕は慌てて駆け寄って具合を確かめた。苦しい息の下から、彼はこう洩らしてきた。
「……あの人も、一緒だ……」
 素直は、今助けてくれた人のことを言っているのだと僕にはすぐ分かった。
「ヨウスケ、何してるの!」
 そして僕が顔を上げると、新たな闖入者であるその少女は、長い黒髪を振り乱し庸介を叱咤していた。庸介は彼女の姿を見て、明らかに怯んでいる。
「スズノかよ。かんけーねーよ、てめーにゃ」
「関係あるわ。貴方のお母様からくれぐれもよろしくと頼まれてるんですからね」
「そんなんまともに聞くことじゃねーだろ」
「この状況を見る限り、聞いておいた方がいいと私は思うけど」
 涼乃の切れ上がった目がついと細められた。
「つまらない真似はいい加減に卒業したらどう。どうせ通知表を山に埋めにでもいくかと思えばこんなこと」
「うるせーよ」
 どうやら図星だったらしく、庸介の頬は紅潮する。だが、涼乃は追及の手を緩めなかった。
「それにさっきのはどういうこと。あれはなるべく使わないって話は……」
「おい、クツナ、女はだまってろよ!」
 その時、不意に二人の間に苛々した声が割り込んでくる。真哉になぎ倒された五年生四人組が、ここに至ってようやく口を出すきっかけを得られたらしい。彼らはさっきから何が起こっているのかがよく分かっていないようだった。
「何やってんだよ、ヨースケ」
「やるんだろ、やっちまえよ、こんな奴ら!」
「つったってんなよ!」
 一人が口火を切ると、次々に彼らは庸介を責め立てた。口では威勢はいいものの、さきほどの真哉の動きに恐れをなしているようで、僕らの方を不気味そうにちらちらと伺っているのがどうにも情けない。庸介は彼らを、次に涼乃を横目で見て、最後にちらと視線を床に落とした。その時、彼の肩がわずかに上下するのが分かり、僕は彼が胸の中でひとつ息をついたことを知る。
 そして、庸介は真哉に向き直った。
「ちょっと、ヨウスケ!」
 涼乃の咎める呼びかけも無視して、彼は真哉に語りかける。
「とりあえず決着つけとくか」
「いいぜ」
 真哉もまた頷き返した。両者は体勢を整え、油断なく構える。庸介の明らかに空手辺りをやっていそうな隙のなさに比べて、真哉のそれは適当もいいところだったが。ともかく、この二人は一度殴りあわないと気が済まないらしかった。僕の視界の端で、宗太郎と涼乃が苦笑しあって、目線を交し合っている。フォロー役同士では合意が成立したようだ。とりあえずやらせてみるらしい。
 本部に緊張が満ちる。決着は最初で大方決まってしまうだろうことは予想できていた。庸介の訓練された動きに勝つには、真哉は先制攻撃を成功させるしかない。
 だが、この二人が戦いは結局始まらずに終わった。
「きゃ……!」
 その緊迫した空気を、少女の悲鳴が切り裂いたからだ。千衣子の声だった。
 誰かが彼女にまで手を出したのかと、その場にいた全員が反射的に振り向く。しかし、彼女の側には誰の影もなく、彼女の視線は床に注がれていた。そして、彼女の手にはボールペンが握られていたのだ。
「……わ」
 そう声を発すると同時に、千衣子の手が大きく弧を描いた。
「た、し、は、ま、お、う」
 彼女は自らの手の動きに従って、読み上げているらしい。彼女の額に浮かぶ汗を見ると、それすら自由意志かどうか判断つけにくかった。彼女の手は止まらない。
「お、ま、え、た、ち、は……」
 ペンが紙の上を滑るざあっという音が不自然に伸びて響いた。
「し……ぬ」
 誰かが息を飲む音が響いた。千衣子の予言はそれでも途切れず、それどころかいっそう速く激しくなる。
「な、つ、の、お、わ、り、に」
 そこまでいった時には、遠くからでも彼女のスケッチブックが無数の線で埋め尽くされているのが見てとれた。
「わ、た、し、を、み、つ、け、た、お、す、な、ら……」
「バッカじゃねえのか、こいつら! おかしいよ、つきあってらんねえ!」
 彼女の託宣を妨げたのは、背の高い五年生だった。彼は一番千衣子に近い位 置にいたのだが、そう叫ぶなり近づいていって、彼女の手元をなぎ払う。当然、彼女の手に握られていたボールペンは吹っ飛び、遠くへと転がっていった。
「そ、そうだそうだ。つまんねえよ、そんなの!」
「それで俺らが怖がるとでも思ってんのか、ガキくせえよ!」
 彼らは怯えたようにそう追随した。弾き飛ばされた当の千衣子は何ひとつ反応せず、ぼんやりとボールペンがなくなった手元を見つめている。
「なにチーコに手ぇ出してんだ、てめーら!」
 代わりに真哉が吠え、弾き飛ばした当人は慌てて仲間のところへ逃げ帰る。状況はまた混乱しつつあった。それを治めたのは庸介の一言だった。
「おい、行こうぜ」
 目をむく五年生グループに、庸介は続けてこう促す。
「こんなつまんねーとこ、やっぱいらねえだろ。ガキくせえし。駅前のゲーセンの方がよっぽどおもしれーよ」
 その言葉に五年生グループは何となく納得したらしく、そしてまたこの場所や僕らが不気味にも感じたのだろう。そうだな、そうだよな、と言い交わし、庸介の言葉に従うことにしたようだ。彼らはわざとらしくだるそうな歩き方をしながら、窓から出ていく。
 最後に庸介が続き、しかし彼は窓から出たところでふと立ち止まり、こちらへ振り向いた。
「また来る」
 そう言った彼の声は坑道に届くほど大きくはなかった。そして彼はこちらの反応を見ずに、そそくさと去る。涼乃はここに残るか、彼らを追いかけるか迷っていたようだが、後者を選んだらしく、僕らにごめんね、と小さく頭を下げると、橋を渡って坑道へと消えていく。
 彼らの気配が完全になくなると、僕らの緊張は一気に抜けた。特に真哉は激しく、大きく息を吐き出すと、へなへなと床に座り込んでしまった。
「シンヤ、無茶すんな」
 宗太郎が苦笑しながら声をかける。真哉は顔を上げずに返事をした。
「だって奴らむかつくよ」
「そりゃそうだけど。でもまあ、助かった」
 そして、宗太郎は真哉の肩をねぎらうように叩いた。それでようやく顔を上げた真哉の表情は、誇らしげに明るい。
「チイは大丈夫か?」
「うん……」
 対して、千衣子はまだ放心している様子だった。彼女の手元には塗りつぶされて黒い雲が描かれているかのようなスケッチブックが転がっている。いつもはよく反応する宗太郎からの話しかけにもうわの空だ。
「チイもよくやったな。とっさにあんなこと思いつくなんてすごいよホント」
「わざとじゃないよ……」
 それは、見知らぬ人の前に出た彼女のいつもの態度によく似ていたが、あまりにも生気がなかった。
「にぃちゃん、あれ」
 その時、仁菜が指差したところを見て、僕はぞっとする。千衣子の右手はいまだペンを持ったままの形で固まっていたのだ。
「私は、魔王」
 さらに横でそうぽつりと呟かれ、僕の背中は毛羽立った。隣の素直もまた千衣子の手元を見つめて、心ここにあらずといった状態だ。彼の顔色は蒼白になっていた。

 こうして僕らの最後の夏休みは始まったのだった。

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