夏の魔王

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8月24日(日) 晴

 だれの言葉も本当に思えない。
 ぼくがおかしいんだろうか。

 うかつに電話もできないこの状況では、みんなに会うのにも苦労がいる。昨日、宗太郎のところを逃げ出すように飛び出してきた僕は、彼の電話なり訪問なりを待つか、自分から訪問するかの二択を選ばなくてはいけなかった。そして、昨晩に電話はなかった。宗太郎は僕に腹を立てているのかもしれない。そうすると、僕の方が宗太郎の家に赴くしかないのだ。
 それは憂鬱になる選択ではあったが、避けることはできない。僕は太陽が高く上がりだした町へと出ることにした。夏の暑さはいまだ去らず、肌が焼けつくような陽光に僕は少し安心する。まだ終わりじゃない。まだ時間はある。
 出来るだけ人のいない道を選び、人影が見えるとそこを避けて、宗太郎の家までたどり着いた。何度か振り向いて確かめたが、たぶん誰にも見つかっていないし、つけられてもいないはずだ。
 僕は宗太郎のマンションの裏手へと回った。ピアノの音がするので、誰かがレッスンを受けているらしい。宗太郎だったらうまく合図を送れるかもしれない。しかし茂みに隠れて覗いた居間には小さな女の子とピアノの横に立つ宗太郎の母親がいるだけで、彼の姿はなかった。
 僕は宗太郎の部屋の位置を知らない。それに家にいるかどうかも分からない。適当に見当をつけて小石でも投げてみようかと迷っていると、宗太郎の母親の視線がふとこちらを向き、目が合う前に僕は慌てて逃げ出した。
「どうしよう……」
 電話を試してみてもよかったが、宗太郎が出る確率は低そうだ。僕に残された手段はもう幾つもなかった。
 僕は人を避けながらとぼとぼと町を歩き、二つの道場が並ぶところまでやってきた。どちらも人気がなく、静まり返っている。張り紙のある方を通 り過ぎ、前にも訪れた玄関のチャイムを鳴らす。しばらく沈黙だけがあって、こちらもだめかと僕が去ろうとした時、中から足音が聞こえてきた。
「どなた?」
「ヒロキです」
 すぐに扉は引き開かれ、涼乃が顔を出した。彼女の手招きに応じて僕は中に転がり込む。
「どうしたの? とりあえず上がって」
 涼乃は僕をあの居間に通し、台所に消えていった。前の記憶が蘇って僕は落ち着かない気持ちになるが、今度は妹が乱入してくることもなく、麦茶のコップを載せたお盆を手に涼乃が戻ってくる。
「別に正座しなくてもいいのよ」
 その緊張が姿勢にも出てしまったらしく、涼乃は笑いながらそう言う。僕は少し恥ずかしくなって足を崩した。
「ハナザキくんから何か急な伝言?」
 作戦組と実戦組の連絡役はちょうど家族がいない涼乃と決まっていた。二十八日の作戦会議を待たずにやってきた僕に、涼乃がそう聞くのも無理はない。僕は首を横に振る。
「そうじゃなくて、昨日ソウくんと待ち合わせの約束するの忘れてて……会えなくなっちゃったんです」
 それを聞いた涼乃の眉根が少し寄せられたのに僕は気づく。
「だから、スズノさんに連絡きてないかと思って……」
「ハナザキくんからは何も」
 やはり宗太郎は僕に不信を抱いたのかもしれない。僕の気落ちを察したのか、涼乃の表情はますます曇った。
「喧嘩をしたの?」
「そういう訳じゃなくて……」
 僕はどう説明をしたら良いか迷う。庸介の話をしたら宗太郎を本当に裏切ることになるし、そこにまったく触れないのも無理そうだ。言葉を探す僕の口からこぼれたのは、昨日からずっと頭について離れない言葉だった。
「魔王のこと……」
「え?」
「ソウくんから魔王のこと、聞いたんですよね?」
「ああ、私達が必要とされてるって話?」
 頷いた僕は、涼乃の表情に困惑が混じるのを見た気がした。彼女はしばらく黙って机の上を見ていたが、やがて麦茶を一口含んでから喋り出す。コップの中で氷が音を立てた。
「そうね……ハナザキくんにも言ったけど、私はあまりそうとは感じないの」
 涼乃がとう感じているかをとても知りたかった。僕が半分身を乗り出すようにして促すと、彼女もまた体を前に傾けて囁いた。
「魔王は私たちをねじ伏せたいのよ。そのためにわざと泳がせてるんだわ」
「じゃあ僕らを捕まえたりしようと思えば」
「うん、出来るんじゃないかな。やらないだけ。それが楽しいのよ、きっと」
 指で短くなった横髪の先をいじりながら、涼乃は呟く。
「だから、相手が油断しているうちに食らわしてやるの。そうすれば勝ち目はある」
 確かに涼乃の考えは、宗太郎のそれとは少し違うようだった。彼女の表現する魔王は尊大で傲慢なイメージだ。
 その話に心がざわめいたのは確かだったが、やはり僕にはしっくりとはこなかった。宗太郎のも真哉のも庸介の魔王なんていないという言い分ですら考えてみれば筋は通 っていると思うけれど、僕を納得させない。みんな少しずつ合っていて、少しずつ違っているように思える。
「もう一度ソウくんとこ行ってみます」
 僕はまた落ち着かなくなり、立ち上がった。
「今度はうまく会えるかもしれないし」
「もうちょっと待ったらマツゾエくんが隣に来ると思うから、連絡がなかったか聞いてみたら?」
「あ、でも、来てなさそうだから」
 涼乃の勧めを反射的に僕は断ってしまい、それは僕の胸の中にわだかたまる宗太郎の告発のためだと気づいて嫌な気持ちになる。真哉と庸介が魔王に操られているという主張を鵜呑みにするつもりはなかったけれど、まったく気にしないという訳にもいかなかった。出来るかぎり会わないのが一番だ。
 外の道に誰もいないのを確かめ、僕は涼乃の家を飛び出した。宗太郎の家に戻る気はなかった。それどころかどこへ行っていいのかも分からず、ただ人を避けて町の中を歩き回った。誰にも見られないように、影のように。

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