夏の魔王

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おわり

 避難所に当てられたのは、崩壊を免れた小学校や中学校の体育館だった。近隣の都市からやってくる援助物資を目当てに、とりあえずこの町を出るあてがない人間たちはここに集まっていた。
 僕もまた、配給された毛布一枚を手に、隅の壁にもたれかかってぼんやりと中の風景を見つめている。
 百人に近い死者とそれよりも多い負傷者を出した今回の災害は、鉱山であった時代の置き土産である地盤の緩さと、ちょうどお昼時というタイミングの悪さが不運であったそうだ。たくさんの人が家を潰され、たくさんの人が家を焼け出された。彼らの表情は暗く、凍りついている。僕も似たような顔をしているのだろう。
「あ、いたいた」
 薄汚れた格好をした女性が僕を見つけて声を上げる。彼女は隣のクラスの担任だ。僕のクラスの担任は行方不明になっていた。
「こっちへいらっしゃい」
 彼女はいたわるように僕の肩を抱き、体育館を横切って外へ連れ出した。僕は唯一の荷物である日記帳を抱えて彼女に従う。
 今日は風が強い。すでに雲は秋の様相を漂わせ、平らく切れ切れに空を渡っていた。
 その薄い色の空の下、校庭にぽつんと人影が落ちている。
「仁菜……」
 父の姿がそこにあった。彼は僕の名前だけ呼ぶと、言葉に詰まってしまったらしく絶句した。先生がとりなすように僕の肩を優しく叩く。
「良かったわね、広木さん、お父さん来てくれて」
 僕は返事をせず、ただうつむく。
「ゆっくりとお話しされるといいわ」
 そして、僕は父と共に河原を歩いた。久しぶりに見る父の背中は覚えているものよりひどく小さく、しょぼくれていた。
「髪、短くなったなあ。別れた頃は三つ編みしてただろ」
「母さんが切ってくれたから」
「……母さんは、残念だったな」
 あの後、僕らはお互い話し合う間もないままに、山を下った。たどりついた古い家、僕の嫌いだったトタン壁の家は潰れ、焼けていた。駆けつけた僕は母を見つけることができなかった。瓦礫を浮かばせてみようと試しても、もう小石ひとつ浮かぶことはなかった。唯一僕が手に入れられたものは、外へと突き出していた机の、引き出しの中にあったこの日記帳だけだった。机自体は半分以上焦げていたが、これだけは何の具合か助かったのだ。
 母はまだあの瓦礫の下で眠っている。
「でもお前だけでも助かって良かった」
 疲れたように笑い、父は歩き続ける。僕は無言でその後をついていった。昔はよくこうやって散歩をした。父はゆっくりと歩き、僕はあちらこちらを探って宝物を見つけてははしゃいでいた。ノースリーブのワンピースから出た腕は真っ黒に焼けたものだ。
「仁菜、お父さんが単身赴任に行く前のことだけどな……」
 彼はもう僕のことをにぃちゃんと呼ばない。
「あの時のこと……」
 僕ももう宝物を拾わないし、それを箱に入れたりしない。
「夜のこと……」
 父の腕は細く筋張っていて、きっともうあんな力は出ない。
「覚えてたり、するか?」
 父の背中は震えていた。だから僕は答える。
「なんのこと?」
 母はもうこの世界にいない。素直の時と似たような、それでいてまったく違うような喪失感。きっと僕は母が嫌いじゃなかったのだ。
「あのな、お父さんの実家、ほら、一緒に行っただろ、海のとこ。覚えてるよな?」
 父は先ほどの質問をごまかすようにまた質問を重ねる。僕が黙っていると、さらに尋ねてきた。
「……お父さんと一緒に来るか?」
 僕は迷わなかった。

 荷造りの必要はなかったので、行政上の手続きだけで簡単に準備は済んだ。母の遺体はいまだ見つかっておらず、先に僕を引き取り先の実家に連れていくことにしたらしい。駅で父が僕に手渡した切符は、あの乗換駅までのものだった。思わずまじまじと見つめた僕に、父は不審気に声をかけてきた。
「どうした?」
「ううん、何でもない」
 僕と父の交わす言葉は少しずつ増えてきていた。そのうち不自然さもとれるだろうと思う。それが良いことか悪いことかは判断できないけれど。
「友達に挨拶とかは本当にいいのか?」
 父はおずおずとそう聞いてくる。僕は首を横に振ることで答えた。みんなそれぞれの事情を抱え、会えるかどうか分からなかった。それに会っても何を話してよいのか、たぶん別 れの挨拶をするだけになるだろう。
「そうか」
 僕と父は改札を通った。この路線の復旧は早く進んだようで、あまりダイヤは乱れていなかった。五分程度で電車は到着するはずだ。今度こそ本当に僕はこの町を出ていく。
 ふと、改札口の方が騒がしくなった。駅員らしき声と聞き覚えのある声が言い争いをしている。僕が驚いて顔を上げた途端、宗太郎の顔がそこからひょいと覗いた。
 宗太郎は改札を乗り越えんばかりの体勢で、こちらへがなってきた。
「ヒロキ、行くのか!?」
 駅員も彼を押しとどめるのを諦めたらしい。ただ横で侵入しないように見張っている。
「うん」
「そっか……寂しくなるな」
 父が手帳を一枚破り、住所を書いて彼に渡す。宗太郎は一礼してそれを受け取り、また僕へと目線を戻した。
「手紙、手紙書くよ」
 遠くから電車の走行音が響いてきた。割れた音声のアナウンスが流れ、数人の客がホームの端へと移動しはじめる。宗太郎はにわかに焦った様子を見せた。
「なんか、いっぱい言わなきゃいけないことがあった気がするんだ、でも思い出せない」
「うん」
 僕も出来るのはただ頷くことだけだった。
 ホームに赤い車体が滑り込んでくる。空気の吐き出される音と共に、扉が開く。父に促され、僕は宗太郎に向き直る。
「じゃあ、ソウくん、さよなら」
「ああ、手紙書く、絶対」
 電車の中はリノリウムの香りがした。後ろから宗太郎の声が追いかけてくる。
「ヒロキ、モトはお前のこと……」
 鉄の扉は閉まり、電車は動き出した。たちまち宗太郎の姿が、駅舎が、そしてあの町が後ろへと流れていく。
 山間に張りついたたくさんの屋根という窓から見える光景は今も変わらない。ただ、山の一部は滑り落ちて地肌が見えるところがあり、山の中腹に垣間見えていたあの灰色の建物群はもう跡形もない。
 それが僕の見たその町の最後の姿だった。

 そして、あの夏の記憶もここで終わりだ。
 今、私の前には海が広がっている。
 沖の方から一際強い潮風が吹きつけてきて、私の肩にかかる髪をなぶり、日記帳の空白のページを一気にめくっていく。日記帳の最後にその手紙は挟まっていた。私は日記帳を閉じて膝に置き、今度は手紙を開く。
 宗太郎からそれが届いたのは、三年近くが過ぎた後だった。宗太郎の特徴的な四角い文字で住所氏名が記された封筒には、ちゃんと切手が貼ってあり、消印が押してある。
 挨拶から入ったそれには、みんなの近況が綴られていた。
 真哉は父親の方がかなりひどい怪我を負い、後遺症に悩まされているという。これをきっかけに夫婦の不仲がどうも直ったらしい。彼らを助けようと真哉は張り切っているようだが、また頑張りすぎるのではないかと宗太郎は心配していた。
 両親共行方不明とされているのは千衣子だ。どうもあの時、千衣子を探して山に入っていったのではないか、と言われている。潰れた坑道や廃住宅の中にいたのなら助かってはいないだろう。彼女は親戚 の家へと引き取られていった。たまに手紙が来るようだ。
 庸介は兄を亡くしていた。倒れてきた棚に潰されたらしく、それは同じ病院に入院していた父の前で起きたようだ。体が不自由でなければ避けられたかもしれなかった。唯一の跡取りになった庸介だが、表裏が激しくなったと宗太郎は言う。
 涼乃は、家族こそ失わなかったものの、三人ともが重症に近い状態だった。彼らが帰宅途中に乗っていた電車がひっくり返ったからだ。家から離れた場所の病院に収容された彼らを彼女は通 いながら世話して、かき回された家の中も片付けたそうだ。一時は疲れ果てていたが、少しずつ落ち着いてきているとの話だ。
 そして宗太郎は家こそ無事だったものの、私と同じく母親をあの地震で失っていた。
 けれど、封筒の裏に書かれた宗太郎の住所は変わっていなかった。彼はまだあの町にいた。枷が消えたその時になっても。今もまだいるのだろうか。
 また吹いてきた海風に便せんを飛ばされそうになり、私は慌ててそれを押さえた。毎年この時期になると読み返しているだけに、手紙はすでに黄ばんでいてぼろぼろだ。
 夏とはいえ、お盆を過ぎたこの辺りの海はクラゲが多く、父の実家の近くのこの砂浜にも海水浴客はほとんど姿を見せない。麦わら帽子をかぶり直し、ほとんど暗記してしまっている続きを読み進める。
 微妙に大きさが揃っていない文字はためらいを匂わせながらも、文を綴っていく。宗太郎がずっと引っかかっていたこと。魔王のこと。
『改めて思う。魔王は俺達を救いたかったんじゃないかと』
 書き出しはこうだった。
『どうして魔王は俺達に予言なんてしたんだろう。重要なのはそこだった。そして自分を探せなんて言い出したんだろう。俺達を殺すつもりなら、不意打ちすれば良いだけだったのに。あの時にこのことに気づいていれば良かった』
 魔王に呑み込まれた宗太郎達は無傷で外に転がっていた。呑み込まれていた間の記憶はないという。
『考えれば考えるほど、俺達を守ってくれたような気がする』
 私は立ち上がった。スカートについた乾いた砂がぱらぱらとこぼれ落ち、それを追うようにゆっくりと下を向く。
 昼の日に照らされて足元に出来た影の中から、にゅっと幼い手が突き出していた。ようやく肘まで出てきたところだ。私はそっとかがんで手を伸ばし、自分の指を相手の小さな指に絡めた。
 私には宗太郎の気持ちは分からない。私は魔王に呑み込まれず、そしてまだ呑み込まれ続けているのだから。
 ゆっくりと引っぱると、闇から出た手と私の手は組み合わされ、手のひらが触れ合う。
 流れ込んでくる風景。
 海だ。
 今まさに目の前にある夏の海。
 波を蹴散らして仁菜は走る。脱げてしまったサンダルに当たった砂が潮に引きずられて、砂浜に曲線を何本も描いている。鴎が頭の上で鳴き交わして飛んでいる。たまに彼女は振り向き、二つの影が自分を見守っていることを確認する。
 仁菜はこの海をずっと前から知っていた。
 私はまだ仁菜の見ていた風景に馴染むことができない。闇から生えた彼女の腕は、その肘が全て見えたところで引っかかって動かなくなり、私は引っぱるのを止め指をほどいた。私と仁菜の間にはまだ越えられない溝がある。
 ふと目を上げると、波打ち際に藁舟が難破しているのを見つけた。誰かが海へと投げ入れたものが戻ってきたのか、それとも川からやってきたのだろうか。
 私はそれを拾い上げ、砂を払い、波に浮かべてみた。それは沈むことはなく、ゆらゆらと揺れる。やがて引いていく波にうまく乗ったようで、沖へと流されはじめた。
「ばいばーい」
 それを見送りながら、小さな仁菜のように私は舟に向かって手を振る。
 いつか私は仁菜をあそこから引きずり出すことができるだろう。その時には大きな藁舟を編もう。そしてその上にこの日記帳と手紙を載せるのだ。藁舟は海を渡り、母や素直の元へと届くだろう。

 その時、私のあの夏いっぱいの思い出は、あの町への、あそこに住む人々への、あそこから見えた風景へのお別 れになるのだ。

了.

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