夏の魔王

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8月31日(日) 晴

 先に書いておく。
 ぼくらは魔王を倒す。
 絶対に。

 僕はそれだけを書くと、日記帳を閉じた。本来なら寝る前に終電の音を聞きながら書くのが習慣だ。でも今日だけは出かける前に書いておかなくてはいけなかった。三年使える日記帳の表紙は布張りで飾り気はなく、中身はまだ半分にも達していない。それを机の一番上の引き出しにしまい、鍵を掛ける。
 窓から見える空は気持ちよい青色をしていて、高いところにむくむくとした雲が浮かんでいる。まるでいつもと何も変わらない夏の一日が始まるように思えるけれど、今日が最後の日なのだ。下から聞こえてくる嬌声にふっと目を落とすと、家の前の道路を数人の子供が駆けていく。去年の僕らのように、今日一日で遊び足りない分を取り返そうとがむしゃらな様子だ。僕は彼らを見送り、そしてそれに気づいてしまった。
「にぃちゃん……!」
 仁菜の呼びかけに僕は何かを言おうとしたが、口の中が一気に乾いてしまって声にならなかった。机の上に置いた指先がカタカタと音を立てている。
 もやがあった。駆けていく少年を追いかけるようにその踏んだ跡から吹き出すもや。電柱の影にたまっているもや。塀を、壁を、屋根を侵食するように広がりつつあるもや。
 ついに攻勢が始まったのだ。我に返った僕はベッドに置いてあったリュックを掴み、仁菜の手を取った。町は支配されつつある。すぐにここから逃げ出さなくてはいけない。まだ道路などは完全に覆われておらず、山にはまったく黒い影が見えなかった。
 階段を駆け下りると、テレビの音が耳に飛び込んでくる。すると仁菜が突然立ち止まり、僕は振り返った。
「どうした」
「ほんとにいくの?」
 仁菜は下を向いてしまって動かない。
「行かなきゃ殺されるんだぞ」
「でもお母さん置いて?」
 この状況で何を言い出すのかと、僕はいらいらして彼女の腕を引っ張った。こうしている間にも家の周りを包囲されてしまうかもしれないのだ。
「あの人はいいんだ」
 ガラス戸の障子にぼんやりと後姿が透けて見え、僕はそこから目をそらす。
「行くぞ」
 そして、強引に仁菜に言い聞かせ、外へと飛び出した。
 道の両脇に黒いもやは溜まり、もぞもぞとその体を動かしている。足を緩めるとたちまちそれに襲われそうで、僕はただ前だけを見て走り抜けた。山に入っても茂みの陰にまだもやは見受けられ、追い立てられた僕は足を止めることが出来ない。秘密基地の近くで、宗太郎と千衣子の姿を認めてようやく速度を緩めることが出来た。
「平気か?」
 よほど僕はひどい顔をしていたようだ。宗太郎がそう聞いてきたが、僕は息が切れてまともにしゃべることが出来ない。
「……あれ、もや……」
「うん」
 彼はいたわるように僕の肩を叩き、町を睨みつけた。
「ついに奴がやってきたんだ」
 素直の言っていた通りだ。あれが町を食い尽くした時、夏休みも町の人たちの命も終わるのだ。その前に魔王を見つけて倒さなくてはならない。
 ようやく僕の息が整った頃、庸介が姿を現した。彼は相変わらず憮然とした顔で押し黙り、ゆっくりと山道を登ってくる。その後ろから涼乃が後ろを振り返り振り返り、小走りについてくる。
「そっちはどうだった?」
「どうって?」
 宗太郎の問いに、彼は平然と答える。
「黒いもやだよ。どれぐらい出てた?」
「……何だ、そりゃ」
 僕と宗太郎は顔を見合わせた。どうやら庸介はあれに気づかなかったらしい。それとも気づいているのに無視したのか、嘘をついているのだろうか。代わって涼乃が質問に答える。
「かなり。なんとか道は歩けたけど、もう埋まってるかもしれないわ」
「もう町には戻れないな」
 宗太郎は呟き、僕は木立を透かして町を見下ろした。ざわざわとした気配が一帯を支配しているようだ。今まで潜伏していたそれは突然息を吹き返し、夏中蓄えていた力を解放している。
「やばい、きた、きてるって、どうする、殺されるよ!」
 遠くからそんな叫び声が響いてきた。文になってない単語をわめき散らして、真哉がこちらにすごい勢いで突進してくる。
「ほら見ろ、ヨースケ! いるじゃん、攻めてきてるじゃんよ!」
「分かった分かった、倒せばいいんだろ」
「あんなん無理だよ、倒せないよ!」
「へえへえ」
 庸介は呆れた様子で真哉を邪険に後ろへと押しのけ、構えてみせた。戦う気だ。
「バカ、無理だって!」
「とりあえずやってみるさ」
 庸介は本当に見えていないのだと僕は思った。今、あれが見えていたらそんな余裕が出るはずもないのだ。現に僕は足が震えてしまって動けない。
 木立の陰から、茂みの合間から、下生えの向こうから、黒いもやが攻めてきている。この山すらもう安全ではない。もやは一気に増殖しつつあった。まるで寄せてくる波のように、それは僕らを呑み込もうと迫ってくる。
「ヨウスケ!」
 涼乃が叫ぶが、庸介は振り向こうともしない。そして、それは一瞬だった。
 もやが鎌首をもたげた。当然見えていない庸介は上に注意など向けておらず、あまりにも無防備な姿をさらしていたのだ。黒い固まりは滝のように彼に降り落ちた。そして、ざあっと地面 に平らに広がった。
 庸介の姿はどこにも見当たらなかった。
「……作戦室に入れ!」
 硬直していた僕らの耳に宗太郎の指示が飛び込んでくる。気づくと広がったもやは足のすぐ近くまで及んでいた。悲鳴を上げる暇もないまま、僕らは踵を返し、坑道へと逃げ込む。走りながら振り向くと、宗太郎が入り口のところで留まって、大きく手を振っていた。途端、すぐそこまで迫っていたもやは彼の手前で何かにぶつかったかのようにべちゃりと広がる。しかし宗太郎は小さく舌打ちをすると僕らの後を追ってきた。
「塞ぎきれてない、隙間から来るぞ」
 僕らは作戦室に飛び込んだ。誰かがランプのスイッチをつけ、水色の光で辺りが照らされる。揃った顔の中に、やはり庸介のものはなかった。
「本部の方を見て、あっちも塞いでくる」
 宗太郎はそのことには触れず、そう言い捨てて作戦室を去った。残された僕らは不安げに押し黙る。
「なあ、ヨースケ食われちゃったの?」
 部屋の隅で膝を抱えて縮こまりながら、真哉がそう洩らす。
「俺らもああやって食われるの?」
 いつもならなぐさめ役に回る涼乃も、青い顔をしてうつむいたままだ。僕も返事をする気になれず、ただ仁菜を抱いて立ち尽くしている。
 その時、ザザザ、という何かが地面をこする音と微かな喘ぎ声のようなものが通 路の向こうから響いてきて、かき消えた。嫌な予感が全員に走る。涼乃が即座に作戦室から飛び出した。そして二分も立たずに戻ってきたが、彼女は一人だった。
「ソウちゃんは?」
 千衣子の問いに、涼乃は首を横に振った。
「引きずった跡があって……」
「うそ」
「崖の下の方にあのもやが……」
「神様、ソウちゃんは無事だよねっ!?」
 止める間もなく、千衣子は悲鳴のようにそう叫んでスケッチブックにペンを当てる。この状況下で当然まともにそれが発動する訳もない。最初の問いの答えさえ告げずに、ペンは暴走した。がくがくと千衣子の体を上下に震わしつつ、紙をはみ出す勢いでペンが走り出す。
「と、止めなきゃ」
 涼乃がそう言うも、手の出しどころが分からない様子だ。そうしているうちにたちまちスケッチブックは真っ黒になる。その時、突然真哉が動いた。
「チーコ!」
 千衣子に気を取られ、僕らはそれの接近に気づいていなかったのだ。気配を感じていたのは真哉だけだで、だから彼は吠えたと同時に地面 を蹴っていた。そして千衣子をかばうように覆い被さる。けれど、彼の行動は一歩遅かった。
 がばり、と地面から黒い幕が立ち上がった。それはあっという間に二人を包み込み、食らう。
「この……!」
 涼乃が手を振り上げて、その現場に突っ込んでいった。もやを払うように、その手を二、三度振るう。握る形からして、竹刀の複製を手にしているようだ。
 その彼女の剣幕に押されたのか、もやは散っていく。しかし、散った跡に真哉と千衣子の姿は現れなかった。
「ヒロキさん」
 涼乃は険しい目をして僕の方を振り返る。
「私達だけでもどうにか魔王を……」
 瞬間、涼乃の四方八方から、まるで食虫植物のように黒い柱が吹き上がった。そんなものに対抗しきれるはずもなく、彼女もまたその奔流に呑み込まれる。僕には成す術がなかった。ただ仁菜を抱えて、作戦室の壁にもたれかかっているだけだ。
 僕の前で黒いもやは一箇所に集まりつつある。それは次第にはっきりとした形を取り始め、一層その黒さを増しつつあった。
「にぃちゃん」
 僕の腕の中で仁菜が呟いた。
「呼んでる」
 もやは筒の形になり、やがてそこから次第に分化する。地面についた部分が二つに割れ、上部はくびれをともなって楕円球がそこに現れた。その球の下では細い棒二つが中央の太い筒から枝分かれし始めている。
「来いって言ってる」
 僕にはそんなものは聞こえない。仁菜をただ強く抱きしめ直し、壁に自分の体を押しつけるだけだ。
「ダメだ」
「だって、呼んでるんだよ」
 いくら耳を澄ましても、そんな声は僕の耳に届いてこない。仁菜は惑わされている。
 分かれきった上部の棒が二本とも、僕の方に差し出された。指はまだ出来ていないがこれは手なのだ、と僕は改めて認識する。魔王はいまや人の形をとりつつあった。黒いマネキンのようだ。
 見るのもおぞましく、僕は目をそらす。逃げ場はない。あの変化が終わった後に、僕もみんなと同じように食われるのだろう。
 仁菜が腕の中でじたばたと動いた。
「はなして」
 すっかり仁菜も魔王に操られてしまっている。僕はいらいらを隠せず、彼女を叱咤した。
「行くな、殺されるぞ!」
「なにいってるの、にぃちゃん」
 それに仁菜は大きな目を見開いて、心底意外そうにこう返してきたのだ。
「魔王はころさないよ。つれてくだけだよ」
 その言葉に驚き、僕の手は思わず緩んでしまった。その隙を彼女は逃さず、するりと抜け出てしまう。しまったと思った時はもう遅かった。魔王はその腕で仁菜を抱き上げ、胸へと押し込んだ。黒いもやに包まれ、彼女の姿が消える。
「返せ!」
 僕はかっとなり、次の瞬間、恐怖も忘れて魔王に飛びかかっていった。仁菜が引きずり込まれた胴体に飛びつき、自分の上半身を突っ込む。もやは水のように僕の体を呑み込み、目の前は真っ暗で何一つ見えなかった。声にならない叫びをあげて、僕は両手を精一杯その暗闇に伸ばす。その指先が何か暖かいものに触れた。小さな手だ。仁菜の手だ。ぎゅっと僕の指を握り返してくる。
 途端、僕はすごい勢いで後ろに引っ張られた。握った手はほどけ、黒い世界から水色の世界へと引き戻される。しばらくは何が起こったのか分からなかった。自分が地面 に放り出され、魔王に見下ろされていると気づくまでは。
 僕と魔王は顔を見合わせ、僕に恐れが再び蘇ってきた。魔王の顔はのっぺりとして目どころか鼻すらなかったが、睨まれているということだけは感じ取れた。魔王は僕を殺すだろう。その手を僕の首にかけるだろう。
 けれど、そうはならなかった。
 地に這いつくばる僕を置いて、魔王はぐるりと方向を変えた。そして、背を向けて作戦室を去っていく。僕はまず呆気に取られ、続いて悔しさが心の底から湧き上がってきた。
「待て!」
 叫ぶと、ぼろぼろと涙が両目からこぼれ落ちてくる。止めることはできなかった。
 ようやく僕は分かったのだ。みんなが魔王のことを語る時に感じていた、あの違和感の正体を。
 魔王は僕を必要としないだろう。魔王は僕をさらいはしないだろう。魔王は僕を殺すことすらしないだろう。だから僕は何よりも魔王が恐ろしかった。
 そして、その予感は現実になっている。
「待て!」
 通路へと出た魔王に、再び僕は飛びついた。背中側から頭を突っ込み、腕を伸ばす。まだ間に合うはずだ。まだ仁菜を取り戻せるはずだ。息はできず、音もなく、何も見えない闇が広がる。ぬ るぬるとした感触が指の間を流れていく。そして、僕はついにまた手の感触に行き当たった。急いでそれを握り締める。
「お前がいるから、母さんはこんなとこで我慢してやってるんだ! 分かってんのかい!」
 不意に怒鳴り声が炸裂した。その剣幕に、僕は反射的に身をすくめ、手を離してしまう。やっと掴んだ手のひらの感覚はたちまちどこかへ流れ去った。
 あれは仁菜の手じゃない。思い返せば、僕の手より大きく固かった。しかしあの声は一体誰のものだろう。
 深く考える間もなく、また僕の指先に何かが触れる。僕はそれを握る。
「お母さんを守ってくれるわよね。あの人と違って、見捨てたりしないわよね」
 耳元に懇願の囁きが響いた。僕は手を離す。するとまた静寂になる。
 僕はとにかく仁菜を見つけたかった。仁菜の手を探し求めた。暗闇の中で幾つもの手を握り、手を離した。
「なんてだらしのない子なの。恥ずかしくて外を歩けないわ」
「ちゃんと言うことを聞けば、幸せになれるのよ。お父さんやお母さんをあまり心配させないで」
「帰りましょう。ね、帰らないとお父さん怒るわ。ほら、相談所の皆さんにもご迷惑でしょう。貴方は大げさなんだから。ちょっと稽古でしごかれたのよね?」
 叱りつける声、なだめる声、おどおどと諌める声。どれも僕が探しているものではない。僕は暗闇の中をひたすらに掻いて求める。ただひとつの声を。
「おやつの時間よ、にぃちゃん」
 そして、見つけた。
 仁菜の小さくて柔らかい手。
 突き出された彼女の小さな手を握り返す。彼女の話してくれたあの思い出が僕の中に少しずつ流れこんでくる。声だけでなく、すべての情景が僕の前に広がっていく。
 仁菜を呼ぶのは母の声だ。
「ホットケーキだ!」
 仁菜はぱたぱたと廊下を走って台所に飛び込んだ。母がフォークとナイフを横に並べてくれる。
「ニナはね、おかあさんのホットケーキがいちばんすき」
「本当? 嬉しいな」
 母は笑みをこぼす。幸せな光景。
「こんなの嘘だ」
 僕は思わずそう呟いていた。するとふっとその光景がかき消え、また視界は闇に包まれる。右手はまだ仁菜の手を掴んでいた。もう片方も掴まなければ、ここから引きずり出すのは難しい。闇を探ると、首尾良く左手も見つかる。
 握ると、別の場面が現れる。
 父と母に挟まれ、駅までの道を歩いた。仁菜の肩からかけられた水筒は重く、少し歩きにくかったが気にならなかった。何しろ電車に乗るのだ。それだけではない。行き先は遊園地なのだ。足は自然に弾み、暑さも気にならない。
「違う!」
 僕の口から叫びが洩れた。
「電車なんか乗ってない!」
 気づくと、また暗闇に帰っている。両手で仁菜とつながった僕は、今度は両足の具合を確かめる。下半身はこのもやに呑み込まれておらず、足の裏からはしっかりと地面 を踏みしめた感触が伝わってきている。このまま力をこめ、一歩一歩後ろに踏み出していけばいい。
「にぃちゃんは女の子だから、いつかお父さんのところから去ってっちゃうんだろうなあ」
「ニナ、どこにもいかないよ」
「そうかそうか。じゃあお父さんと約束な」
 まとわりつく情景を振り払い、僕は後ろへと下がりはじめる。
「おとうさん、かえりおそいね」
「そうね。もう寝なさい」
 さほど抵抗はなく、ずるずると仁菜の体は引っぱり出されてきているようだ。自分のひじすら見えないし、声も聞こえないので、彼女の状態は分からない。
「毎日毎日遅くまで大変ね」
「仕事だよ。うまく行けば栄転もありそうなんだ」
「へえ、そう。そんなにここから出ていきたいの」
 息が苦しい。それにひどく嫌な予感がする。意識が朦朧としてきて、段々と仁菜の手から流れ込んでくる風景が濃くまとわりついてくる。振り切るのが困難になってくる。
「本当のことを言ってよ!」
「よせ。仁菜も見てるだろう」
「いつもそうやってごまかしてばっかり!」
「嘘なんてついてない、いい加減にしろ!」
 苦しい。苦しい。早く外に出なければいけない。でも、何かが引っかかっている。僕の頭はまだ闇の中から抜け出ていない。かなり後ろに下がったのに。何かが僕を引き止めている。
「にぃちゃん、おいで」
「まだごほんなの」
「いいから、ほら」
 絵本を読んでいた仁菜を抱き上げ、彼女は頬擦りをしながらこう囁く。
「にぃちゃんはパパがいなくても平気よね」
 仁菜はその声の調子に不吉なものを覚えながらも、ごく自然な疑問を口にした。
「パパ、どこかいっちゃうの?」
「パパはね、悪い人に連れ去られちゃったの」
「でも、パパそこにいるよ」
 仁菜のすぐそばで父はテレビを見ていた。彼はこちらに背中を向けたまま、何も反応しない。
「いないのと同じなの」
 仁菜は彼女が何を言っているのか、理解できなかった。だから母の腕にしがみついて、叫ぶようにこう尋ねる。
「なんで? なんで? 悪い人ってだれ?」
「さあ、誰でしょうね。にぃちゃんは誰だと思う?」
 質問に質問で返され、仁菜の頭は一層混乱した。おろおろと母の横顔を、それから父の背中や辺りの部屋を見回した。下手なことを答える訳にはいかなかった。母の目は笑っていなかったからだ。そして、ようやく仁菜は答えになりそうなものを見出した。先ほどまで読んでいた絵本に描かれていたもの。息子がいくら訴えても父には見えなかったもの。
 仁菜はその名を呟く。
「……まおう?」
 途端、母の表情が凍りついた。しかしそれは長く続かず、仁菜の視線の先を窺った彼女は唇に笑みを乗せる。
「ああ、まおうって魔王のことなのね。ああそう、もう、驚いちゃったじゃないの」
 そしていかにも愉快そうに笑いまで洩らしはじめた。仁菜は自分の発した答えが正しかったのかどうか分からず、ただ彼女の背中に腕を回した。きつく密着したためか、母の体の温もりが一層伝わってきた。
「にぃちゃんは魔王にさらわれたりしたらダメよ。パパみたいになったらダメ」
 そう言いつつ、母は父に背を向けた。母の肩越しに見える父の背中が細かく震えているのが仁菜には分かる。
 そうだ、お話の通りならさらわれるのは子供なんだ、とその時思ったことを仁菜は覚えている。そして父親は子供がさらわれるのに気づかないのだ。
 これ以上は駄目だ。僕は強くそう思い、もがいた。こんなことは覚えていない。僕が覚えているのは……あの風呂場からだ。
 全身が濡れていた。お気に入りのワンピースもほどけた髪の毛も何もかも濡れ、肌にまとわりついていた。夏の始まりの日。傍らに立つ母もまた濡れていた。
 首筋にはさみの刃の当たる、ひやりとした感触が走る。僕はただ鏡の中の自分の姿をじっと見ている。
「仁菜は悪い子だからね」
 ばつん。
「いらないのよ」
 ばつん。
「だから……」
 魔王が連れていったんだ。この音もなく息も出来ない世界へ。
 首に手が巻きつき、力がかかる。僕の口から幾つもの泡があふれ出て、空へと吸い込まれていく。空はゆらゆらと歪み、それを透かして誰かが……母が僕を覗き込んでいる。光る二つの眼。
(コンナチイサイクセニイロケヅイテ……)
 母の顔には何故だか憎しみは見当たらず、ただ泣きそうに歪んでいた気がする。
(アンタガサソッタンデショウ!)
 緑とオレンジのチェック柄が視界に広がる。彼女の顔が見えなくなる。
 苦しい。息苦しい。
 浮かびたかった。浮かばせたかったのだ、僕自身を。
 僕は死にたくなかったから、僕の力はそういうものだった。
 まだ僕はこの魔王の闇から抜け出せない。後少しのはずなのに、どうしても足が後ろに進まない。僕の奥の方で、まだだ、まだだと誰かが叫んだ。
 子猫は人間の匂いをつけたから見捨てられ、殺された。じゃあ僕に匂いをつけたのは誰だ?
(……ニィチャン)
 耳元で囁く声がした。奇妙な匂いが僕の鼻に届く。これは、酒の匂い。
(ニィチャンハ、ドコニモイカナイヨネ?)
 男の声だ。
(……ウサンノコト、スキダヨネ?)
 不意にお腹の下の方に鈍い痛みが走る。
「いやだ!」
 声になるはずもないのに僕は叫び、最後の力を振り絞って後ろへと倒れ込んだ。闇から僕の体はずるりと抜け、空気が僕の鼻や口に滑り込んできた。
 気がつくと、僕は地面にしりもちをついていた。そして、僕の手はまだしっかりと何かを握っている。見上げれば、魔王の背中から仁菜の手のひらだけが突き出ていて、僕はそれとつながっていた。
 魔王は気づいていないのかまったくの無反応で、今だったら簡単に仁菜をそこから助け出せそうだ。
 けれど、僕の両手からは力が抜けていく。きつく組み合わさっていた指がほどけ、僕の両手は地面 に落ちた。小さな指が僕の指を探して宙をかく。僕はそれを見つめていた。幸せな仁菜。
 僕はきっとずっと前から分かっていたのだ。
 仁菜は僕の重荷だった。仁菜さえいなければ、僕はあの家から、この町から出ていけるのだから。
 仁菜の手が僕を招くように動く。僕は首を振り、それを拒絶する。
「もう帰らない……あそこには」
 その瞬間、たくさんのことが一度に起こった。
 轟音と共に、何か板のようなものが天井を突き破って降ってきた。ばらばらと土片が僕の上に降りかかる。僕と魔王の間に突き刺さり、作戦室の入り口に扉のようにそり立っているそれを、僕はどこかで見たことのあるような気がしてならなかった。しかし、それを考える暇は与えられなかった。
 地面についた手のひらに振動が伝わってくる。途端、異様な音が僕の体を突き抜けていく。まるで列車がやってくるときのような、低い地鳴り。
 僕はようやく悟った。仁菜の言葉が耳に蘇る。
「魔王はころさないよ」
 死をもたらすのは魔王ではない。
 夏の終わりの死は今から来る。遠くから足音を響かせてやってくる。
 瞬間、轟音と衝撃が僕を襲い、降りかかり、突き上げ、揺さぶった。そしてすべての音が消え、すべての光景が混じり合い、すべての感覚がなくなり、すべてが分からなくなる。
 僕は闇に呑み込まれた。

 初めに感じたのは、口の中に広がる土の味だった。固くぼそぼそとした土で、石も混じっているのかちくちくする。
 辺りは暗く、体中がひどく痛む。僕は額をぬぐい、無理やりに目を開ける。ぼやけた視界は徐々にはっきりとしてきて、手についたぬ るりとした感触のものが赤い色をしていることも分かった。それでも、突き刺さるような痛みがないということは、大したことないのだろう。
 どこかから夕方の光が差し込んできていた。ようやく僕は自分のいる場所を認識しはじめていた。狭い場所だった。僕は寝転がっていて、顔のすぐ上に天井が迫ってきている。その天井はどうやら何本もの木で組まれたものらしく、ささくれだったその表面 を僕はぼんやりと見つめる。
 その時、不意に頭がはっきりした。これは僕の前に降ってきたものだ。そして、これは庸介が組み上げ、僕が空へと飛ばしたあの橋だ。
 首を動かして辺りを窺うと、足の方からなんとか出れそうだったので、僕はそろそろとその狭い空間から這い出した。今の状況は分からなかったが、ここにいるとそのうち押しつぶされそうだったからだ。外に出て確かめてみると、僕のその考えは正しいことが証明された。僕の体を覆っていたその橋の上には、大量 の土と石が被さっていて、今にも崩れ落ちてきそうだったからだ。
 見回せば、そこは確かに作戦室の中に違いなかった。けれど、地面は土砂に埋もれて僕らの荷物は何一つ見えず、天井の一部は崩れ落ちて空が見えている。僕は足元を確かめながら積もった土砂を登っていき、外へと脱出した。
 坑道はすっかり崩れていた。這い出したところからはかつての本部、廃住宅を見ることが出来た。けれど、僕はすぐにそれと認識できなかった。なぜならそこはめちゃくちゃに崩れ、壊されていたからだ。見渡す限り、原型を留めている廃住宅はなかった。山の木々も折れ、倒れ、地面 にはひびが入っていた。
 反対側に振り向けば、町が見下ろせる。僕の眼前に広がる町の風景もまた、知っているものとは一変していた。建物はそのほとんどが崩れ、ところどころから火の手が上がっている。町は煙に覆われ、それはまるで黒いもやがかかっているかのように僕には見えた。
 僕は呆然と立ち尽くす。どれぐらいそうしていただろうか、どこかから人の声らしきものがした気がした。
 慌てて探せば、少し離れたところ、坑道が崩れたらしい場所に土に埋もれながらも人の背中が幾つか見える。数えると、それはちゃんと五人分あった。転げるように走って近寄り、息をしていることを確認する。
「起きて、みんな、起きて」
 僕は一人一人の背中を揺さぶって、意識を取り戻すのを待った。

 八月三十一日午後十二時四十二分、震度六。
 それが僕らの町に与えられた記録だった。

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