夏の魔王

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8月20日(水) 晴

 今日は全校登校日だった。
 学校は好きじゃない。
 特に今はみんながいやな目で見てくるから。

 学校は噂で満ちていた。
 校門から一歩入るだけで空気が変わったように思える。それは校舎の入り口、教室のある階と進むたびに強くなり、教室の扉を開けた時には間違いようのない好奇心と敵意の視線が僕へと突き刺さった。思わず同じクラスの宗太郎の姿を探すと、彼は教室の一番後ろの席で腕組みをしていて、片眉を上げた表情で僕に気分を表してきた。
 これでは他のクラスに行くことなんてできやしない。今日の作戦はだいなしになりそうだ。
 千衣子の親は世間体を気にしている。だから、さすがに学校の登校日を休ませることはしなかったらしい。それにお盆も終わって、仕事がはじまった父親が四六時中はりついていられる訳もない。つまり今日が話をする最大のチャンスだと、僕も宗太郎も意見が一致していたのにクラスメイトの好奇の目を甘く見ていた。これは周り中から監視されているのと同じだ。
「……魔王だって」
「それで逃げて……」
「だって、うちの親も捜しに……」
 囁きの断片だけが耳に入ってきて、気持ちが悪い。僕は無言のまま自分の机に行き、着席した。そして机の天板の上に両のこぶしを載せてそれを見つめ続けた。登校日は半日で終わるのだから、少し辛抱していれば済む。宗太郎もきっとそうするだろうと僕は判断していた。彼はわざわざ自分から喧嘩を売るようなことはしない。
「おい、ハナザキ」
 けれど、売られた場合は別だ。
 今まで遠巻きに僕らを見ていた男子の一グループが、ついに宗太郎に近寄っていって声をかけた。
「三組のツネカワを殺したってほんとかよ」
 背中の方から聞こえてきたそのあまりに直接的で無礼な問いかけは、僕の目の前を真っ白にした。僕は振り向こうとしたが、全身が固まってしまったかのように、動くことができない。一切の音が消えてなくなり、僕の頭の中に差し込まれてくるものは、その同級生たちのからかい混じりの声だけになった。
「やばいって。相手すんなよ」
「やめとけよ、あの五年にシめられっぞ」
 耳を塞ごうとしても、机の上の手はぶるぶると震えるばかりだ。
「だって、人殺しと一緒のクラスになんていれないだろ? はっきりさせとこーぜ」
「でもよー」
「ハナザキ、お前ら五年に命令されてツネカワ突き飛ばしたって話だけど。そんでこわくなって逃げ出したって。ケーサツにつかまったくせになんで学校出てくるんだよ」
 背中に嫌な汗が幾筋も流れるのを僕は感じる。宗太郎の声は聞こえない。彼もまた、僕と同じように固まってしまっているのかもしれない。
「何とか言えよ」
 彼らの声は耳のすぐ側で響く。僕は答えようと口を開けたが、そこから漏れてくるのは空気ばかりだ。
 大体、何を答えればいいんだろう。素直を殺したのは魔王で、僕らじゃないなんて言う訳にはいかないし、言っても信じてもらえない。味方はいない。僕はその占いの結果 をもう一度噛み締める。僕ら以外に魔王を倒せる人間はいない。
「無視してんじゃねーよ、人殺し!」
「おい、何をやってるんだ、お前達!」
 詰問は担任の登場で遮られた。同時に教室に張り詰めていた雰囲気が破れ、蝉のわななきと熱気がたちまち教室に流れこんでくる。
「とっくにチャイムは鳴ってるぞ、座れ座れ!」
 彼は教卓を出席簿でばんばんと叩き、それに促されるようにそれぞれが自分の席につく。その時になって、ようやく僕も顔を上げることが出来た。額から垂れ落ちた汗が机の天板に水玉 となっている。
「まったく、珍しく静かに待ってると思やぁ……出席とったら体育館に移動! すぐに並ぶこと!」
 欠席者を確認すると先生はさっさと教室を出ていってしまった。皆は全校集会に出るために移動をはじめる。勢いを削がれたためか、先ほどの詰問は再開されず、宗太郎も僕も誰にも話し掛けられることなく廊下を歩いていった。昨日の真哉とのこともあり、僕から宗太郎に近づくこともしなかった。
 それにまださっきの感覚が残っているようで、目の前の光景がぐらぐら揺れて見え、辺りの音が妙に反射して耳に響く。それは体育館に入るといっそうひどくなり、囁き交わされる声はすでに人間のものとは思えなかった。
 暑い。汗がまた背中を流れ落ちている。
 群れる人々の口から零れ落ちる中でただひとつ聞き取れるものは、魔王という単語だ。誰もかれもがその噂を交換している。
「しぃぃぃずぅぅかにぃぃぃぃぃしぃぃぃずぅぅかにぃぃぃぃぃ」
 高音の叫びが頭の上を通過していった。途端、場は静寂に包まれる。けれど先程まで溢れていたあの単語は、まだ消えずに辺りを漂っているのだ。まるでその名の主を呼ぶかのように。
「きょうはみなさんにかなしいおしらせをしなくてはなりませんみなさんのおともだちがこのなつやすみにふこうなじこにあったのですほんとうにかなしいできごとです」
 流れていく音は言葉として聞き取れなかったが、意味だけが頭の中に落ち込んできて理解できた。同時に、どうしてこんなところに自分がいなければならないのか、一層分からなくなってきていた。
 素直がもういないことなんて、いちいち聞かされる必要なく知っている。もう悲しいとか寂しいとかそんなことは言っていられない。だから、体育館のそこかしこから聞こえてきた唸りのような嘆きが耳障りだ。素直が何を考えて線路へと飛び出したのか、誰も知らないくせに。
 そして、魔王を倒さなければ殺されることを。ここの皆だって同じようにいなくなることを。
 ここにいてはいけない。僕は再び強く思った。ここは自分のいる場所ではない。
 僕はふっと床から壇上に目線を移した。色とりどりの花が刺さった大ぶりの花瓶が一番最初に目に入る。僕はそれをまっすぐに腕を伸ばして指差した。周囲の人間がその動きに気づいた様子を見せるが、構わない。
 指を少し動かすと、途端に花瓶は跳ね上がった。当然、たっぷりと水の入れられた花瓶にそんな乱暴な動きをさせて元のところにうまく戻れる訳もなく、それはバランスを崩し、台から転げ落ちる。水と花と破壊音を撒き散らして、花瓶のかけらが舞台上に散乱した。
 悲鳴が上がり、皆が浮き足立つ。僕は続けざまに舞台脇の幕を天井につくぐらい浮き上がらせ、すぐに解除をした。そして、体育館中の人がその派手なはためきに目をとられている隙に、校庭へと駆け抜ける。誰にも呼び止められず、僕の脱出は成功した。
 外へと出た途端、眩しい日差しが僕の瞳を刺し、山から吹き降りてくる砂っぽい風が僕の全身をなぶった。目が痛い。砂が入ったのか、頬に涙が幾筋も伝っていくのが感じられる。しきりに拭き取ったが止まらず、僕は目を瞬かせながら、上履きのまま校庭へと足を踏み出した。涙のせいか校門は遥かにかすんで見え、全身の気だるさは抜けず足は重い。
 なんとか半ばくらいまで歩いた時に、昼日にさらされて一面真っ白な校庭に、ぽつんと小さな影が一つ落ちているのに僕は気づいた。それは見覚えのある姿だった。
「どうして……?」
「にぃちゃんが呼べば、ニナは来るよ」
 綺麗に日に焼けた腕を仁菜は僕に差し出す。僕はただ彼女の前に立ち尽くし、首を横に振った。彼女は首をかしげて少しの陰りもない笑みを浮かべた。
「ニナがいるから、にぃちゃんはだいじょうぶ」
「魔王が来る」
 仁菜の小さな手が僕の濡れた手を掴んだ。僕は構わず言葉を継ぐ。
「死んでしまうんだ。殺されるんだ、みんな」
「ころさないよ」
 僕は仁菜に手を引かれ、校門をくぐる。いつのまにか涙は止まっていた。遠く体育館から拡声器の響きがここまで届く。
 そして分かり始めていた。いくら予言に否定されていても、僕はここに期待していたのだ。何も共に戦ってくれるとまでは思わなかった。ほんの少しだけ、僕らのことに気づいてくれれば良かった。けれど、彼らは僕らを人殺しと呼んだ。ここにいることすら許してもらえない。
 じゃあどこに行けばいいのだろう。
 打ち水で湯気たつアスファルトを踏み、庭木の梢の下をくぐり、僕と仁菜は歩いていく。やがてあの踏切臨む坂のてっぺんにたどり着き、僕は水色のトタン壁に息をのんだ。
「家はいやだ」
「でも、お母さんが」
「待ってないよ」
「にぃちゃん」
 仁菜の表情があからさまに曇った。僕は仁菜がどうして彼女にこだわるのか、それだけは理解できない。彼女が僕を必要としたことは一度もなく、これからも永遠にないだろうから。
 仁菜に促されて仕方なく家に入ると、変わらず居間からテレビの音が漏れ聞こえてきた。
「ただいま」
 障子を隔てて声をかけたが返事はない。仁菜は半分泣きそうな顔になって、僕の横に立っている。母はほとんどの場合、僕なんていないように振舞うからこれは当たり前なのに、仁菜は希望を捨てきれないのだ。それは僕がさっき学校に抱いたものに似ているのかもしれない。
 部屋に戻った仁菜は僕にこう話し掛けてくる。
「お母さんは疲れてるの」
 僕は何も言わずにただ頷く。
「もうすぐ元のお母さんに戻るよ」
 仁菜はありえない夢を語る。母が昔焼いてくれたホットケーキの味。汚れて帰ってきた時に笑って服を脱がされ、その傍らで洗濯機が回っていたこと。母と父に連れていってもらった遊園地の話。
 どれもこれも僕の記憶にはないことばかりだ。それに対して僕が出来ることといえば、微笑んで聞くことだけだったのだ。

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