夏の魔王

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8月13日(水) 晴

 魔王はすべてをこわしていく。
 ぼくは一人でもたたかうことにした。

 アスファルトにくっきりと濃い影が落ちている。昼の町はゆらゆらと陽炎が踊り、全体的に白く光っているかのようだった。夏の光が剥き出しの腕を焼いているのがよく分かる。
 借りている麦わら帽子が有り難かった。しかしこれは今から返すもので、帰り道はどうしようかと僕は思う。
「今日こそアイスね」
 仁菜ははつらつと僕についてくる。
「カップにしろよ」
「いーや!」
 またやらせる気だ。僕はただ肩をすくめるだけで返事をしなかった。止めても彼女はやるに決まっているからだ。しかし、彼女はまたアイスを食べ損ねた。
 みよし屋のシャッターは今日も閉まっていた。
「旅行かな」
 例えば、おばあさんの息子とか娘が迎えにきたのかもしれない。去年は変わらず営業していたと思うが、そういう事情なら今年はお休みということも充分ありえた。この帽子を返すのはお盆が終わってからになりそうだ。
「あら、みよし屋さんにご用?」
 突然後ろから声をかけられ、僕は振り向いた。そこには自転車を引いた中年の女性が立っている。
「あ、はい」
「残念だけど、みよし屋さんもうやらないわよ」
 どうしてですか、と僕が尋ねる前に女性はその理由を口に出した。
「おばあさん、ついこの間お亡くなりになったのよ」
 嘘だと思った。そして、素直の時も嘘じゃなかったことを思い出した。頭の中でいくつかの棘棘した光が弾けるような感覚を覚えた。この女性が嘘をつく理由はない。
「ほら、とても暑い日があったじゃない? お年よりには辛いものね」
 黙ってしまった僕を気遣うように女性は自転車を止め、近づいてくる。白粉の匂いがふっと匂ってきた。
「顔色が悪いわ。日射病になるといけないから、お菓子を買うならスーパーとかに行きなさいね」
「……はい」
 僕はうつむきながらも、ようやくそう返事をする。女性は満足したように頷くと、また自転車のところへ戻っていってサドルに腰掛けた。そしてジャアッとゴムタイヤをアスファルトに擦らせて発進する。その音が聞こえなくなるまで、僕は動かなかった。
 魔王だ。
 先回りして、味方になりそうだったおばあさんを殺してしまったのだ。大人に味方がいないというのはこういう意味だったのだ。
 もう誰も頼れなかった。宗太郎たちは家に縛り付けられているだろう。他の大人たちは信じないか、手先にされるか、殺されるだろう。
 そして僕らも殺される。夏の終わりに。
「いやだ!」
 突然、仁菜が叫んだ。
「ニナは、しぬのは、いやだ!」
 それは今までどちらかというとおとなしい性格だった仁菜の突然の激昂だった。だから僕は応える。
「戦おう」
 仁菜の叫びは僕の叫びだからだ。
「魔王をやっつけよう」
 もはやそれしかなかった。誰も一緒にいてくれなくても、誰も認めてくれなくても、魔王を倒すしか助かる道はなかった。
 僕は麦わら帽子を深くかぶり直し、みよし屋の前を離れた。

 決心をしたためだろうか、家の門前に出っ歯の男を認めても、僕の心はわずかにざわついただけで済んだ。いつか彼らは現れると分かっていたためもあるだろう。僕らが捕まったすぐ後の交番などには、千衣子の親辺りによって追っ払われていたらしく、姿を見せなかったが。
「今回は大変だったねぇ」
 彼はにやにやと笑いつつ、僕に寄ってくる。一見友好的ではあるが、その裏にはなんとか僕を打ちのめしてやろうという厭らしさが見え隠れしていた。前の時よりもそれを強く感じるのは、彼が僕らのしっぽを捕まえたと思っているからかもしれない。
「マオウ、やっぱり君も知ってたんじゃないか」
 彼の口から出てくる魔王という単語は、僕らのアクセントとはまるで違っていて一つの名前のように聞こえた。
「マオウって一体誰のことか、そろそろ教えてくれないかな?」
 一瞬、彼の言っていることが分からなかった。理解すると、どう答えてよいのか分からなくなった。この記者は、魔王が誰か人間のことを指すと思っているのだろうか。しかしこいつは魔王の手先になっているはずだ。だとすると、この質問は何を僕から聞き出そうとしているのだろうか。
 記者は僕の混乱に気づかず、手元のメモをめくって質問を続けてきた。
「今回、一緒にいた友達だけど……ちょっとおかしいよね、君は四年生なのに五年生が混じっているってさ。前から仲はよかったりした?」
「いえ……」
 思わず否定してしまう。
「そうだよね、クラスの友達に聞いてみたら、そんなことないって言ってたんだよね。しかしあの五年生の男の子、評判悪いねぇ」
 ようやく僕は彼の狙いがぼんやり見えてきた気がした。庸介を今回の騒ぎの犯人にしたいのだ。庸介をマオウなるものに仕立てあげる気だ。
 本当に、まだ魔王は力が弱いのかもしれない。素直を殺したは良いものの、想像以上に騒がれてまずいと思ったのかもしれない。自分の存在を誰かに気づかれる前に、庸介に押しつけて始末するつもりなのだ。
 その思惑に乗る訳にはいかない。
 僕は戦う。そう決めた。
 だから、拳を握り締め、記者の目をまっすぐ見返して口を開いた。
「今、流行ってるゲーム、知りません? そこに出てくる敵のことです」
 嘘は驚くほどすらすらと僕の口から湧き出してきた。
「あのゲーム、誰も持ってないから、でもとてもやりたくって。真似したんです、みんなで。あんなことになるなんて思わなかったんです」
 真哉の持っていた情報誌からの知識しかないので、その嘘に突っ込まれることを僕は恐れたが、彼は僕よりもそのゲームのことに詳しくないようだった。
「モトくん……モトナオはちょっとのめり込みすぎたみたい。勉強のことでも悩んでたし、そのせいかもしれません」
 言いながら胸が痛み、僕は心の中で何度も素直に謝った。そして、それを顔に出さないように気を配った。
「こんな大騒ぎになって、バカなことしてたって目が覚めました。みんなもそうだと思います。すみませんでした」
 僕は出っ歯の記者に言葉を挟ませる隙を与えず、ぺこりとお辞儀をすると身を翻して家に入ってしまう。前と同じように玄関扉の曇りガラスを横目で見ていると、記者はしばらく家の前をうろうろしていたが、やがて諦めたようで離れていくのが分かった。
 安心の息をはいた僕の横で、仁菜が奇妙な目つきをして僕を見上げた。
「にぃちゃん、ウソついたね」
「うん」
「ウソはダメだよ」
「しょうがないよ」
「ダメだよ」
「しょうがないんだ」
 僕は少し苛つき、強い口調で彼女の反論を押さえつける。彼女は途端にぷうと膨れた。
「にぃちゃんはニナを置いていくね」
「いかないよ」
「そうだといいな」
 そして仁菜はそう言い捨て、僕よりも先に二階への階段を軽やかに音も立てずに登っていった。

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