夏の魔王

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7月27日(日) くもり

 モトくんがお休みしました。
 かぜをひいてしまったようです。

 本部に入ると、宗太郎と千衣子がスケッチブックを小さな机の上に広げてなにやら作業していた。靴にべっとりとまとわりついた泥をできるかぎりぬぐってから、僕は床に降りる。
「モトくんはまだ?」
 昨日のことが引っかかっていて尋ねた僕に、宗太郎が顔を上げて答える。
「ああ、電話あったよ。夏風邪ひいて寝込んでるって。つらそうな声してたな」
「そうなんだ」
 昨日の雨が悪かったのだろうか。この一週間、確かに体調が悪そうだったし、ずぶ濡れになったら調子を崩してもおかしくない。
「ヒロキはプール来ないの。去年もほとんど顔出さなかったよな」
「……あんまり好きじゃないから」
「ん、そっか」
 相変わらず宗太郎はそれ以上追及しようとはしない。そう軽く流してその話題を終わらすと、今度は千衣子の方へ意識を向けた。
「できそう?」
「たぶん。平気」
 久しぶりに見た千衣子は、妙に青白い顔をしていた。茶色のふわふわした細い髪の毛が頬にかかっているせいでそう見えるのだろうか。しかし、調子が悪いのではないか、と僕が彼女に尋ねると、彼女はきょとんとした顔をした。
「なんで?」
「色々あったし、顔色が……」
 そこで彼女の顔に得心の笑みが浮かぶ。
「ああ、違うの。日焼け止め塗ってるから」
 そして、懐から白い容器を出して僕の目の前に差し出した。
「あんまり焼けてると色々疑われちゃうの。塗ると変な顔色になるから嫌なんだけど」
 言われてみれば、首元と顔の色が明らかに違う。どうやら僕は余計な心配をしすぎたらしい。みんなの様子がおかしいとばかり思っていたけれど、単に僕が気にしすぎていただけかもしれないとふと思った。大体、庸介や涼乃といった新しいメンバーを加えたのだから、雰囲気が変わるのも仕方がない。
「どうした、変な顔して?」
 宗太郎の問いに、僕は大きく頭を横に振った。
「なんでもない。それより何しようとしてたの?」
「もうちょっとチイの力を試してみようと思ってね」
「でもまたああいうことになるんじゃ……」
 ものすごい勢いで勝手に動くペンや千衣子の必死な表情をもう見たくはなかった。さらにその予言の内容が明るく楽しいものとも思えない。
 明らかに顔色が曇った僕に対して、宗太郎がなだめにかかる。
「大丈夫だって。魔王のことは聞かないし、危なそうな答えが予想できる質問もしないから」
 千衣子もその隣でにこにこと頷いている。当事者の千衣子が納得しているのなら、僕が口出しできることではない。二人がスケッチブックを広げている小さな机の横側に座って、様子を見守らせてもらうことにする。
「よし、チイ、準備はいいな」
「平気だよ」
 千衣子は返事し、まつげの濃い瞳を伏せると呪文のようにいつもの文句を唱えた。
「神様神様、どうかこれからの質問にお答えください。お願いできますか?」
 鳥居からはいへと蛍光ペンの黄色い筋が出来た。宗太郎は頷き、ペン先に向かって最初の問いを発する。
「夏の終わりまでに俺たちに新しいメンバーは加わりますか?」
 ためらいなくペンはいいえのところへ滑った。
「では、同じく夏の終わりまでに俺たちの誰かが新しい力をもらったりしますか?」
 またいいえ。
「魔王と戦う際に誰か大人が俺たちを助けてくれますか?」
 いいえ。
「魔王と戦う際にメンバー以外の子供が助けてくれますか?」
 いいえの周りだけが光る輪に何重にも囲まれていた。一つ質問を重ねるごとに僕の不安な気持ちは高まっていったが、宗太郎は平気な顔をして千衣子へと次の質問を投げかける。千衣子は予言の時の常で、半分眠っているような無表情を保っていた。あの時の必死な表情が例外で異常だったのだと、改めて僕は思い知らされる。
「俺たちは魔王に勝てますか?」
 はいの方へとようやくペンは動いた。僕は手に汗を握りつつ、動くペン先を見つめていた。それははいと書かれた文字の左側を曲がり、しかし囲まなかった。いきなり右へと大きくまっすぐに進み、そして弧を描いたのだ。その動きが止まった後にあったものは、はいもいいえも内に含んだ大きな丸だった。
「答えなしってことか……」
 誰にいうともなく宗太郎が呟く。そして何かを決心したかのように口を切り結び、そして問うた。
「魔王に負けた場合、死ぬのは俺たちだけですか?」
 危険な質問だった。僕は反射的に半分立ち上がり、千衣子の肩がぴくりと動いた。また暴走するのではないかとの恐れが僕の足元から這い上がってきたが、彼女は小さくほんの最小限の動きをしただけだった。
 しゅっという音と共に描かれた丸。
 いいえ。
 宗太郎の表情が固まった。千衣子の離したペンがスケッチブックの上を転がって往復した。僕らはそのまましばらく沈黙に支配され、身動きがとれなかった。蝉の声がやけに大きく、耳をつんざくかと思った。
 どれぐらいそうしていたか分からない。気がついたら僕は床に腰を下ろしていて、宗太郎は額に浮かんだ汗を拭っていた。彼はそれが終わると蛍光ペンを取り上げてキャップをしめ、スケッチブックを閉じた。そして怖い顔をして僕と千衣子を交互に見る。
「このことは三人の秘密にしよう」
 僕は目を閉じ、じわじわとした夏の暑さと蝉の合唱をもう一度全身に感じると、一つ息を吐き、頷く。

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