夏の魔王

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8月30日(土) 晴

 今日は最後の日だから、お休みにしようとソウくんが言ったので決まった。

 僕は麦わら帽子を改めてかぶり、廊下の奥へと振り返った。
「にぃちゃん、待って待って」
 仁菜が階段から降りて、こちらへ駆け寄ってくる。急いだのか、また三つ編みがほどけかけていた。
「用意できたか?」
「うん、平気」
 彼女が靴を履くのを待って、家の外へと出た。今日も暑い。隣のおばさんが玄関先にひしゃくで水を撒いていた。
「あら、お出かけ?」
 嫌だったが、見つかってしまったので、僕は無言で頭を下げて挨拶する。
「宿題が嫌だからって、前みたいに家出しちゃだめよぉ」
 おばさんの声を背に、僕と仁菜は坂を下った。前方には黄色と黒の縞で彩られた棒と柵が見えている。近づいていくと、踏切は警告音を発しはじめた。バーが下がり、僕と仁菜はその手前で電車が通 過するのを待つ。遮断機の下に、すっかり枯れた花束が置いてあった。赤い車体が轟音と、にわかに巻き起こった風と共に横切っていく。
 バーをくぐった先にある橋の横から河原に降りる。釣り人が数人、反対側の河原で糸をたらしているのを横目に、僕と仁菜は川沿いを歩いた。陽光を反射して川の流れはきらめき、時折魚がぱしゃりと跳ねる。山から降りてくる風が吹き出た汗を冷やし、生える草花を揺らす。
 左手に町を、右手に川と山を眺め、僕と仁菜は歩き続ける。たまに仁菜が綺麗な石を見つけて立ち止まる。一時間も経たないうちに、僕は町の東端までたどりついていた。
 小さな町だ。改めて歩いてみるとよく実感できる。四方を山に囲まれ、その隙間を川や線路や道路が縫っている。昔は盛んに動いていただろう採掘のための重機が、山の中腹にちらほらと見受けられた。もう二度と動くことはない。
 僕は河原から出て、また踏切を渡って町へと戻った。中学校や小学校、いくつかの工場が間近に見える。機械の上下するガチャン、ガチャンという音を聞きながら、ゆっくりと道を歩いた。たまに僕より小さな子供が群れをなして追い越していく。学校のプールに遊びに行くのだろう。
 やがて、みよし屋の前をさしかかる。シャッターは相変わらず閉まっていて、ただそこに白い紙が一枚貼り付けられていた。閉店のお知らせだった。真哉の言っていたダンボールは見当たらない。外に置いてあるアイスクリームの冷凍庫を覗くと、もうそこには何も入っていなかった。
「今日もお休みー?」
 閉店のお知らせを読んでいないのか、前の道を駆け抜けながら、三人組の少年たちがそう不満を洩らしていった。
 僕は麦わら帽子を脱ぎ、冷凍庫の上に乗せる。飛んでいかないように重石もした。
「返すの?」
「うん、やっぱり借りた物だから」
 それにもう夏も終わる。
 仁菜の手を引いてひさしの影から出ると、突き刺さるような日光が降り注いだが、これも段々弱くなっていくはずだ。
 学校が始まり、力は消える。
 チャイムが一帯に鳴り響いた。今は何を知らせているつもりなのだろう。僕と仁菜は小学校の手前の角で曲がって、また西へと戻っていく。校門の前で集まっていたグループが僕の姿を目に留めて、何やらひそひそと言い交わしているようだった。あそこは通 るのを止めたい。
 蝉の声はツクツクボウシがすっかり優勢になっていて、誇らしげに何度もそのフレーズを繰り返していた。路肩に死体が幾つも転がっている。たまにまだ足が小さく動いているのもいて、拾い上げて電柱に止まらせてあげても結局また落ちてくる。
 夏の終わりにみんな死ぬ。蝉も死んだらやっぱり川を流れていくんだろうか。
 町の中央辺りの商店街に僕と仁菜は入った。駅までの短い道の両端に色々なお店が並んでいる。どこも古いものなので、外の夏の光と中の薄暗さがくっきりと色分けされていた。
 今日が土曜日というせいもあるのか、どの店にもちらほらとお客さんが訪れている。お小遣いのない僕はどこにも寄る訳にいかず、ただ駅までの道を歩く。駅は変わらず商店街の終わりに佇んでいた。
 入って、路線図を見てみた。素直と一緒に行ったところを探そうと思ったが、途中でなんだかよく分からなくなって止める。見つけたからといって電車に乗ってそこに行ける訳じゃない。
 線路沿いを歩いていると火花の匂いがする。とんぼが川の方からやってきて、すいと柵に止まった。フェンスに蔦を絡ませた朝顔はとうに枯れ、種が熟しつつある。
 夕方が夜を引き連れて山の向こうからやってくる。家々の小さな窓に明かりが灯り、炊事の音が辺りを満たす。
 僕と仁菜は坂を登り、町を見下ろす場所に出た。色とりどりの屋根が山の隙間に張りつくように並んだ光景、これが僕がずっと見てきたこの町だ。
「おうち、かえろう」
 仁菜の呼びかけに僕は小さく頷いた。

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