夏の魔王

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8月8日(金) くもり

 チイちゃんがひとりになってしまった。彼女が危ないと分かっている今、ぼくらはなんとか連絡をとろうとした。

「ダメだ、チイの親、ピアノまでしばらく休ませるつもりだ」
 宗太郎の報告で、僕らは何らかの手段を考えないといけなくなった。もちろん電話は最初から使えない。千衣子を電話口まで出させてもらえないし、万一出てきたとしても全部聞かれていてはつっこんだ話ができるはずもない。
 手紙をこっそり僕や庸介の力で送るという手もあるが、やりとりに時間がかかり、その間に彼女の家の周りをうろついている記者たちに宙に浮く紙が目撃されない保証はないし、彼女以外の人間に読まれる恐れだってある。証拠を残さず、誤解も少ないだろう方法、それはやはり直接話すことだ。
「忍び込む……のも無理だよなあ」
 クーラーボックスに入ったペットボトルから紙コップへコーラを注ぎつつ、宗太郎はぼやく。僕らの能力は忍び込むのにはあまり便利ではない。
「やっぱり手紙が無難なんじゃないかしら」
「それしかないかな」
 斜め上を見つめながら、宗太郎はコーラを一気にあおった。

 そして、僕らは千衣子の家から二百メートル離れたマンションの裏庭にいた。
「あそこが空き家だったはずだ」
 そのマンションの三階のベランダに僕らは上がり込まなくてはならなかった。宗太郎が空気で足場を作ってくれたので、それを踏み台に非常口から一人ずつ目立たないように素早く転がり込む。
「シンヤ、確認できるか?」
 首尾よくこなした僕らは、今度は千衣子が目的の部屋にいるかどうかを確認した。いまだ暗い顔のままの真哉は手をかざして千衣子の家を凝視する。今の彼の視力なら容易いはずだった。
「いた。自分の部屋だ」
「ひとりか?」
「他に人はいないと思う」
「よし。スズさん、準備はいいですか」
「いいわよ」
 その間に、涼乃はそれから形を引き出していた。彼女にしか見えないそれを庸介に二つ、僕らに一つずつ渡していく。
「ヨウスケ、右手の方。絡めないでよ」
「んなこと言ったって、見えねーし」
 庸介はぶつぶつと悪態をつきながらも、右手を何か掴んだ形のまま千衣子の家の方へと突き出す。そしてそのまましばらくたった。
「届くの?」
 僕の問いに庸介は鼻を鳴らす。
「たぶん大丈夫だろ。こんな長いの初めてだけどな、見える範囲だから……よし、届いた」
 僕らの見守る中で、庸介の人差し指がちょっと浮いて二度三度上下した。
「あ、気づいた」
 真哉の言う通り、目標の窓のところで何かが動いた様子が僕にも窺えた。
「見回してちょっと困ってる……分かるかな……あ、なんか掴んだ」
「よーし、渡したぞ」
 真哉と庸介の言葉が重なり、僕らはそこで一斉にその見えないものを耳に当てた。一人口に当てたのは宗太郎だ。
「もしもし、チイ、聞こえるか?」
 ちょっとの間沈黙があった。
(……ソウちゃん?)
 そして、耳の近くで千衣子の声がした。
(これ、もしかして糸電話?)
「あたり」
 見つからずに確実に連絡をとる方法、糸電話作戦は見事に成功したようだった。僕らはメンバーの数だけ分岐した糸電話を作り、それを涼乃の力で引き出すことによって他の人間には見えなくしたのだ。これに気づかれることはまずないだろう。混線しないように喋るのは宗太郎の役目と決めた。
「記事は見たか?」
(うん、お父さんとお母さんに聞かれた)
 その返事に真哉の肩がびくりと震える。
(そんなの知らないって言っといた)
「よし、うまいぞチイ。もし記者の奴らに捕まっても知らないで通してくれ」
 知らぬ存ぜぬで通せば、彼らも諦めるに違いない。それは素直をノイローゼ扱いさせることだと僕は気が進まない気持ちを言ってはみたものの、確かにそれしか事態を収める手はなかった。
「なんとかあいつら追っ払うから、心配しないでいいぞ。いなくなったら外にも出れるだろ。それまで自由研究でも進めとけ」
(ダメだよ!)
 急に声を荒げて千衣子はそう返してくる。そしてそのままふつりと黙った。
「チイ、どうした?」
 焦って宗太郎が呼びかけるが返事はない。真哉は視線を窓の方へと投げた。そして首を振る。
「あの親父が入ってきた感じはないし、チーコは変わらず窓のとこにいる」
 表情まで見るのは無理なようだ。僕らは辛抱強く千衣子の言葉を待った。耳をすますと、彼女の息の音だけが聞こえてくる。
「……泣いてんのか?」
 しゃくり上げる音が混じった。
「落ち着け、落ち着いてどうしたか教えてくれ」
(あの人たち……)
 ようやく千衣子は蚊の鳴くような声ながらも口を開いた。
(あの人たちは魔王の手先になってる)
「あの人たち? 記者の奴らのことか?」
(うん……)
 僕らの間にさっと緊張が走った。宗太郎はこわばった顔になってささやくように空中に話しかける。
「チイ、お前ひとりでやったな」
 返事はなかった。
「……分かった、でもまあ記者はなんとかする。チイはそのまま家に……」
(家もダメ!)
 今度は即座に反応が返ってくる。宗太郎はいっそう顔をしかめた。
「まさか、お母さんとかお父さんも?」
(……うん、たぶん)
 魔王にはそんな力もあるのかと僕らは戦慄した。黒いもやが人間を襲い、口から入り込んで魔王の言いなりに操る、そんな光景が簡単に浮かぶ。
(怖いよ、ソウちゃん、怖いよ)
「ごめん、オレ、ごめん、ごめん!」
 突然真哉が吠えた。抑えきれなかったのだろう、見えないコップに向かってひたすらごめんだけを繰り返し怒鳴っている。彼の気持ちは分かるが、僕らは今不法侵入者だ。庸介が慌てて彼の口をふさいで黙らせ、宗太郎が最後の連絡をした。
「明日もまた来る。今日はその部屋から出ないで親も入れるな、そうすれば一日くらいは大丈夫だ」
 そして僕らはベランダから急いで撤退する。最後に糸電話を回収して庸介が脱出しようとした時、さっきの真哉の声を不審に思ったのか隣りのベランダに人が出てきてひやりとさせられたけれど、なんとか見つからずに済んだらしい。
 その後、基地に戻ってどうやって千衣子を助けるかの会議が行われたが、そんな案が簡単に浮かぶはずもなかった。なにしろ敵に当人の親も含まれているのだから。加えて魔王の力は得体がしれない。
 結局その日は結論を出せずに解散となる。明日にはいい案が出ようと出まいと、なんとかしなくてはいけない。
 僕は暗い気持ちで一人家路を歩いていた。千衣子の話が本当なら、そんな相手に僕らは勝てるのだろうか。そして彼女の予言は絶対なのだ。ゾンビ映画のように町の人全部が襲ってこないということは、まだ魔王の力は不完全なんだ、と宗太郎は言う。きっと夏休みが終わった時ぐらいに本当の力が戻るんだ、だからそれまでに倒せって最初の予言は言ってたんだ、とも。
 それでも恐ろしかった。今だってその路地からあの操られた記者たちが飛び出してくるかしれない。僕は早足で家へ急いだ。しかし、災厄は家の前にあったのだ。
「この前は突然で悪かったね」
 見た覚えのある出っ歯だった。今度は一人で僕の家の門にもたれている。
「いえ……」
 僕は目をそらして、なんとか家の中へ駆け込めないかと様子をうかがう。
「ねえ君、マオウって知ってるかな?」
「いえ」
 相手はずばりと聞いてきた。僕はこれも目を合わさず否定した。真哉はあの手紙を渡しただけだといったし、ならばこの記者は僕も仲間かどうか探っているだけのはずだからだ。知らないと言い続ければいかに魔王の手先とはいえかわせるかもしれない。
 しかし、相手はそう甘くなかった。
「あれ、そう、知らない? あの女の子がマオウとか言い出した時に君もいたって聞いたけど」
 その記者の言葉が信じられなかった。
 反射的に顔を跳ね上げ、彼の顔をまじまじと見てしまう。その顔は街灯によって逆光になり、黒々とした影が顔の中央に集まっている。僕を見つめる瞳がぎらりと輝いた気がした。
 僕はたぶん悲鳴を上げたと思う。気がつけばその記者を振り切って玄関で荒い息を吐いていた。閉めた扉の曇りガラスにさっきの記者の影がぼんやりと写 っている。僕の足はがくがくと震え動かず、ここから二階へと逃げることなど不可能だ。もうすぐ奴はこの扉を破って押し込んでくるだろう。終わりだ。
 長い時間が経った気がした。
 ふと目を横にやると、影は消えていた。彼は押し破ろうとせず、チャイムも鳴らさず去っていったようだった。宗太郎の言うように今のところ魔王の力は弱いようだ。
 僕は緊張が抜け、玄関の石畳にそのままへたり込んだ。まだ足は震えていた。止まらなかった。
 明かりのついた居間からテレビの音が洩れ聞こえてくる。

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