夏の魔王

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8月9日(土) くもりのち雨

 魔王はどんどん町を支配している。
 モトくんの言ったとおり逃げた方がいいのかもしれない。

 この日は基地に集まる時点からすでに不穏な空気が漂っていた。
 朝早く、記者が外で待ち伏せていないことを確認し、仁菜もつれて僕は基地へ向かった。これからは仁菜を置いて出かけることは怖くてできない。
 どんよりと曇った空の下は蒸し暑さで満ちていた。空気が閉じ込められているみたいだ。空が低い。
「ソウくんだ」
 山の入口のところで、仁菜が後ろを指差した。振り向くと確かに宗太郎がこちらへと駆けてくる。彼も僕の姿を認めると手をふって寄ってきた。
「なんだ、早いな」
「そっちこそ」
「ああ、まあな」
 彼は頬を掻き、その途端小さく悲鳴を上げた。よく見ると彼の右頬には三本の赤い線がついている。僕の目線に宗太郎は困った笑みを浮かべた。
「嗅ぎつけられたらしくて新聞記者が昨日の夜来てさ、いきなりだったから母さん興奮して。今日出かけるっていったら引き止められて、その時にちょっと」
 やっぱり宗太郎のところにも記者が現れたのだ。
「でも断りつづけたら帰っていったな。あいつらは魔王のために情報収集しているだけかもしれない」
 基地への道を登りながら、僕らは情報交換をする。宗太郎は最初そう言って呑気な構えを見せていたが、僕が昨日記者に言われたことを告げるとたちまち表情を曇らせた。
「モトの手紙にそこまでは書いてなかったよな」
「うん、確か」
「となると奴ら、魔王からも情報を得てるってことか……? そうだったらあの記者たちを使ってメンバーを特定しようとしている訳じゃないのか?」
「引っかけかも」
「うん、そうだといいな」
 あえて宗太郎も僕も他の可能性、もっと簡単な理屈には触れなかった。メンバーをわざわざ疑いたくはない。
 だから真哉がひどく動揺して本部に駆け込んできた時も、彼をなだめるのに気を使った。
「俺じゃないって、俺、手紙渡しただけで、俺!」
「分かってる、シンヤはそんな嘘つくような奴じゃないって」
 少しも疑っていなかったといえば嘘になる。僕も昨日の夜ふとんをかぶりつつ考えた時、その可能性が一番高いことを認めざるをえなかった。もちろんその時の彼に裏切るような気持ちがなかったのも確かだろうけれど。
 でも、今の取り乱しようを見ているとそれもないようだ。真哉に嘘をつき通 すこ狡さはない。宗太郎はしばらく手こずって真哉をある程度落ち着かせたが、しかしその努力も庸介がやってきたことで台無しになる。
 現れた庸介の左頬は明らかに腫れ上がっていた。宗太郎の傷の比ではない。見れば、左手にも包帯が巻きつけてある。歩き方もどこか変だった。後ろから涼乃が心配そうな顔でついてきている。
「どうしたんだよ!」
 せっかく落ち着きかけていた真哉はそれでまた興奮してしまった。
「魔王か、魔王のせいか!?」
「フジシマだよ」
 庸介は憮然として吐き捨てた。突然の聞きなれない名前に、僕らはきょとんとした顔になったに違いない。庸介はよけい苛々と言葉を叩きつけてくる。
「俺のグループの背ぇ高い奴だ。見たことあるだろ」
 そう言われればすぐに分かった。あの窓から入ってこられた時にはどうなるかと怯えたものだ。そしてそれを思い出すと同時に、どうして記者たちがメンバーの情報を持っていたかがあっさり分かったのである。
「そっか! 俺らだけじゃなかったっけ、あの時」
 真哉が大きく手を打つ。僕らは乱入していた五年生グループの存在をすっかり忘れていたのだ。対して当のグループ員でもある庸介はそのことにあっさり気づいたのだろう。
「問い詰めたら吐きやがったからな。本格的にシメてきてやった。あとの奴らにもせいぜい脅しかけといたからな」
「じゃあ、その傷は……?」
 僕の質問に庸介はいっそう顔をしかめる。
「んな奴に俺が一回でも殴られる訳ねーだろ。これはクソ親父とクソ兄貴だよ畜生」
 突然、彼は左腕で本部の壁を殴りつけた。本気でやったようで窓ガラスがびりびりと震える。涼乃が慌てて彼の腕を抑えようとしたが、彼はそれを許さなかった。
「傷がひらくでしょう!」
「いいんだよ、んなのは」
 行動と裏腹に彼に激昂した様子は見られない。言葉も抑揚がなく平坦だ。ただ目は座っている。
「で、あの記者どもが諦めるまで家には戻れねーから、しばらくここ借りるぞ」
 有無を言わさず庸介はそう宣言した。僕らは別に構わなかったが、涼乃だけが強硬に反対する。
「ダメよ、そんなことしても何の解決にもならないでしょう!」
「じゃあ何したら解決するんだよ。優等生面して物言われても迷惑だ」
「それは……」
「しばらく殴られないですむ方がマシだ」
 涼乃はそれからじっと地面を見つめて考え込んでいた。その両拳は握り締められている。そして、彼女は顔を上げてこう言った。
「分かった。じゃあ私もここに残る」
「馬鹿言え」
「どっちが」
 両者一歩も退かない構えだった。当然横で見ている僕らが口出しできる状況の訳がない。訳がなかったはずなのだが、そんなことを気にしない人間がいた。彼はすっくと立ち上がり、こう喚き出した。
「俺さ、ここ出たくない。俺もここにいたい。家はいやだ」
「いきなり何言ってるんだよ、シンヤ」
「だってばれたんだろ。魔王にばれたんだろ、俺たちのこと。下りたらきっと襲ってくるよ。そんでモトみたいに」
「シンヤ」
 宗太郎の二度目の呼びかけに彼は黙りはしたが、彼もまた意見を翻す気がないのは明らかだった。もしかして家で何かあったのかもしれない。
「帰らないのは無理だよ。下手すると大騒ぎになる。それにここにはちゃんとした食料もないし、布団もトイレも風呂もないんだぞ」
「家に戻ったらあいつらの狙いどおりなんじゃないか」
 宗太郎の説得に、ふてくされたように顔を背けたまま真哉が呟く。
「ヒロキはどう思うんだよ」
「どうって……」
 そして僕へと話を振ってきた。僕は判断できなかった。あの記者たちに会いたくないのはもちろんだけど、家に帰らないというのもまずい気がする。
 と、そこで僕はふと気がついてしまった。特にまずいことが思いつかなかったことに。
 黙ってしまった僕は真哉の中で自動的に賛成票に数えられたらしかった。彼は少し元気を取り戻し、まくしたてた。
「ほら、こんな状況で戻る方が間違ってんだ。家に帰ってもいいことないよ。逃げようよ、ソウ。ここから逃げれば魔王も追ってこないよ」
 真哉の物言いはだんだんすがる口調になってくる。宗太郎はすっかり困惑してしまい、救いを求めるように僕の方を見たが、僕もどうすることもできなかった。
「逃げてどうなるっていうんだ」
「ソウは家に帰りたいのかよ?」
 それでも宗太郎が首を縦に振らなかったので、今度は食ってかかり始めた。
「帰りたい、帰りたくないの問題じゃないだろ」
「帰りたいなら帰ればいい。誰も止めないから、こっちもほっといてほしい」
「ちょっと待て、チイはどうするんだ。そっちこそ放っておくつもりか」
「チーコもここに来ればいいんだ」
「むちゃくちゃ言うな!」
「家にいる方が危険じゃないか。昨日だってあんなにおびえてたのに、ソウは無視して戻ってきたくせに」
「無視なんかしてないだろう!」
「じゃあどうするつもりなんだよ。チーコを放っておくつもりかよ」
 真哉が妙に落ち着いていて、宗太郎が追い詰められているという、いつもと逆の現象が起こっていた。たぶん宗太郎に勝ち目はない。僕は目を伏せ、小さく首を横に振った。
 宗太郎もまた家に帰る理由を見出せないだろうから。
「にぃちゃん、おうちにかえらないの?」
 仁菜が不安そうに僕の服を掴んでそう尋ねてきた。
「帰らないよ」
「どうして?」
「家に帰りたい?」
「だっておかあさんがいるよ」
「うん」
「おかあさんひとりじゃさみしいよ」
「淋しくないよ」
 思わずきっぱりと僕は仁菜の言葉を否定していた。仁菜はびっくりした顔をして、服を握る手に一層力を入れた。
「わかった……」
 そして、それだけ小さく囁くともう聞いてこなかった。
 遠くから雷の低い響きが聞こえ、雨の匂いが微かにする。それに対抗するかのように一層激しく蝉が鳴きはじめていた。
 宗太郎と真哉の言い争いもまた激しくなりつつあった。
「ソウはいつも理屈ばっかりだ。そんなに全部がうまくいく方法なんてあるもんか」
「じゃあ聞くけど、どうやってチイを家から連れ出すつもりだ。絶対騒ぎになる。そうなったらおしまいだ」
 宗太郎の精一杯の反論は、庸介が乱入してきたことによってあっさりと覆された。
「難しくないだろ、さらってくるのなんて」
 庸介はそう言ってひょいと手を伸ばした。すると向こうの窓が誰も側にいないのにがらりと開いて、すぐ近くにあった立木の枝が音を立てて折れる。それからその枝はするすると窓から部屋の中へと一人で入ってきた。
「こうすりゃいいだけだ」
 庸介の言う通り、彼の力を使って素早く事を運べばけして難しいことではない。それは宗太郎にも否定できないはずだ。彼には逃げ場がなくなった。
「ソウくん」
 僕は唇を噛みしめた宗太郎に声をかける。
「とにかくチイちゃんにもどうしたいか聞いたらどうかな。勝手に決めてもまずいと思うし」
「……そうだな」
 その言葉で宗太郎の浮かない顔に少し光が浮かんだように思う。彼はそう言って頷くと、真哉の顔を正面 から見据えた。
「ヒロキの言うように、チイに確認してから決めよう。それで、家から出たいと言ったら連れてくる。それでいいよな」
「言うに決まってるよ」
 真哉の突っかかりにもへこたれず、宗太郎はちょっと調子を戻していつも通 り仕切り始める。
「大勢で行ったら見つかりやすい、俺とヨースケ二人で行ってくる」
 真哉が不満そうな顔をしたが、自分がここから出たくないと言った以上仕方がないと思ったのか黙ったままだった。続いて宗太郎は僕と涼乃の方を見る。
「突然の話だから、準備とかあったらこっそり家に戻ってしたらいいんじゃないかな」
 つまり、出来たら必要なものを調達してくれということだろう。僕は了解したという旨を大きく頷くことで伝えた。
 そして最後に彼は真哉を見る。
「シンヤはここを守っていてくれ。魔王に見つかったらまずいからな」
 かなり自分を取り戻したらしい物言いだった。もちろん真哉が否定できるはずもない。
 僕らは一旦解散し、そして僕がある程度の装備を抱えて基地へ戻った時はもう夕暮れ時だった。仁菜も手伝ってくれたので、タオルケット数枚や父親が釣りの時に使っていた固形燃料の携帯コンロなども持ってこれた。その大きな荷物を浮かせているところを目撃されないように気を使うのが大変で、そのために時間がかかってしまったのだ。
 それでも僕を迎えたのは真哉と涼乃の二人だけだった。
「ソウくんたちは?」
「まだ」
 暇そうな真哉が答えてくれる。その様子からすると特に何も起こっていないらしい。
「雨降りそうなのにね」
 夕方になってますます雲は厚く垂れ込めていた。いつの間にか雷は山の向こうへ行ってしまったようだったが、それだけに一旦降り出したら長くなりそうな雰囲気だ。
「暗くなるまでチャンスをうかがってるのかもね。ごはん用意しておきましょうか」
 涼乃の提案に僕は乗り、床にビニールシートを敷いたり、飲み物のコップを用意したりした。何だか遠足みたいで楽しい。そのうちに真哉も加わってきて、僕の持ってきたコンロをいじりはじめる。
 段々と本部に暗闇が落ちてきた。僕らは懐中電灯を床に転がして照明にする。上から吊るせばもっと明るくなるのだろうけど、そんなことをすれば遠くからも光が目撃されてしまう。
「あ、雨だ」
 たまに外の様子をうかがっていた真哉がそう呟いた。細かい霧雨がいつの間にか降り出している。それでも宗太郎たちが帰ってくる気配はまだなかった。
「もしかして捕まったんじゃ……」
 真哉の不安も当然だ。彼の頭の中では、増殖した魔王の手下が町に溢れている映像が繰り広げられているのだろう。僕は一応さっき家に戻った時にはそんなにおかしな雰囲気はなかったとは言っておく。それでも宗太郎たちが、例えば千衣子の親に見つかった可能性は否定できなかった。
「俺、見てくる」
 ついに我慢しきれずに真哉が立ち上がりかけた時だ。坑道の中から足音らしき音が聞こえはじめた。僕らは息を潜めてその音を聞き取ろうとする。
 そして、橋の向こうに現れたのは三つの影だった。

 夏休みが折り返そうとしている。

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