夏の魔王

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8月26日(火) くもり

 あの子ねこのことは今でも忘れられない。チイちゃんがぼくをきらっているのは、きっとそういうところがばれているからだろう。

 その家の前に立つ僕の手には、スケッチブックがあった。土に汚れた赤い表紙を僕はしばらく眺め、それからチャイムを押すが、返事はない。仕方がないので裏へと回って、そのスケッチブックを空へと開放し、窓のところまで浮かばせる。運良く部屋にいたようで、千衣子の顔が窓から覗いた。
 また玄関へと戻ると、軽い足音が聞こえてから扉が押し開かれる。
「どうしたの?」
「ちょっと聞きたいことがあって。お母さん、買い物だよね」
 さっきまでずっと入り口を見張っていて、千衣子の母親が買い物かごを持って外へ出るのを確かめてから行動に出たのだ。怪訝な顔をしている千衣子だったが、僕と仁菜を中に通 してくれた。
「玄関で。時間もないし」
 せいぜい話せるのは十分程度のはずだ。千衣子はもじもじと落ち着かない様子で、僕の手にあるスケッチブックを見つめている。
「……それ」
「見つけた、作戦室で」
「返して」
「話が終わったらね」
 たちまち千衣子の顔が険しくなっていくのが分かる。僕と千衣子はあまり相性が良いとは言えない。僕にとっては千衣子の素直さはどう対処してよいか戸惑うもので、話すことはあっても大抵あたりさわりのない話題に終始していた。千衣子の方もたぶん僕は苦手な部類なんだろう。彼女に睨みつけられながら、僕は本題を切り出した。
「予言の話だよ。内容を教えてほしい」
 そしてスケッチブックを開く。後半の黒いページはいくら目をこらしても読み取ることは不可能で、だから僕は直接聞くことにしたのだ。
「知らない。ソウちゃんに聞いたら? ずっと会ってるんでしょ」
 千衣子の答えはそっけなかった。
「ソウくんとは今、連絡とれないんだ」
 しかし、僕がそう訴えると、彼女の目の中にわずかに光が浮かぶ。僕の期待のまなざしを受けて、彼女はつま先で床を二三度蹴ってみせた。
「だから知らないって」
「お願いだから」
「言っとくけど、意地悪してるんじゃないの。あたしはいつも分かんないの」
「え?」
「予言してる間は頭がぼーっとして、どうペンが動いたかなんて覚えれないの!」
 気づかなかった。そういえば今までは予言が終わった後に必ずみんなでその言葉の解釈を取りざたしていたのだ。
「だからあたしに聞いても知らない。ソウちゃんはあたしには教えてくれなかったから」
「……分かった。ありがとう」
 こうなると、僕は引き下がるしかない。千衣子にスケッチブックを差し出すと、奪い取るようにひったくられた。
「ソウちゃんは教えてくれると思う?」
 明らかに敵意のこもった視線に会って、僕は少し怯んだ。仁菜を後ろに庇うようにして、扉のノブに手をかける。
「聞いてみなきゃ分かんないよ」
「ニナちゃんはずるい」
 千衣子はこちらを睨みつけながら、そう言葉を叩きつけてきた。
「いつもずるい。好きな時に自由にどこでも行けるし、ソウちゃんたちにだって……」
 そこで彼女の声は詰まり、僕はいたたまれなくなって外へと飛び出した。千衣子はよく僕にずるいと言う。僕にはそれにどう返事をしていいか分からない。
 去年のことを思い出す。
 僕らはその頃、河原で遊ぶことが多かった。町の反対側の岸には深すぎない林があったし、もちろん水遊びもできるし、町から遠すぎないそこはそれなりに安心できて楽しいスポットだったのだ。
「第一回さかなとりたいかーいっ」
 真哉はすくい網を手にやる気満々、一番に川へと飛び込んでいこうとした。しかし水に入ろうとした瞬間、彼はふと立ち止まる。
「なんか聞こえる……鳴き声だ、これ」
 鋭くなった彼の聴力が告げた先は、河原の隅に大きく茂る草の中だった。そこにいる三匹の子猫たちは、ぼさぼさの毛並みながらまだすさんだ目はしておらず、僕らを見上げて愛想良い鳴き声をあげた。
「捨て猫かな」
「そうだったらもっと目立つところに置いてくだろ。きっと野良だ」
「親猫は?」
「いないね、えさ探しかも」
「まだ戻ってきそうにないよな」
 全員があからさまに落ち着かない様子で辺りを見回しはじめる。そして他の猫の気配がないと判断し、真っ先に手を出したのはやはり真哉だった。彼は一番手前の黒白の子猫を胸に抱き上げる。逆らうことなく、猫は真哉の胸に納まった。途端、残った二匹にも僕らの手が伸びる。
「かわいーいっ」
 黒猫に頬ずりせんばかりに、千衣子が嬌声を上げる。僕の腕の中のはぶち猫で、仁菜が興味津々に手を伸ばしている。一方、ちょっと距離を置いて素直は立っていた。
「あれ、モトっち猫ダメ?」
「だって絶対ノミいるぜ、そいつら」
 素直の指摘で、僕らの顔はいっせいに強張った。それでもいきなり放り出す訳にはいかず、まだ小さいから大丈夫と言いつつ自分を納得させる。
「あれ、ここにもいる」
 真哉がまた一匹見つけたらしい。彼の指差した先には、確かにキジトラの子猫がいる。茂みの中で丸まっていたので気づかなかったのだ。さっそく猫を手にしていない宗太郎が抱きにかかるが、彼は伸ばした手を途中で止めた。
「なんかヘンだぞ、こいつ」
 子猫は夏の昼間だというのに、ひどく震えていた。手を伸ばすと一応鼻を近づけて舐めてくるので、僕らが怖いという訳ではなさそうだった。
「もしかして死にかけてるんじゃない?」
 眉をひそめて千衣子が言う。彼女の推察を否定する材料はどこにもなかった。
「どうする?」
「うちは無理だな、マンションだし」
「同じく」
「俺、昔犬連れて帰ったらむちゃくちゃ怒られた」
 しゅんとした空気が僕らの間に流れた。このまま外に置いておけば子猫が死ぬ のは確実に思えた。僕は宗太郎にぶち猫を手渡し、震える子猫を代わって抱き上げる。
「ヒロキんちは飼えるのか?」
「たぶん無理だけど……」
 腕の中の温かみを味わいながら、あの家を思い浮かべた。もしかすると、自分で世話をすれば飼えるかもしれない。けれども母が子猫にどう出るかは分からないし、僕は昼間は家にいることはほとんどなかったので、子猫は誰の目も届かないままずっと家の中にいることになる。それはぞっとしない考えだった。
「でも、とりあえず今夜だけなら平気だと思う。それでちょっとは元気にならないかな」
「うん、それがいいな。頼むよ」
「うわあ、いいないいな、ずるいずるい!」
 こうして僕は子猫を一晩預かることになり、千衣子は別れる時までずっとずるいと言い続けていた。それはふざけた調子ではあったが、最後にぽつりと洩らした言葉は今でも耳に焼きついている。
「あたしがニナちゃんだったらいいのに……」
 だから僕は千衣子が苦手なのだ。
 その夜、僕と仁菜は徹夜して子猫の様子を見守った。ミルクを呑ませようとしたが呑んでくれず、震えも止まらないので、ずっと胸に抱いて暖めてやる。子猫の震えは僕の心臓に直接伝わり、まるで僕と子猫は同じものになったかのようだった。
 そして、気づいたら夜が明けていた。胸元から小さな鳴き声がした。ぼんやりとしていた僕が慌てて見下ろすと、黒く大きい瞳と目が合う。子猫の震えは止まっていた。
「やったな」
「ばっちりじゃん」
「良かったね」
 昨日の河原に連れていくと、みんなも安心した様子で迎えてくれた。ミルクも呑ませたし、もう心配はないだろう。
「あ、親だ」
 昨日の茂みに一際大きな影があり、昨日の子猫たちもまだいるようだった。僕はもうこの子猫を手放したくなかったが、かといって飼うことも出来ない。しぶしぶと子猫を放すしかなかった。子猫だって親の元が一番いいだろう。現に地面 に下ろすと、しばらく子猫は戸惑っていたが、やがて茂みへと歩いていく。
「エサとかさあ、今度から持ってこようぜ」
 これで全てが丸く収まったかに思えた。次の日に、その子猫の死体を茂みで見つけるまでは。死体には牙と爪の跡がついていた。
 人間の匂いがつくと親猫が育てるのを放棄することがあること、もっと悪ければ殺してしまうことさえあるのを調べて知ったのはその後だった。そして、僕はそのことをみんなに黙ったままでいる。
 あの子猫を殺したのが僕だと知られるのが嫌だった。じゃあやっぱり千衣子の言う通 りに僕はずるいのかもしれない。

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