夏の魔王

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8月4日(月) 晴

 モトくんが、死んだ。

 僕らは素直に会わせてもらえなかった。
 一度も行ったことのなかった彼の家は山に近いところにある無機質な三階建てのマンションで、その二階の中央の部屋だった。
 お通夜は明日の夜らしかったが、僕らは矢も盾もたまらずそこへと駆けつけた。悪い冗談だと思ったのだ。家に行って文句を言い立てれば、自分の部屋から彼が姿を現すと信じていたのだ。
 夕方が空にじわじわと染みてきている時間だった。昼過ぎに手の汗でぐしゃぐしゃになった新聞を持って宗太郎が本部に飛び込んできてから、住宅街の路地を走っているその時までの記憶はあやふやではっきりと思い出せない。真哉がこんなのは絶対嘘だインチキだと言い張り、涼乃がそれをなだめ、千衣子はずっと無言で、庸介がそれなら確かめに行こうと提案した気がする。僕自身は何か言ったような気もするが、その内容はまったく覚えていなかった。
 みんなは黙ってひたすら素直の家までの道を走る。僕は仁菜の手を引いているので、どうしても一番最後になる。僕と仁菜の周りをみんなの伸びた影が取り囲んで揺れていた。鳴き出したヒグラシの声が空気に溶けていく。
「ここだ」
 宗太郎が立ち止まり、僕らも彼に従って歩みを止める。素直の家を見るのはこれが初めてだった。僕の家のトタンのでこぼことは違い、壁はのっぺりと白くどこか不気味なものを僕は感じた。息を潜めて階段を上がる間中、突然前から何か得体の知れないものが飛び出してくるのではないかと心臓が踊っていた。
 ついに常川の表札がついている扉の前に僕らはたどりつき、誰がチャイムを押すかで声無き戦いが起こる。視線に押し出されたのは、案の定宗太郎だった。この前もそうだったらしい。
 彼はチャイムに指をつけ、そしてすぐに離した。こもった電子音が鉄扉の中で響いて消えた。しばらく待ったが誰も出てこない。
「留守かな?」
 宗太郎はそう言って、もう一度チャイムを鳴らした。その時、中でわずかに誰かが身じろぎしたような気配がする。
「いるんじゃん?」
 止める間もないまま、真哉がそう言って横からチャイムを叩いた。すると突然がらっと玄関横のガラス窓が開く。側にいた千衣子が悲鳴をあげて飛びのいた。
「なんだい、あんたら」
 声からすると女の人のようだった。格子つきの窓の向こうは暗く、喋りかけてきた人物の容貌ははっきりしない。
「あの、モトナオくんは……」
「死んだよ。聞いてないのかい、電車に飛び込んだって」
 彼女の答えは容赦なく、直接的だった。
「来るんなら明日にしてくれ。取材やらなんやらでもううんざりだ」
 僕らはそれに返す言葉がない。
「本当に最後まで馬鹿な子だったよ。何考えてるやら分かりゃしなくてさ」
 その女性はチッと舌打ちを一つすると、そう吐き捨てて乱暴に窓を閉めた。しばらくその窓を見つめたまま、みんな動けなかった。僕は色々な言葉の断片がぐるぐる回る頭の片隅で、つい最近どこかで同じ雰囲気を味わったはずだと考えていた。けれどそれが一体いつだったのか思い出せなかった。
「帰るぞ」
 誰かがそう宣言した。僕は歩き出したみんなの後をよろよろとついていく。送っていくと言われた気がするが、僕はそれを一生懸命拒んだようで、気づくと一人で歩いていた。あの家をみんなに見られたくなかった。
「にぃちゃん」
 後ろから仁菜が呼びかけてくる。僕と仁菜は自分の家を臨む坂の上に立ち、夜風に煽られていた。この道の行き止まりは踏切だ。素直は昨夜、そこに飛び込んだ。
 結局彼は約束を破って基地には来なかった。海にも連れていってくれなかった。
 彼がいなくなったことが悲しいのかと聞かれると、よく分からない。ただなんだか妙な世界に紛れ込んでしまった気がしてならない。うっかり今朝起きる世界を間違えたのだ。帰らなくては。
 僕はふらふらと坂を下りた。
 家の前までたどり着くと、不意に隣の家の門からパーマをかけた頭がひょこりと覗く。そして、隣の家のおばさんは顔を輝かせてそこから飛び出し、僕に声をかけてきた。
「あららら、こんにちは。そこの事故のこと、貴方聞いた? 大変ね、同じ学年の子だったらしいじゃないの」
「……ええ」
 今は誰とも話したくなかったし、特に彼女に対しては返事をするのも嫌だったが、無視すると何を言いふらされるか分からないので頷くだけはしておく。
「貴方も気をつけなさいな。いくら急いでるからって踏切を無理にのりこえちゃいけないわよ。大丈夫、大丈夫と思っている時が一番危ないのよねぇ」
「はい」
「あら……もしかして、お友達だったかしら?」
 さすがに彼女も僕の様子が変なのには気づいたらしい。僕が黙ると、おおげさに悲鳴を上げ、僕の頭を抱え込むようにして撫で始めた。
「かわいそうに、こんなに小さかったのにね、かわいそうに」
 僕はされるがままでいた。振り払う気力はなかった。こんな時、素直ならどう言っただろうか。突き飛ばすのも馬鹿馬鹿しい、くらいだろうか。
 数分それを続けて、彼女の気は済んだらしかった。
「気を落とさないでね、相談ならいつでも受けるから」
 涙をハンカチで拭いつつ、そう言い捨てると足取り軽く自分の家へと消えていく。僕はそれを何の感想もなく見送り、家の門をくぐった。
 ふと横を見ると、ポストにまだ夕刊が刺さっている。母は留守のようだ。僕は回収しようとし、そこにあるのが夕刊だけでないことにようやく気づいた。
 そこにあったのは確かに見たことのある筆跡で、僕の住所と名前が書かれた一通 の手紙だった。切手は貼っていない。
 その時、僕は不意にあの素直の家の前で味わった雰囲気が、何と同じだったのかやっと思い当たった。
 魔王の予言の時と同じだったのだ。
 聞こえる遮断機の音は、坂の上から下へ向けて吹く風に押し流されて途切れ途切れになっている。

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